第4話

山積みの業務を終え、菅野が、学院を出る頃にはすっかり夜の帳が降りていた。暦の上では春とはいえ、夜の空気はひんやりと肌寒い。岩手ならば、まだ朝晩ストーブが必要なほどだろう。


「それにしても、月がきれいな夜だな」


聖学院は駅前にあったが、駅自体がこぢんまりとしているため、周囲は決して賑やかではなく、静けさに包まれていた。小さなバスターミナルにコンビニが一件。タクシーが何台か客を待っている。店舗は、小さな駅を囲むようにレトロな喫茶店、パン屋、産直販売所、そして地域密着型の不動産屋が並ぶ。夏になると海水浴客で賑わうのか、観光案内所もあった。夜には、オレンジ色の街灯がぽっかりと駅前の風景を照らし出す。この景色を菅野は気に入っていた。震災前の地元の駅前に似ているからだ。


懐かしい店々は、2011年3月11日の津波によってすべて奪われた。奪われたのは景色だけではない。そこで働く見慣れた顔ぶれもまた。あの日を境に、懐かしい故郷の記憶は漆黒に染められてしまった。


駅から数十分歩き、右に曲がると、丘へと続く急な坂が現れる。その坂道に吸い込まれるように、菅野は自宅へと向かった。


坂を上りきると、ライトに照らされたヒルサイド産婦人科と、そのシンボルマークであるヤシの木が見えた。医院をゆっくりと横切りながら、


「ここが生来大(セイラ ダイ)の家か」


と改めて眺める。


(どんな奴なんだろう。まだ学校に来ないようなら、本当に近いうちに訪ねてみようかな)


この一帯は、一軒一軒の区画がゆったりとしており、生活に窮屈さを感じさせない。菅野の地元も民家と民家はかなり離れているが、田舎のそれとも違う。


「田舎から出てきた俺にしたら、ここは、まるで映画のセットのようだ」


ザワザワ・・・


「ん?!」


菅野が自宅の前まで来ると、ふいに庭の垣根が不自然に揺れているのに気づいた。


風はない。それなのに、草木だけが何かに怯えるように激しくざわついている。菅野は咄嗟に身構えた。


​「ミーコ、いい加減出てこいよ……」


​静寂を破り、暗闇から低い男の声が響く。菅野は耳元で鳴り響く鼓動を感じながら、慎重に足音を殺して声の主へと近づいた。


​(ミーコ……? 猫か? 一体、何なんだ)


​バッ!


​「わあっ!」


​不意に、目の前の暗闇を切り裂くようにして、背の高い男が姿を現した。菅野はあまりの驚きに尻もちをつきそうになったが、どうにか踏みとどまる。雲間から差し込んだ月光が、その男の輪郭を銀色に縁取った。


しなやかな肢体、柔らかな癖毛、そして人形のように整った小さな顔。高く通った鼻梁と、どこか艶めかしい唇。ギリシャ神話の彫像が動き出したかのようなその美貌に、菅野は一瞬、呼吸を忘れて目を奪われた。


​(……いやいや、見惚れてる場合か。相手は男だぞ!)


​必死に冷静さを取り戻そうと、菅野は乱れた呼吸を整えた。


「ど、どうかしたんですか?」


努めて落ち着いた声色で尋ねると、男は菅野を視界に入れることもなく、再び縁の下を覗き込んだ。


​「うちの猫が、この家の縁の下に入って出てこないんだよ……。ミーコはまだ去勢前だから、このまま外に出しておくとまずいんだ。春だし、オス猫が盛ってるから……」


​男は必死の面持ちで、ミーコという名の猫を捜していた。


​「はああ、なるほど」


飼い猫の脱走劇か。菅野は身を屈めると、地面すれすれの体勢で縁の下を覗き込み、捜索に加わった。


「真っ暗で見えないな……あ、ちょっと待ってください」


​すぐさま身を起こすと、膝の土を払うのももどかしく家の中に駆け込み、懐中電灯を持って戻ってきた。暗闇の中で、鋭い光の筋が四方に動き回る。


​「服……汚れるよ……」


スーツ姿のまま這いつくばる菅野を見て、男がぽつりと呟いた。


​「よしっ。最終兵器だ。煮干しでどうだ!」


「……」


「あっ、いた! 目が光ったぞ。ほら、ミーコ、煮干しだぞー!」


​「みゃ~お」


​煮干しの香りに誘われ、縁の下から這い出してきたミーコを、菅野が鮮やかな手際で捕まえた。そのまま男の腕の中へ差し出す。


「はい、確保! じゃあ、俺はこれで」


菅野は爽やかな笑顔を見せると、あっさりと家の中へ入っていった。


​(ふぅ、一件落着っと)


​ガラガラ、ピシャリ。


戸を閉め、ふと首を傾げたその瞬間、家庭科の堀口とのやり取りが脳裏をよぎった。


​(待てよ……あの男、もしかして……)


「生来(セイラ)!」


閉めたばかりの戸を勢いよく開け、再び庭へ飛び出す。


「もしかして君、生来大(セイラ ダイ)か?」


​予期せず名を呼ばれ、愛おしそうに猫を撫でていた男が、驚いて顔を上げた。


「は? そうだけど……」


​「今日、電話で話した担任の菅野賢治だ。会えて嬉しいよ、生来!」


人懐っこい笑顔を向け、菅野は右手を差し出した。


​「あっ、おう……」

(今どき、初対面で握手かよ……)


混乱しながらも、生来は反射的にその手を握り返した。


​「やっぱり生来か。今日、堀口先生からお前が俺の家の近くに住んでるって聞いたんだよ」


​月明かりの下、至近距離で見る菅野の顔。


(……死んだ兄貴に、どこか似てる)


生来は不意にそう思った。


​中学二年で亡くなった生来の兄。自然を愛し、泳ぎが得意で、「海に潜っていると魚と一体になれるんだ」と笑っていた。色白の自分とは対照的な、陽に焼けた褐色の肌。長い足でいつも前を歩いていた、チョコレート色の大きな背中。


​(兄貴が生きていたら、こんな感じだったのかな……)


​差し出された手を取ってしまったのは、きっとそのせいだ。ただ、それだけのこと。


銀色の月光に照らされ、二人の男は手を繋いだまま、しばし立ち尽くした。


​「それじゃあ、明日は学校に来いよ!」


そう言って、繋いだ手をパッと離すと、菅野は今度こそ引き戸をピシャリと閉めてしまった。


​(……生徒を『美しい』なんて、教師としてまずいだろ! しかも男だぞ!)


火照った頭を冷やそうと、菅野は玄関から風呂場へ直行した。シャワーを捻り、勢いよく溢れ出したお湯を、頭から思い切り浴びた。

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