第9話 褒められる年齢ではない[2]
昼過ぎ、取引先が来た。
若い担当者で、スーツの袖口がきちんとしている。
たぶん、まだ三十に届かない。
挨拶、名刺交換、雑談。
スムーズだ。若いのに、そつがない。
正平はそういう人間を嫌いではない。
ただ、距離の取り方が分からないときがある。
「この工場は、あなたが作ったんですね」
担当者がそう言ったとき、正平はうまく返事ができなかった。
作った。
守った。
続けてきた。
それを今さら言葉にされると、どう返せばいいのか分からない。
「ああ、まあな」
そう言うのが精一杯だった。
担当者は、悪気なく頷いた。
「すごいですね」と言いそうな口元だったが、
言葉を飲み込むように笑って、話題を戻した。
――助かった。
そう思ってしまった自分がいる。
褒めてほしいわけじゃない。
評価されたいわけでもない。
ただ、自分がやってきたことが「もう終わったこと」になっていく感じがどこかで引っかかっていた。
終わったわけじゃない。
今も、工場に立っている。
機械の音も聞ける。
指も動く。
なのに、「終わったこと」みたいに扱われる。
いや、扱われてはいない。
自分が勝手にそう感じているだけだ。
その感覚を誰かに話すつもりはなかった。
話したところで、どうにもならない。
六十九歳だ。
人生の終盤に差し掛かっている。
それは、誰がどう見ても明らかだ。
褒めは、若い人のものだ。
そう思って、生きてきた。
だから、その言葉を見たとき、最初は笑った。
――褒め屋。
夜、布団に入っても、すぐ眠れない日が増えた。
体は疲れているのに、眠りの入り口だけが遠い。
正平は枕元のスマートフォンを手に取り、意味もなく画面を眺めていた。
昔はこんなもの、必要なかった。
だが今は、これがないと落ち着かない。
便利というより、空白を埋める道具になっている。
指が勝手に動いて、検索窓を開く。
気づけば「褒め屋」と打っていた。
自分で自分が可笑しくなる。
金を払って褒めてもらうなんて、冗談みたいな話だ。
六十九の男がそんなことをする。
誰に言っても笑われる。
正平は画面を指で弾き、閉じようとした。
だが、閉じなかった。
派手な言葉がなかった。
余計な説明もなかった。
見た目は地味で、むしろ素っ気ない。
「治療ではありません」
「人生相談ではありません」
そこだけが、妙に目に残った。
――じゃあ、何なんだ。
正平はしばらく画面を見つめたまま、動かなかった。
褒めてほしいわけじゃない。
分かっている。
ただ、誰にも役割を求められずに話をする場所が、今の自分にあるのかどうか。
それを、確かめたかった。
誰にも求められずに、というのがポイントだった。
家族に話せば心配される。
社員に話せば気を遣われる。
取引先に話せば弱みに見える。
それなら、誰にも話さないほうがいい。
正平はずっとそうしてきた。
だが、話さないまま積もっていくものがあることも、最近は分かってきた。
積もったものは、ある日突然、形を変える。
怒りになったり、無気力になったり、
あるいは――「もういい」という諦めになったりする。
諦めは、静かで、便利だ。
でも、一度慣れると戻れない。
正平はそれを知っている。
職人は、戻れないものをいくつも見てきた。
だから、確かめたい。
自分がまだ、戻れる側なのかどうか。
予約フォームを開いたとき、年齢欄に「69」と入力する指が、ほんの一瞬だけ止まった。
――場違いだな。
そう思った。
だが、消さなかった。
この歳で、褒めを買う。
その事実が、情けないというより、奇妙だった。
だが、奇妙さは悪じゃない。
奇妙さの中にしか見つからない答えもある。
「褒めてほしいポイント」
その欄は空白のままにした。
若い人のように「頑張っていること」も「挑戦していること」ももう書けない。
書けない、というより、
書く気にならない。
それを「褒めてほしい」と言った瞬間、
自分の人生が急に軽くなってしまう気がした。
それでいい。
送信ボタンを押したとき、胸の奥が、少しだけ重くなった。
これで何かが変わるとは、思っていない。
ただ一度だけ、褒められる年齢ではない自分が、どんな言葉を渡されるのか。
それを確かめてみたくなっただけだった。
送信完了の画面が表示される。
それだけのことなのに、正平は息を吐いた。
まるで、見えない荷物を一つ下ろしたみたいに。
――たった一度だけだ。
そう言い聞かせる。
誰にも知られないまま、
誰にも期待されないまま、
ただ言葉を渡されに行く。
正平はスマートフォンを伏せ、
暗い天井を見上げた。
明日も、工場のシャッターは音を立てる。
体は勝手に動く。
いつも通りの一日が始まる。
いつも通りの中で、
少しだけ違うことが起きる。
その予感だけが、胸の奥に残っていた。
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