第8話

「ああ、今日も家に着く頃には、すっかり日が暮れていたな・・・」


山積みの書類を片付け、明日の授業準備に取り掛かる。教科のプログラムをきっちり組むのが好きな菅野は、生徒たちが分かりやすいよう工夫を凝らしたプリントや参考図書、スライドなどを用意していると、いつもこのくらいの時間になってしまう。


家に着くと、テレビを見ながら夕飯を食べ、風呂に入り、余力があれば小説を読んで眠る。そんな規則正しい生活を送っている。真面目と言えば聞こえはいいが、面白味のない男だと自覚していた。


ネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを二つ外した状態で夕食をとる。コンビニで買ってきた弁当とビール。テレビからはお笑い番組の陽気な声が聞こえる。縁側から見下ろす海は、静かに波打っていた。


ブーブー


玄関の呼び鈴が鳴る。


「こんな時間に誰だろう」


菅野は立ち上がり、引き戸を開けた。


ガラガラガラ


「うわっ!」


引き戸のすぐ近くに生来が立っていたため、顔と顔が異常なほど近く、菅野は慌てて後ろに下がった。


「こんばんは。これ、母さんが菅野先生に渡してこいって。スペアリブの煮込みと、自治会のゴミ当番の表。俺ん家、今年班長だから、これも渡すように言われたんだ」


生来から表と洒落た料理が入ったタッパーを受け取った菅野は、その香りに顔をほころばせた。


「いい香りがするね。お母さんにごちそうさまと伝えてくれ。本当に美味そうだ。届けてくれてありがとう」


引っ越したばかりで、こんな温かい気遣いをしてもらえることに、思わず笑顔がこぼれる。


「ん? 生来? どうした?」


耳まで真っ赤になった生来が目の前にいた。菅野が「大丈夫か?」と尋ねる間もなく、


「じゃあ!」


と、生来は走り去ってしまった。


「明日も学校で会おうな!」と言えばよかったと心の中で呟きながら、菅野は引き戸を閉めた。少し蒸し暑さを感じる夜だった。


・・◇・・◇・・◇・・◇・・◇・・


菅野に届け物をし、自分の心臓がどきどきしていることに生来は驚きを隠せないでいた。部屋のベッドに寝転がり、まだ落ち着かない気持ちに動揺していた。


「なんだ、これ・・・ってか、あいつは男だぞ」


自分を落ち着かせようと目を閉じると、そこに現れるのは、菅野の屈託ない笑顔と、ワイシャツからのぞく褐色の肌、そして自分を見下ろすくらいの背。頭で振り払っても、菅野の姿が鮮明に浮かび上がる。生来の心は今まで感じたことのない感覚に目覚め始めていた。


これまで一度も、男性を恋愛対象として意識したことなんてなかった。人間関係における感情的な繋がりについても、かなり淡白な方だと思っていたし、特に誰かに心を揺さぶられることもなかった。ただ、日々の生活を淡々と送る日々・・・


そんな自分を冷めていると思っていたし、兄の死が少なからず影響を及ぼしていると考えていた。


「かんの・・・けんじ・・・」


生来にとって、菅野は確かに容姿が兄に似ているが、今まで出会ったことのないタイプだ。大人なのに「素直」という言葉がよく似合う。純朴で、純粋。何かを秘めたような深い黒色の瞳。屈託のない笑顔。


ここ数週間、生来は学院に毎日登校するようになっていた。クラスメートたちは、その理由が菅野にあると密かに考えているようだった。


学校にいる時の生来は、常に菅野を目で追っているし、菅野の話になると嬉しそうな顔をする。だからといって、生来が菅野を恋愛対象として見ているとは、誰一人思っていなかった。きっと、亡き兄の面影を菅野に映し出しているのではないか、誰もがそう考えているようだった。

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