第13話 褒められる年齢ではない[6]
階段を下りる音が、正平にはやけに大きく感じられた。
靴底がコンクリートを叩く。
一段ごとに、身体の重さが少しずつ戻ってくる。
さっきの部屋の空気は「整って」いた。
温度も湿度も、言葉の間も。
工場のように油の匂いもしないし、機械の振動もない。
なのに、胸の奥だけが重い。
――六十九歳まで、仕事を続けてきました。
それだけ。
それだけの言葉を、どう扱えばいいのか分からない。
褒められた覚えは、ほとんどない。
褒められたとしても、受け取った覚えがない。
受け取る前に、逃げたのかもしれない。
受け取るのは、居心地が悪いからだ。
階段の踊り場で、正平は一度だけ立ち止まった。
止まったこと自体に、自分で驚く。
工場なら止まらない。止まっている暇があったら、次の段取りに移る。
止まるのは、遅れの原因になる。
だが今、止まる理由が「遅れ」ではない。
止まらないと、さっきの言葉が落ちる気がした。
落ちて消えて、なかったことになる気がした。
――なかったことにするのは、得意だ。
正平は自分の得意を思い出して、少しだけ顔をしかめた。
得意なことほど、人を勝手に守る。
守るふりをして、閉じ込める。
「……」
声は出ない。
出す必要もない。
ただ、息を吐いて、また一段下りる。
ビルを出ると、昼の街が広がっていた。
駅前の人混み。
信号の音。
小さな笑い声。
買い物袋の擦れる音。
それらが、急にうるさいわけではない。
むしろ、いつも通りだ。
いつも通りなのに、正平は「戻った」と感じてしまう。
――戻った、って何だ。
何かを取りに行ったわけでもない。
何かが終わったわけでもない。
ただ一時間、知らない部屋で、知らない女と向き合っただけだ。
それなのに、戻ったという感覚がある。
正平は、駅へ向かわず、少し遠回りをした。
遠回りと言っても、意識的ではない。
足が勝手に、駅前の喧騒から外れる道を選んだ。
自分の行動が、自分の指示を受けていない。
それが妙に落ち着かない。
――若い頃は、身体が勝手に動くことが頼もしかった。
――今は、勝手に動くと不安になる。
不安になる理由が、年齢のせいなのか、さっきの言葉のせいなのか分からない。
分からないまま歩いて、角を曲がると小さなコンビニが見えた。
馴染みのある看板。
工場近くの、いつも通る店だ。
正平は立ち止まり、看板を見上げた。
入る理由はない。
だが入らない理由もない。
――空白を埋めたいだけだ。
そう思ってしまった瞬間、自分に少し腹が立つ。
空白は埋めるものじゃない。
空白を抱えたまま、仕事をしてきた。
空白があるから、次の工程が入る。
空白を嫌うと、歪む。
それでも、正平はドアを押した。
鈴の音が鳴って、冷気が頬に触れる。
いつもの匂い。
惣菜と洗剤が混ざった匂い。
レジの電子音。
棚の整然とした列。
店内は混んでいない。
昼の時間にしては静かだった。
レジに、若い男が立っていた。
背の高い、疲れた目をした男。
制服の袖をきっちり整えているのに、どこか「心だけ」遅れているような顔。
正平は、その男をじっと見たわけではない。
ただ、目の端で捉えて、すぐに棚へ視線を移した。
――こういう顔、見たことがある。
自分の若い頃かもしれない。
工場に入ってきた新人かもしれない。
いや、違う。
「顔」じゃない。
――「黙って疲れている人」の匂い。
そんな匂いがした。
正平は、水を一本取って、レジに向かった。
買うものが水でいいのかどうかも分からない。
缶コーヒーじゃないのか、飴じゃないのか。
考えるのが面倒になって、水にした。
レジの男がバーコードを通す。
「150円になります」
声は低く、淡々としている。
店員としては普通だ。
普通なのに、正平はそこで「整っている」と感じてしまう。
――整っている。
――なのに、疲れている。
不思議な感覚だった。
正平は財布を開け、小銭を探す。
指が少し遅い。
