第7話 褒め言葉は、拡散される[3]
帰り道、白石ゆいは久しぶりにSNSを開いた。
しばらく触らないようにしていた画面が、指先に少しだけ馴染まない。
馴染まないのは、画面じゃなくて自分のほうだと気づいて、ゆいは小さく息を吐いた。
何かを書かないと、落ち着かなかった。
でも、何を書けばいいのかは分からない。
書きたいことはある。
たくさんある。
――怖いとか、安心とか、褒めないとか、壊すとか。
でも、それを言葉にしてしまうと、今日感じたものが薄くなる気がした。
薄くなるのが怖い。
薄くなったら、またいつもの“軽い言葉”の世界に戻ってしまう。
画面に、短い文章を打つ。
【今日、ちょっと変わった人に会いました】
【褒めてくれる人、ではなかったかも】
【でも、悪くはなかったです】
読み返して、ゆいは眉を寄せた。
曖昧だ。あまりにも。
誰が読んでも何の話か分からないだろう。
それでいい、とも思うし、
それじゃだめだ、とも思う。
“分からない”を出すのは怖い。
普段のゆいは、分かりやすく出す。
分かりやすいほど伸びる。
伸びるほど褒められる。
褒められるほど、また分かりやすくなる。
今日は、それをしたくなかった。
――言い切りたくなかった。
――まとめたくなかった。
送信ボタンを押すまで、ほんの数秒だけ迷った。
迷う秒数が長く感じた。
迷う間に過去の自分が頭の中で囁く。
「投稿しなきゃ。止まったら終わり」
「曖昧はだめ。誤解される」
「誤解されるのが怖いなら、何も出さないほうがいい」
でも今日は、その声を完全には信じなかった。
信じない、というより。
信じ切れなかった。
その“信じ切れなさ”が、今日の余韻だった。
それでも、押した。
投稿してすぐに反応がつき始める。
「気になる」
「誰それ」
「褒め屋?」
「なにそれ行きたい」
「また匂わせ?笑」
「ゆいちゃん最近どうした」
画面が、にわかに動き出す。
その速度に、ゆいは懐かしさと同時に少しの恐怖を覚えた。
――ああ、まただ。
――また、拡散される。
過去にも、何度もあった。
曖昧な一言が勝手に意味を付けられ、別の文脈で消費されていく。
“匂わせ”という単語が、ゆいの胸を軽く叩く。
匂わせているつもりはない。
でも、匂わせだと言われると、反論する気力がない。
反論したら、それもまたコンテンツになる。
ゆいは、少し距離を置いて眺める。
通知が増えていく画面。
いいねの数。コメントの流れ。
知らない人同士が勝手に話を広げていく様子。
以前なら胸が高鳴ったはずだった。
自分の言葉が誰かに届いているという実感。
存在を確かめられる感覚。
でも今日は、それが少し遠かった。
遠いのに、切れない。
目を離せない。
――私は、まだここから降りられてない。
そう思うと同時に、
――降りたいわけでもない。
という矛盾も出てくる。
降りたいわけじゃない。
ただ、選びたい。
褒められるためにやるのではなく、
自分で“言葉を置く”ためにやりたい。
その差が、今日のゆいには大きかった。
コメント欄を閉じる。
DMの通知が光る。
開けば、いくつかの「心配」が並んでいるのが分かる。
心配は優しい。
優しいけれど、心配もまた“反応”だ。
反応として消費される心配は時々苦い。
その夜、白石ゆいは、思い切って通知を切った。
設定画面でスイッチを押す。
たったそれだけ。
なのに……指が少し震える。
画面が静かになる。
それだけで、部屋の空気が変わった気がした。
テレビもつけない。
音楽も流さない。
無音な空間。
部屋の中心。
椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
静かになると、胸の奥の音が聞こえる。
自分の呼吸。
自分の心臓。
そして、昼間の“褒めない”という言葉。
褒めは、人を救うこともある。
それは――確かだ。
でも同じ褒めでも、同じ形で届くわけじゃない。
今日会った女性は、それを分かっていたのか、分かっていなかったのか。
それはまだ分からない。
ただ一つ確かに言えるのは、
あの人は自分を「褒める側」に閉じ込めなかった、ということだ。
褒めるか、褒めないか。
その選択肢を、こちらに残したままにした。
それが、妙に心地よかった。
心地よいのに、痛い。
痛いのに、嫌じゃない。
嫌じゃないから、言葉にしたくない。
「充分だった」と言い切るほど整理はできていない。
でも今日は、無理をしなくていいと思えた。
それだけで、今日は、ここまででいい。
ゆいはスマートフォンを伏せ、深く息を吐いた。
胸の奥に、まだ名前のついていない感情が残っている。
それを、急いで言葉にする気にはなれなかった。
――少し離れた場所で。
コンビニの休憩室。
夜勤明けの時間帯。
佐久間圭一は、缶コーヒーを片手にスマートフォンを眺めていた。
何気なく開いたタイムラインに、短い投稿が流れてくる。
【今日、ちょっと変わった人に会いました】
曖昧な言い回し。
でも、圭一の指が止まる。
理由は分からない。
ただ、胸の奥で何かが同じ形をした。
“褒め”の周りにある、説明できない余韻。
自分の時にも残った、あの感じ。
「褒め屋……か」
コメント欄は騒がしい。
勝手に意味が作られていく。
拡散の速度が、容赦なく言葉を軽くしていく。
圭一は、投稿そのものより、
その投稿が置かれた場所の騒がしさに目を向けた。
――同じ人の話なのに。
――全然、違う。
そう感じた理由を、うまく言葉にはできなかった。
でも、分からないままでも、指は止まった。
圭一は缶コーヒーを一口飲んで、スマホを伏せた。
苦い。
苦いのに、嫌じゃない。
言葉は、拡散される。
軽くなる。
でも、軽くなったあとに残る“重さ”があることを、
圭一はもう知ってしまっている。
白石ゆいはまだ言葉にできない。
佐久間圭一も、まだ分からない。
ただ、二人の胸に残った違和感だけが、静かに次の物語へと続いていた。
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