芹沢ひなた編
第15話 お金を払えば、何度でも[1]
午前四時半。
コンビニの裏口から出た瞬間の冬の空気は、相変わらず肺の奥まで刺さった。
佐久間圭一は肩をすくめ、息を吐いた。
白い息は街灯の光に一瞬だけ浮かんで、すぐ消える。
消えるものは、気楽だ。
消えないものは、厄介だ。
最近、消えないものが増えた。
たとえば——三枝しの。
圭一は駅へ向かう道の途中、いつもの癖でスマホを取り出す。
画面を開き、タイムラインを流す。
眠気の膜の向こうで、指だけが生きている。
しのの投稿は多くない。
だからこそ、見つけたときの“引っかかり”が強い。
「褒めは治療ではありません」
「私は専門家ではありません」
「それでも、言葉が必要な人がいることを知っています」
その温度を、圭一は覚えてしまった。
最初の一度で、少し息ができた。
二度目で、息の“仕方”が分かった気がした。
三度目で、息をしようとする自分を、怖がらずに済んだ。
だから、しのが“仕事”として守っている境界線は、圭一にとって救いでもあった。
同時に、その境界線が崩れたらどうなるのか——という不安も、どこかで育っていた。
圭一は、しのの予約フォームを開く。
固定投稿のリンク。
自分が最初に予約したときから、何度も見たページ。
レンタルスペースの住所。
最寄り駅。
注意事項。
そして、予約枠。
枠は、規則正しく並んでいる。
午後、夕方、夜。
空きがある日と、埋まっている日。
きっちりした時間割みたいな列。
——その列が、今朝は少し違って見えた。
「……減ってる?」
眠気のせいだと思って、圭一は目をこする。
スクロールして、もう一度見る。
別の日も見る。
指先が焦っているのが分かる。
焦っている、というだけで自分が嫌になる。
何を焦っている。
自分は客だ。
予約枠がなければ、取れない。それだけだ。
そう言い聞かせても、画面から目が離れない。
空き枠が、以前より少ない。
というより、“更新が止まっている”感じがする。
枠が埋まっているのは別に珍しくない。
けれど、埋まり方が妙だった。
一週間先まで、同じ時間帯ばかりが連続して埋まっている。
それも同じ種類の枠、対面一時間だけが。
「……誰か、ずっと取ってる?」
口の中で小さく言って、圭一は自分の指を止めた。
人の予約状況を気にするなんて、嫌な性格だ。
関係ない。
自分には関係ない。
それなのに追ってしまう。
しのの仕事は、誰にでも開かれている。
自分だけの場所じゃない。
自分だけの言葉じゃない。
そう理解している。
むしろ、理解しているからこそ、苦しい。
ここに「自分だけ」を作ってしまった瞬間、全部が壊れる気がする。
いつもなら、しのは週のどこかで「今週の枠を更新しました」と短く書く。
その一行があるだけで、圭一は変に安心していた。
変な安心。
でも、確かに。
その一行は、圭一にとって「世界が続いている証明」だった。
自分が夜勤で時間をすり減らしているあいだも、言葉の棚卸しをしている人がどこかにいる。
境界線を守って、無理をしない範囲で続けている人がいる。
——続いている。
——止まっていない。
——投稿がないのは、忙しいだけ。
——枠が減ったのは、何か予定ができただけ。
——深読みするな。
そう思った瞬間に、別の声が胸の奥で囁いた。
——もし、やめたら?
圭一の胸が、ひやりと冷える。
それは、しのがいなくなることが怖いのではない。
「自分の呼吸の仕方」が、また分からなくなることが怖い。
呼吸が分からなくなるのが怖い——ということを、圭一は最近やっと言語化できるようになった。
前は、ただ「眠れない」「だるい」「面倒くさい」しか言えなかった。
言葉が増えたこと自体が、しのの影響だ。
——だから怖い。
——増えた言葉が、減るのが怖い。
圭一はスマホを伏せた。
缶コーヒーが欲しくなる。
でも今日は、喉が甘さを受け付けない。
苦い方がいい。
近くの自販機で缶コーヒーを買い、缶を開ける。
一口飲む。苦い。
苦いのに、嫌じゃない。
“嫌じゃない”が増えたこと自体が、どこか危うい。
何でも飲み込めるようになったわけじゃない。
ただ、苦さを苦いまま置けるようになっただけだ。
――置ける場所。
――置かせてくれる人。
圭一は缶を持ったまま、目を閉じた。
――「信じなくていいです。覚えてなくてもいい」
あの言葉の意味が、今なら分かる。
信じさせてしまったら、責任が生まれる。
覚えさせてしまったら、縛りになる。
しのは、縛らないために言葉を渡している。
縛らないために、止まれる人でいようとしている。
――だからこそ。
もし、誰かが「お金を払えば何度でも」と言い始めたら。
もし、誰かがその境界線を試すように、枠を埋め始めたら。
その時、あの褒め屋はどうなるのだろう。
「……」
声にならない声を、冬の空気に溶かす。
消えるものは、気楽だ。
消えないものは、厄介だ。
厄介なものが、また一つ増えた気がした。
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