遅いのが、恥ずかしい。
だが、恥ずかしがっても早くならない。
結局、千円札を出した。
男がレジからお釣りを渡す。
指先が触れる距離。
触れない。
触れない距離のまま、受け渡しが終わる。
「ありがとうございました」
男が言う。
店員としての言葉。
礼儀の言葉。
なのに、正平の胸の奥が小さく反応した。
――礼儀の言葉は、軽いはずだ。
軽いはずなのに、さっきの部屋を思い出してしまう。
「こちらこそ」と言われた時の、あの静かな目。
正平は一瞬だけ口を開きかけた。
同じ言葉を返すべきか、返さないべきか。
礼儀としては返す。
だが、返したら「何か」が漏れる気がした。
漏れると困る。
困る理由が、分からない。
結局、正平は何も言わず、軽く頭を下げて店を出た。
外の空気が、さっきより冷たく感じた。
手の中の水が、透明で、やけに頼りない。
――俺は、何を買ったんだ。
水じゃない。
水のついでに、何かを買った。
買った気がする。
レシートはあるのに、商品が足りない感じ。
正平は歩きながら、水のキャップを開けて一口飲んだ。
冷たさが喉を通る。
身体が「生きている」ことだけが確かになる。
その確かさだけで、少しだけ落ち着いた。
工場へ戻る道。
影の角度。
道路の細かなひび。
街路樹の枝先。
いつも見ているはずの景色が、今日はやけにくっきりしている。
視界が良くなったわけじゃない。
ただ、頭の中の雑音が少し減ったのかもしれない。
――六十九歳まで、仕事を続けてきた。
それだけ。
それだけの言葉が、胸の奥でまだ沈まない。
工場のシャッターをくぐると、油の匂いが戻ってきた。
鉄。埃。
少し焦げたような熱の匂い。
安心する。
ここは自分の場所だ。
自分が立つ場所だ。
足の裏が、床の冷たさを覚えている。
正平は現場に立って、機械の音を聞いた。
嫌がる音がしていないか。
刃が逃げていないか。
金属が噛む手前の気配がないか。
手のひらで振動を確かめる。
確かめる、という作業は正直だ。
確かめた結果だけが残る。
――言葉も、こうならいいのに。
そう思ってしまって、正平は小さく苦笑した。
言葉は寸法じゃない。
誤差でできている。
誤差の方が、人を動かすことがある。
午後の作業は、いつも通りに進んだ。
若い社員が材料を運び、機械を動かし、段取りを組む。
正平は必要なところだけを見て、必要なところだけを触る。
「小川さん、これ……」
呼ばれて、正平は近づく。
新しい治具の取り付けが甘い。
少し角度が違う。
正平は説明しない。
言葉にすると、余計なものが混ざる。
手だけ動かして見せる。
「ここ。角度。まっすぐじゃない。こう」
「……こう、ですか」
「そう。これで、無駄が減る」
若い社員は目を丸くして、頷く。
「ありがとうございます」と頭を下げる。
礼儀。
温度。
評価ではない。
――評価されたいわけじゃない。
頭では分かっている。
分かっているのに、胸の奥に小さな空白が残る。
その空白に、さっきの言葉が滑り込む。
六十九歳まで、仕事を続けてきた。
それだけ。
それだけの言葉が、空白を埋める。
埋めるというより、空白の輪郭を作る。
空白が「空白であること」を認めてしまう感じ。
空白を認めると、今度は別のものが浮かぶ。
――続ける、って何だ。
続けてきたつもりはない。
やることがあるから、やってきただけだ。
やめたら困る人がいるから、やってきただけだ。
生活があるから、やってきただけだ。
それが「続けてきた」になるのなら、
続けてきたことは、当たり前じゃないのか。
いや、当たり前じゃないと言われると、困る。
困る理由が分からない。
正平は、機械の音を聞きながら、その困りを胸の奥に置いておいた。
置いておける。
置くのは得意だ。
だが今日は、置いたままにできない気配があった。
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