小川正平編
第8話 褒められる年齢ではない[1]
朝、町工場のシャッターを上げる音は正平にとって目覚ましのようなものだった。
金属が擦れる、少し鈍い音。
それを聞くと、体が勝手に動く。
目が覚めて、今日も一日が始まる。
小川正平(おがわしょうへい)は、六十九歳だった。
若い頃なら、胸を張って「まだ現役だ」と言ったかもしれない。
だが今は、そういう言い方をしない。
現役かどうかは、自分で決めることじゃない。
周りが決めるものだと、いつの頃からか思うようになった。
工場の中は、いつもと同じ匂いがした。
油。鉄。少し焦げたような埃。
長年染みついたそれは、もう「匂い」として意識することもない。
それでも、季節の匂いだけは少し違う。
冬は冷えた鉄が息を吸うみたいに冷たく、夏は油が粘りを増して汗と混ざる。
今日はその中間で、朝の空気がまだ少し尖っていた。
正平は作業着の袖口を引き、手袋をはめる。
指先は少しだけ遅い。若い頃のように、起きてすぐに「動く」わけではない。
だが、動き始めれば体は覚えている。
機械の横に立つと、足の裏がその場所の重みを思い出す。
若い社員が、数人、先に来ていた。
挨拶を交わす声はあるが、それ以上の会話はない。
「おはようございます」
「おはよう」
短いやり取り。声の温度は悪くない。
ただ、そこに雑談が混じらない。
昔は、もっと話していた気がする。
仕事の段取り。
失敗談。
どうでもいい雑談。
昨日のテレビ。近所の飯屋。誰の車が故障した、なんて話。
今は違う。
彼らは彼らで仕事をしている。自分は自分の仕事をしている。
それでいい。そう思ってきた。
正平は現場に立つ。
機械の音を聞く。
微妙な振動を手のひらで確かめる。
この感覚だけは、まだ衰えていない。
若い連中より分かることもある。
機械が「嫌がる」音。
刃が「逃げる」瞬間。
金属が「噛む」手前の、わずかな気配。
それを誇ることはない。
教えることもしない。
求められたら答える。それだけだ。
――仕事は、見せびらかすものじゃない。
昔からそうだった。黙ってやる。
できて当たり前。
当たり前を続けてきた者に、派手な言葉は必要ない。
そう、思っていた。
親方に言われた言葉がある。
「仕事はできるのが当たり前だ。褒められるうちは、まだ半人前だ」
正平はその言葉を疑わなかった。
褒められるのは、若い頃だけ。
一人前になれば、評価されなくなる。
それは自然なことだ。
だから、誰も自分を褒めなくなったことに、不満を感じたことはなかった。
……なかった、はずだった。
午前の作業が一段落し、正平は事務所に戻った。
机の上には書類が積まれている。
納品書。請求書。見積もり。
工場の仕事は、機械だけじゃ回らない。
紙と数字で回っている。
ペンを握って、項目を埋める。
手書きの文字が少しだけ乱れる。
老眼鏡をかけ、外し、またかける。
それを誰にも見られたくないと思う自分がいるのが、少し滑稽だった。
最近、自分が「評価されない」ことよりも、「評価される場にいない」ことのほうが気になっている自分に気づいた。
若い社員が褒められている。
成果を出した。
新しい機械を覚えた。
取引先と上手くやった。
休憩のとき、若い社員たちが笑っている。
話題の中心にいる者がいて、周りがそれを受ける。
その輪に正平が入ることはない。
入ろうともしない。
入る必要がないと、ずっと思ってきた。
それを見て羨ましいとは思わない。
ただ、その輪の外に自分がいることを、初めてはっきり自覚した。
それだけだ。それだけの話なのに――。
胸の奥が、わずかに重い。
――俺は、もう、褒められる側じゃない。
そんな気持ちになる。
しかし、それは事実だ。
今さら誰かに「よくやりました」と言われたいわけじゃない。
――それなのに。
「あの、小川さん」
工場の隅で、若い社員が声をかけてきた。
新しい治具の取り付け方が分からないらしい。
正平は近づき、説明するでもなく、ただ手を動かして見せた。
「ここ。角度。まっすぐじゃない。こう」
「……こう、ですか」
「そう。これで、無駄が減る」
若い社員は「ありがとうございます」と頭を下げた。
その「ありがとうございます」は礼儀で温度はあるが――評価ではない。
昔なら、それで十分だったはずだ。
必要なときに必要とされる。それが仕事だ。
だが、今日の正平は、そこにわずかな空白を感じてしまった。
――礼はある。
――でも、それ以上はない。
――当然だ。俺は教える側だから。
頭では分かっているのに、胸の奥がついてこない。
それが何なのか、正平には言葉にできなかった。
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