第4話
そろ……と扉を開くと、足元にいた赤蝙蝠が青い瞳で見上げて「キィ!」と鳴いた。
エドアルトがしーっ! としゃがみ込んで呼びかけたが、キィキィと声を響かせる。
「エド?」
仕方なく赤蝙蝠を抱えて部屋を出ようとしたエドアルトは、後ろから呼びかけられてしまった。
肩越しに振り返ると、メリクが本を抱えて出て来た。
部屋の整理をしているようだ。
慌ててエドアルトが駆け寄る。本を受け取った。
「ああ、ありがとう。足の踏み場もなかったから。少しくらい片付けなきゃと思ってね。
と言っても今の俺には壁沿いに積み上げることくらいしか出来ないけど」
「手伝います」
「うん、ありがとう」
「ラムセスさんはお出かけですか?」
「うん。まだ集めたい書物があるみたいだから取りに行ったよ」
「そうですか……地上侵攻の先発隊が先日発ったって聞きました」
「うん。ウリエルたちは?」
「思う所はあるようですけど、もう一度アリステア王国に向かいました。
アミアさんたちはザイウォンに戻っています。
身体に不調があれば【天界セフィラ】に戻って来るそうなので、心配しないで大丈夫だと」
「そうか。俺も【ウリエル】には追従の意志は伝えたんだけど、今回はやはり召喚したばかりの魔術師は伴われなかったよ。
まあ、今のところはだけれど。
アリステア王国もこのまま無抵抗で滅ぶ気はないようだし……。
一番手こずるのが【天界セフィラ】と【地上エデン】の間に【次元の狭間】のような二つの世界を繋ぐ扉を一時的に作ることなんだ。
だからまだ少し時間はあると思うけどね。
君はどうするのか心は決まったかい?」
もう一緒に行こうとは言わない。
一人一人が道を、自分で選ばなければならない。
「俺は……」
言葉を区切ったエドアルトに躊躇いを感じ取ったのか、メリクは小さく笑んだ。
「大丈夫だよ。
君は正しい道を選び取れる。
よく考えて、自分で選ぶんだよ」
メリクはそう言って本の海の中にしゃがみ込むと、手の平で本の向きを確かめつつ、壁際に一冊ずつ積み上げ始めた。
「メリク」
「うん?」
エドアルトは拳を握り締めて、顔を上げた。
「俺は【天界セフィラ】を去って地上に戻ろうと思います。
でも、【ウリエル】が力を必要とするなら、
俺は彼女と共に天界軍と戦おうかと。
父も母も地上に残るでしょうが、
それは関係なくて……。
俺は、そうしたい」
メリクがこちらを見た。
エドアルトはその顔を見ていた。
かつてミルグレンは、サンゴール王国から出て来てメリクを追い、ある街で彼と再会した時、出会い頭に彼に帰れと言われることも覚悟していたという。
自分を追って出て来てくれなどとメリクは望んでいなかったから、そういう自分を彼は疎むかもしれないと。
だがメリクは嫌な顔一つせず、そんな遠くに一人でやって来たミルグレンをまず抱きしめて労ってくれたらしい。
それが本当に本当に嬉しかったと、後にミルグレンが教えてくれたことがある。
それを聞いていたから、エドアルトもメリクの顔を見つめてしまった。
「……そう、君自身が決めたんだね?
君は第一の生でキースさんと会うことが出来なかった。
そしてオルハの許に戻れなかったことを、悔やんでいたはずだ。
【ウリエル】は恐らく、戦いの道を行くことになる。
君は強くなることを求めても争いや戦いを求めてはいない。
それでも彼女と一緒に行きたいと願うんだね?」
エドアルトは真っ直ぐにメリクを見つめる。
彼の瞳は何も映さなくなってしまったけど、だからといって彼の顔を正面から見つめ返せない人間にはなりたくなかったからだ。
「――はい。」
返事を聞き、数秒後メリクは小さく微笑んでくれた。
「うん。わかった。
君の魂は【次元の狭間】の中にいても朽ちることなく消滅しなかった光の魂だ。
きっと寄る辺の無い彼女を勇気づけるだろう。
……エド。
恐らくアリステア王国は滅亡する」
エドアルトは息を飲んだ。
「時は違っても君の故郷だ。辛いとは思うが、乗り越えるんだよ」
「メリク……」
彼は故郷を夜盗に奪われた戦災孤児だ。
何も悪くないのに全てを奪われて、そこに救いの手が不意に現れた。
導かれたサンゴール王国で、第二王子と魔術に出会った。
本当ならそれが――長い時を生きて行く救いや守りになったはずだ。
でもそうはならなかった。
第二王子に憎まれ、女王アミアカルバも周囲の人間の顔色を窺い、
メリクに安定した居場所を与えられなかった。
メリクはきっと憎みたくなかったのだ。
本来愛するべき人達を、もうこれ以上。
自分の悪しき因果に組み込みたくなかった。
だから国を離れて、せめて自由を手に入れた。
果てしない孤独、心の痛みと引き換えに、自由を。
『――弟子にしてください!』
強く目を閉じる。
