第6話 褒め言葉は、拡散される[2]

予約したレンタルスペースは、拍子抜けするほど普通だった。


白い壁。

簡素な机。

少しぐらつく、安っぽい椅子。


癒しを売っている感じもなければ、スピリチュアルを匂わせる飾りもない。

観葉植物すら置かれていない。

香りも音も、演出がない。


それが、少しだけ腹立たしかった。


――もっと、それっぽいと思っていた。

――安心できる空間とか、整えられた雰囲気とか。


そんなものを、自分が期待してしまっていたことに気づいて、白石ゆいは奥歯を噛みしめた。


期待している時点で、自分はもう“客”だ。

“客”であることは悪くない。

でも、ゆいはずっと“見られる側”で生きてきた。

客になるのが下手だった。


ドアを開けた瞬間、ゆいは反射的に背筋を伸ばした。

「今日はすっぴん寄りでいい」と思っていたのに、結局きっちりメイクをしてきた。

髪も巻いた。

服も、無難に褒められるやつ。


自分の“無難”は、他人に褒められる無難だ。

無難を着てきたことが、急に恥ずかしくなる。


「……思ったより、普通ですね」


つい口に出してしまってから、言わなくてもよかったかもしれない、と思う。

目の前に座る女性――三枝しのは、その言葉を否定もしなければ、気まずそうに笑うこともしなかった。


「そう言われることはあります」


――ただ、それだけ。


フォロワーの反応とは、あまりにも違う。

肯定も、共感も、装飾もない。

“盛らない”。


その距離感が少しだけ居心地が悪かった。


――この人は、私をどう扱うつもりなんだろう。


お客として?

商売相手として?

それとも、ただの一人として?


しのは、開始の確認をする。


「一時間です。途中で止めたくなったら止めて大丈夫です」


その言い方は優しいのに慰めではない。

ルールの説明に近い。


ゆいは頷く。

頷きながら、心のどこかで“逃げ道がある”ことに安心する。

逃げ道が必要な自分が嫌なのに必要だ。


「褒めてほしいポイント、空欄でした」


しのが淡々と言う。

責める声ではない。

事実として置く声。


ゆいは一瞬だけ笑いそうになる。

インフルエンサーが、褒めてほしいポイントを空欄。

笑える。皮肉すぎる。


「……書けなかったです」


「書けない方もいます」


しのは言い切らない。

“多いです”とも“普通です”とも言わない。

それが、逆に怖い。

普通だと言ってくれれば楽なのに。


ゆいは、話し始める。

フォロワーの数。

過去の投稿。

褒められ続けた感覚。

それが、だんだん怖くなっていったこと。


話しながら、言葉が自分の中で勝手に整理されていくのが分かる。

整理されるのが嬉しいのに、同時に怖い。

整理されたら、次に何かを決めなきゃいけない気がするからだ。


しのは聞くだけだった。

相槌は最小限。

表情も大きく変わらない。


肯定しない。

驚かない。

慰めない。


その沈黙が、だんだん怖くなってきた。


フォロワーの世界では、沈黙は拒絶だった。

反応がない=興味がない。

興味がない=価値がない。


そんな単純な式が、体に染みついている。


沈黙が続くたびに、ゆいの中の“数字”が暴れ出す。

今の発言、ウケた?

刺さった?

共感された?

されてないなら、価値がない?


