第14話 褒められる年齢ではない[7]
夕方。
作業が終わって、工場の音が少しずつ消える。
電気を落とす。
道具を戻す。
床を掃く。
当たり前の繰り返し。
その繰り返しが、今日は少しだけ丁寧になっている。
誰に見せるでもない。
誰に評価されるでもない。
それでも、丁寧にやってしまう。
――続けてきた。
その言葉が、妙に効いている。
効くのが気に入らない。
気に入らないのに、嫌じゃない。
夜。
事務所の蛍光灯だけが残った。
机に書類を広げる。
ペンを持つ。
数字を埋める。
老眼鏡をかけ、外し、またかける。
誰にも見られたくない仕草。
だが、見られたところで何も起きない。
起きないのに、隠そうとする。
隠すのが癖だ。
――癖は、守る。
守るふりをして、閉じ込める。
しのの言葉を思い出す。
「黙るのが得意な人は、黙ることに慣れすぎることがあります」
慣れすぎると、楽になる。
楽になると、怖くなる。
怖い。
確かに、怖い。
何が怖い。
褒めが怖い。
終わりが怖い。
終わりの合図にされるのが怖い。
「この工場は、あなたが作ったんですね」
若い担当者の言葉が、今になって胸の中で鳴り直す。
あの瞬間、正平は反射的に「終わった話にされた」と感じた。
本当は、終わっていない。
まだ立っている。
まだ聞こえる。
まだ触れる。
でも、言葉が「終わり」を呼ぶことがある。
呼ぶのは相手ではなく、自分の中の何かだ。
――自分の中の何か、って何だ。
正平は、机の上のスマホを見た。
枕元に置く道具。
空白を埋める道具。
最近はそうなっている。
指が、勝手にSNSアプリを開く。
投稿欄の白い空欄が出る。
カーソルが点滅している。
書くべきことはない。
誰にも言わないと決めていた。
なのに、書かないと落ち着かない。
――言葉を置きたいのか。
置きたい。
置いて、残したい。
残してどうする。
残しても、誰も見ないかもしれない。
見られたら、むしろ困る。
六十九の男が「褒め屋に行きました」なんて書けるわけがない。
書けない。
書けないことは、書かなくていい。
書かなくていいのに、何かは残したい。
正平は、ゆっくり文字を打った。
「ありがとうございました」
それだけ。
句読点も、絵文字も、説明もない。
誰に向けたのかも書かない。
何に対しての言葉かも書かない。
短すぎて、他人には意味がない。
意味がないから、これでいい。
送信ボタンに指を置いた瞬間、心臓が少しだけ速くなる。
何をしている。
誰に見せる。
誰に知られる。
知られたら、どうする。
――知られたくないくせに、残したい。
この矛盾が、今日の自分だ。
矛盾のままでいいと言われた気がして、正平は送信を押した。
投稿が流れる。
タイムラインに、一行だけ載る。
「ありがとうございました」
それだけで、正平は息を吐いた。
見えない荷物をひとつ置いた感じ。
置いた場所が分からないのに、軽くなる。
軽くなるのに、胸の奥は重いままだ。
重いままでも、息ができる。
正平はスマホを伏せて、蛍光灯の白い光を見上げた。
明日もシャッターは音を立てる。
体は勝手に動く。
いつも通りの一日が始まる。
いつも通りの中で、
今日の余り物が、どこまで残るのか分からない。
それでも――。
――六十九歳まで、仕事を続けてきた。
それだけ。
それだけの言葉が、今夜は消えなかった。
――同じ頃。
バイト先のコンビニのバックヤードで、佐久間圭一は短い休憩に入っていた。
夜勤の休憩は、静かだ。
店が落ち着く時間帯に、やっと座れる。
缶コーヒーを開け、苦い一口を飲む。
スマホを見たくなる。
見たところで、疲れが取れるわけでもない。
それでも指が動く。
タイムラインを流し見していると、短い投稿が目に入った。
「ありがとうございました」
それだけの投稿。
誰にでも書ける言葉。
味気ない感想。
なのに、圭一の指が止まった。
理由は分からない。
ただ、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
この一行は、たぶん軽くない。
そう思った瞬間、バックヤードの扉が開いて同僚が顔を出した。
「さっきさ、ちょっと面白い客いた」
「面白い?」
「おじいさんってほどでもないけど、年配の人。水だけ買って、なんか……妙に丁寧に頭下げてった。怒ってるとかじゃなくてさ。逆にこっちが気を遣う感じ?」
「へえ」
「こういうの、たまにあるよな。何があったんだろって客」
圭一は、「そうだな」とだけ返した。
それ以上は聞かなかった。
聞いたところで分からない。
分からないことに、慣れている。
でも、圭一の頭の中で、さっき見た一行と同僚の話が、勝手に重なった。
「ありがとうございました」
誰に向けた言葉か、分からない。
何があったのか、分からない。
それでも、残る。
圭一はスマホを伏せ、缶コーヒーをもう一口飲んだ。
苦い。
苦いのに、嫌じゃない。
休憩は終わる。
またレジに立つ。
いつも通りの夜勤が続く。
ただ、胸の奥に残った違和感だけが、静かに次へ繋がっていく。
圭一はまだ知らない。
今日、同じ店で水を買った男が、「褒められる年齢ではない」と言いながら言葉ひとつで呼吸を取り戻したことを。
誰かが置いた一行に、それを見た圭一の指を止めていたことを。
言葉は、広がる。
派手ではなく、静かに。
バックヤードの扉が閉まる音がして、空気が元に戻った。
圭一はスマホを伏せた。
黒い画面に、蛍光灯の白が細長く映る。
缶コーヒーをもう一口。
やっぱり苦い。
喉の奥に残った苦さを、飲み込むように息を吐く。
レジへ戻る時間だ。
立ち上がる。
制服の袖を引く。
「ありがとうございました」
頭の中でその一行だけが、まだ消えなかった。
――目立たない形のまま、重さだけを残して。
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