『俺にはついて来ない方がいい。――――いや、ついてきてほしくないんだ』
『苦しみ続けたサンゴール時代が、彼を教えることで無意味じゃないものに出来た』
『あいつを教えれば、自分が救われると思ったんだな』
『俺が光の術師を教えれば……あの人は光を教えて導いたことになるんじゃないかと』
メリクはふと、気づいた。
「エド?」
エドアルトは両手で顔を覆った。
気づかれてはいけなかったのに。
きっと泣きたいのは彼の方だ。
自分は彼に導かれて、守られた。
守られた方が泣くなんておかしい。
きっと泣きたいのは、そうするしかないんだと絶望した人の方だ。
「すみません」
「……どうしたの?」
「すみません、メリク。俺、聞いてしまったんです。
聞くつもりなかったけどラムセスさんとメリクが話していたことを。
俺は何にも知らなくて……あなたがどんな人か知らないのに、同行を最初は何度も拒んだのに付きまとってた。
それが正しいとすら、思い込んで。
俺は【光の術師】なんかじゃない。【闇の術師】です。
あなたをサンゴールの悪い因縁の中にもう一度閉じ込めてしまった。
俺に会ったせいで、貴方が……サンゴールから命を懸けて出てきた貴方が、
世界や運命に絶望してしまったことを、ずっと知らなかった。
知らなかったんです」
エドアルトは膝をついた。
顔を伏せる。
「貴方と旅をしている間、貴方に関して何故だろうと思うことがたくさんあった。
なんでこんなに素晴らしい人が世界を彷徨って、
自分の居場所を持っていないのか、
苦しんでいたとしても、この人ならきっと全てを乗り越えていけるのにと。
俺に会わなかったら貴方があれ以上苦しむことはなかったかもしれないのに」
涙が溢れて来る。
自分に会わなければ、メリクはサンゴールの因縁には戻らなかった。
戻らなければ北嶺には行かなかったかもしれない。
死ななかったかもしれない。
エドアルトの言葉を聞きながら、メリクが思い出したのはリュティスのことだった。
お前が【魔眼】を容易く見上げて来たことが、
自分の苦悩を甘く見られているようで何よりも憎かったと言った、あの姿。
エドアルトは確かに出会った時から無垢だった。
たくさんの罪を犯して来た自分を、眩しいような真っ直ぐな瞳で見つめて来て、メリクが全く心苦しくなかったと言えば嘘になる。
こんな人間がいるのかと、何度も思わされた。
リュティスの側に現われたのが自分ではなくこの少年だったらば、どうだっただろうかと。
……でもメリクはもう、嘆くのはやめた。
リュティスが死んだ時、遠くにいながら彼の死を感じ取れた。
心の底から嬉しかった。
まだ、繋がっているものがあると。
そう思った時、喜びを感じた。
(セスの言う通りだ)
その時は例え見えなくても、存在しないわけではない。
まだメリクの中にも光は残っていた。
残っていたことと、
見い出せたことの間には、エドアルト・サンクロワがいたかいないかは一切関係ない。
死の際まで追い詰められた時、
自分とリュティスの間に誰も存在せず、
二人きりで向き合えたことを、メリクは心の底から幸せだと思ったのだ。
例えリュティスは憎しみしか自分に対して感じていなくとも。
自分は敬愛の念しか、やはり感じなかった。
命を奪われようとするその瞬間でさえ。
それをエドアルトに伝えてやらなくてはと思った。
絶望していないことに気づいたことを。
ラムセスが自分にしてくれたことを、
自分も、駆られないでもいい自責の念に駆られているエドアルトに対して、してやらなくてはならないと。
「確かにね」
メリクはゆっくりと立ち上がった。
手探りで歩く。
ラムセスと違って、エドアルトの気配は探りにくい。
それでもなんとか、側まで行けた。
「……君がオルハの息子だと知った時、正直神の恐ろしさを知った気がしたんだ。
もうとっくに忘れ去っていたサンゴール王国に、急に連れ戻された感じだ。
旅先でミルグレンに出会った事より、ずっと怖かった。
彼女は過去の因縁だ。
でも君は未知の因子だったからね。
神に、引き合わされた気がしたんだよ。
あの滅びの村でオルハに救われた時から、繋がっているようにすら思えた」
エドアルトは泣きながら首を大きく振った。
「サンゴール王国で、俺はどこに行こうと、何をやろうと、自分の居場所を持てなかった。
分不相応な環境ばかり用意されて、自分でも何で自分なんかがここにいるんだろうと疑問に思ったことも二度や三度じゃない。
俺は……あの人に出会うために、その全てがあったんだと、そう信じていた時期がある」
全ての苦しみはリュティスに出会い、深い傷を負った彼の側にいて、守り、やがては愛される存在になる為に。
「でも」
『何の意味も無い者だ』
エドアルトは胸が痛んだ。
まるで自分が、無価値だと言われたみたいだ。