「……あなたも、褒め屋ですよね」


確認するように言ったのは、この沈黙に耐えられなくなったからだった。

“反応を引き出す”ための言葉。

いつもやっていること。

炎上しないギリギリの強さで、相手の温度を引き出す。


「じゃあ、同じじゃないですか」


言ってしまった瞬間、少し強すぎた、と分かった。

責めたいわけじゃない。

でも、引き返せなかった。


「お金を払ったら、肯定してくれる。それって、私が今まで浴びてきた褒めと何が違うんですか」


言葉にしてしまえば、それはほとんど八つ当たりだった。

それでも、八つ当たりが出るということは、“ここが安全”だと、どこかで思っている。


しのはすぐには答えなかった。

沈黙が落ちる。

その沈黙が、画面越しの沈黙よりずっと重い。


画面越しの沈黙は切り取れる。

ブロックもできる。

閉じれば終わる。


でも、目の前の沈黙は、逃げ場がない。

逃げ場がないのに、殴ってこない。

それが逆に、落ち着かない。


「同じだと感じるなら」


しのは静かに言った。


「今日は、褒めない方がいいかもしれません」


ゆいは一瞬、言葉を失った。

想定していた答えは、どれでもなかった。


否定されるか。

論破されるか。

優しく諭されるか。


どれかだと思っていた。


褒めない、というのは反則だった。

だってここは“褒め屋”なのに。


「……それって、逃げじゃないですか」


思わず、そう返していた。

返した瞬間、自分の声が少し震えているのが分かる。


でも、その直後、胸の奥がふっと緩んだ。

逃げだと思ったのに。

同時に、ほっとしている自分がいた。


褒められないことに安心している。

それは、ゆいの中でずっと言葉にできなかった感覚だった。


「私は、言葉を渡します」


しのは続ける。


「でも、それが誰かを壊すなら――渡さない選択もします」


壊す。

その言葉で、ゆいの中の何かが止まった。


壊れている自覚は、ある。

でも、壊れていると断定されたくはない。

断定されたら、そこに閉じ込められる。


なのに、しのの言い方は断定ではなかった。

“可能性”として置く。

“選択”として置く。


だから余計に逃げられない。


「……私、褒められるのが怖いんですよね」


ゆいは、口から出た言葉に自分で驚いた。

怖い、なんて言うつもりはなかった。

でも出た。


しのは頷きもしない。

否定もしない。

ただ、言葉を拾う。


「怖い、は。具体的にどんな怖さですか」


ゆいは一瞬、息を詰めた。

具体的に、と言われると逃げたくなる。

自分の曖昧さが、剥がされるからだ。


「……褒められると、安心する。安心すると、またやる。またやると、もっと褒められる。で、いつの間にか、やめられなくなる」


「やめられなくなる」


しのが言葉を返す。

返されるだけで、ゆいの胸が少し疼く。

自分の言葉が、ここで“形”になってしまう。


「褒められないと、不安になる」


ゆいは続けた。

続けたら止まらなくなりそうで怖いのに、続ける。


「不安になると、投稿する。投稿すると、褒められる。……それで、落ち着く。でも落ち着くのって数時間で。また不安になって。それ繰り返してると、何のためにやってるのか分からなくなる」


しのは、初めて少しだけペンを動かした。

カリ、と小さな音。

その音が、ゆいの言葉に“重さ”を与える。


「白石さんは、褒められることで自分を確かめてきた」


「……そう、だと思います」


「確かめるのは、悪いことではないです」


そこで、しのが一度止まる。

ゆいは身構える。

“でも”が来ると思ったからだ。


「ただ。褒めが確かめる道具になりすぎると、褒めは内容を失います」


内容。

ゆいの中に、過去のコメントが流れる。

“全部が魅力”

“何しても可愛い”

“それも含めて好き”


内容がない。

優しいけれど、輪郭がない。


「輪郭がない言葉は、安心にはなります。

でも、安心は“存在の証明”にはならないことがあります」


存在の証明。

その言葉で、ゆいの喉が少しだけ痛くなる。


「……じゃあ、私は」


言いかけて止まる。

結論が欲しい。

欲しいのに、結論が怖い。


しのは、結論を渡さない。

代わりに、短い事実を置く。


「白石さんは、今日ここに来ました」


ゆいは瞬きをした。

それ、圭一のときと同じだ。

同じ言葉が、別の人にも刺さるようにできている。


「褒められる側の人ほど、“褒められない場所”に来るのは怖いです」


ゆいの胸が、少しだけ反発した。

褒められない場所?

ここは褒め屋なのに。


でも、しのが言っているのは、たぶん“外側”の話ではない。

自分の中で、褒めが止まる場所のことだ。


「白石さんは、怖い場所に来た。それは、簡単ではありません」


ゆいは、返事ができなかった。

褒められたくて来たのに。

“褒めない”と言われてほっとして。

その上で、こういう事実を置かれる。


褒めの形が違う。

甘くない。

でも、嘘じゃない。


一時間は、短かった。

期待していた「救い」はなかった。

分かりやすい「肯定」もなかった。


代わりに残ったのは、自分が何を怖がっていたのか、まだ言葉にできない重たい感覚だった。


「正直、期待してたのと違いました」


そう言ったとき、ゆいは本当にそう思っていた。

がっかりしたのか。安心したのか。

自分でもまだ分からない。


しのは「そうですか」とだけ言った。

引き留めもしない。

評価もしない。

その距離が、今日のゆいには効いた。


「でも……」


続く言葉を、自分で探しているのが分かった。

喉の奥に、まだ言葉が残っている。


「少なくとも、“また褒められたい”とは、思わなかったです」


それは、褒め言葉ではない。

感謝とも、批判とも言えない。

でも、嘘ではなかった。


部屋を出たあと、ゆいは階段を下りながら何度もスマートフォンを取り出しかけて、やめた。


今すぐ、誰かの反応を見たい気もする。

でも、それをしたら、今日のこの感覚が薄れてしまう気がした。


胸の奥に残った、まだ名前のついていない感情。

それだけは、もう少し、手元に置いておきたかった。

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