実際尊敬し続けた師にそう言われたメリクはどれだけ辛かっただろう。
「そんなの勘違いだった。
あの人の側にはもう光は寄り添っていたし、強い人で、守りなんか必要なかった。
いらなかったんだと思った時にはもう遅くて、無関係にすらなれない、許されない環境になってしまっていたんだよ。
あの人の敵にだけはなりたくなくて、俺は城を出た。
間違いなく逃げ出したんだ。
憎まれながら、それ以上そこにいるのが怖かったから。
……君に会った時、逃げることなんて許さないと、誰かに言われた気がした。
自分の意志なんか関係なく、一つの大いなる意志の為に自分が動かされている気がしてね。
俺は確かに、君に出会って知らずのうちに何度か君の命を助けてしまっていた。
絶望したよ」
「メリク……」
「……でも。
君を知った。
生真面目で自分の大切なものを守る為に強さを望む、君という人間を。
エドアルト。
君はサンゴール時代、俺がこういう人間で第二王子の前にいたかったと思う全てを持っていた。
俺はあの人に負い目がある。
俺がいることで長い間苦しめていたのに……悪しき術師を育てている、未来のミルグレンの敵を育てていると思わせて来たのに、絶望は確かにしていたくせに、その手に掛かってやることも出来なかったから」
「メリク、そんな……
そんなことを言わないでください……」
涙が溢れて来る。
「貴方がどんなに大切に想おうと、俺にそれは止められないけど、
でも貴方はあの人の幸せや平穏を願って来たはず。
想いが通じなかったからと言って、貴方が負い目に感じることなんかない。
メリクは必死に一緒に生きようとした。
それが叶わないからと言って、
じゃああとはその命に奪われることでしか意味がないなんて、間違ってる。
俺が辛いのは、
この気持ちを貴方に伝えたいのに、俺が口にすると無意味になることです。
俺が誰より貴方を苦しめてる存在だったから」
リュティスは二人が決別した今でさえ、
メリクの中では大切な存在だ。
自分だけが確かに、メリクを苦しめている。
「メリクも言ってた。その通りです。俺に出会わなければ、貴方はもっと幸せに……」
額に手の平が触れた。
びく、とエドアルトは顔を上げる。
「俺は確かに君と出会って自分の運命に絶望したよ。
でも希望を失ったのはそのもっとずっと前だ。
君に出会う前に、もう俺の心は死んでたんだ。
生きたいとも思ってなかったからね。
……不死者のように世界を彷徨っていただけだ。
君に出会って、君という人を知って、育てようと思ったよ。
最初は神を恨んだけど、
一緒に旅をするうちにいつしか、自分が生まれて初めて、
正しいことを一つしているように思えるようになった。
俺自身は正しい者にはなれなかったけど、君がそういう人間になってくれたから。
俺に与えられた最後の仕事が――、
君を教えて導くことで良かったと思えるようになったんだ」
「メリク……」
驚きに見開いた瞳から涙が頬を伝う。
「確かにあの時、俺は君に出会って自分の運命に抗うことをやめてしまった。
でも……エドアルト。
俺は、今は思うんだ。
あの時出会ったのが君でなかったら――俺はもっと早くに死んでいたよ。
そうしたら……リュティス様の死すら見届けられず、気づけなかったかもしれない。
俺が【ウリエル】に選ばれた理由は今だ不透明だけど、北嶺行きが理由である可能性は高い。
【エデン天災】より早く死んでいたら、きっと選ばれなかっただろう。
そうしたら俺は国を出て、心に光を失って、ただ死んで消えて行くだけだった。
そっちの方が本当に意味の無かった生だよ。
ゾッとする」
メリクはエドアルトの額を優しく撫でた。
「だから……信じて欲しい。
エドアルト。君は間違いなく、俺に光を与えてくれたんだ。
絶望と………それを遥かに凌ぐ、光を。
ただ死に行く俺の魂を、君との出会いがほんの少し救ってくれた。
そのほんの少しの光が、今、多分この生を強さとなって生き永らえさせている。
感謝しているんだ。
死を望んだことはあるけど、
望まなくていいなら、俺だって望みたくはなかった」
「メリク……、」
エドアルトは腰を屈めてこちらに手を差し伸べていたメリクの身体に、腕を回して子供のようにしがみついた。
メリクは微笑って、彼の背を撫でてやる。
「昔から君は、俺の出来ないことを一瞬でやってしまうことがあったけど」
リュティスの背を追い、離されまいと彼の術衣の端を掴んで、叱られていた記憶が蘇る。
「…………でも好きだったよ。
こういう人間なら守り導いてあげたいと、迷いなく思えた。
君を守ることで、俺は自分のことが少し好きになれたんだ」
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