第廿六話 降臨(クレッシュ)
4
―――須臾。
―――火蓋が切って落とされた。
素早く足を動かさんとする、エレナの耳元でЛевが微笑む。
「―――大きな勘違いをなさっているようですね。『サイン六位』の御母様ならいざ知らず、貴方如きが私に歯向かうなどとは。―――禁欲し、見届けるのも一信徒としての立派な修行だというのに」
「……動け、ない……?」
エレナの思考が、絶対零度の沈黙に凍結される。
目の前の男が発する『言葉』は、もはや音ではない。
それは、複雑に編み上げられた因果の糸を、一本ずつ、丁寧に、そして無慈悲に解いていく『世界の解体作業』だった。
―――それは、まるで蚕の末路だ。
「理解されましたか、裁定者殿。私にとって貴方の抵抗は、書き損じの原稿を丸めて捨てるのと、同程度の労作に過ぎないのです」
「―――書き殴ることにも―――意味があるのではないでしょう――か?」
エレナが軽口を叩く。
刹那。
Левの眼が鋭利になるのを確認した。
完璧な文字盤に、あってはならない傷がついたかのような、不快感。
解かれ、ただの細い線へと戻るはずだったエレナの因果が、その場に踏みとどまり、どす黒い執念を帯びて脈打ち始めたのだ。
「それを『無意味』と申しているのです。―――貴方は少し働きすぎです。⋯⋯休んだ方が良い」
Левが静かに、空いた左手をかざす。
それは眠りを誘う聖母のような、あるいは、役目を終えた機械の電源を落とす技師のような、残酷なほどに穏やかな仕草だった。
「…………っ、あ」
エレナの視界から、色が消えた。
『休め』という言葉に従うように、彼女の脳が、筋肉が、吸血鬼としての本能さえもが、強制的にシャットダウン(解体)されていく。
抗うための『書き殴る』意志さえも、Левの放つ圧倒的な『平穏』という名の暴力に塗り潰されていくのだ。
「お姉さん!!」
マリヤがエレナの身体を揺する。
当然かのように返答はない。
それを見たЛевは哀れみの目を向ける。
まるで、屠殺寸前の畜生を見るかのよう。
あからさまに人へ向けるものでは無い。
―――その時。
静寂を、一筋の不協和音が引き裂いた。
「―――休ませたいなら、てめえの家で勝手にやってろよ。ロリコン神父」
Левの背後。
因果の糸が解かれ、誰もが「蚕の末路」を辿るはずの沈黙の檻を、泥まみれの靴が踏み越えてきた。
髙島實。
Левにとっては、原稿の端についた「数ミリの汚れ」にも満たないはずの、名もなき少年。
髙島の体は、エレナとの戦闘で負傷し、既に血が滲んでいた。
だが、その熱い血こそが、Левの定義した「絶対零度の秩序」に対する、最大かつ唯一の反証だった。
「確か、
髙島の手が、Левの肩に届く。
神の代理人を自称する男の司祭服を、人間の、不潔で、不格好で、しかし誰よりも熱い指が、強く ――掴んだ。
次の瞬間。
―――乾いた音が、静寂の檻を爆砕した。
それはЛевの編み上げた完璧な原稿の上に、真っ黒なインクをぶちまけるような、あまりに粗野で、救いようのない「暴力」の行使だった。
「…………ッ!」
彈丸は、Левの『絶対零度の秩序』を貫き、その司祭服を裂き、肉へと肉薄する。
Левの眼光に、初めて明らかな『動揺』が走った。
彼にとって、髙島という存在は本来無視して良い『汚れ』だったはずだ。
だが、その汚れが放った一撃は、
唯の彈ではない。
―――先程、シュミットから奪った、吸血鬼の肉を焼き切らんとする『銀製』だ。
それは、解かれるのを待つだけの『蚕の末路』を拒絶し、自分たちは、ただの素材ではないと叫ぶ生命の不協和音。
Левの身体が、衝撃にわずかに仰け反る。 完璧な文字盤から、ついに秒針が零れ落ちた。
その瞳に宿るのは、もはや慈悲ではない。
自分の完璧な物語を汚した「
「……銀、ですか。古臭い迷信の産物かと思っていましたが、なるほど。これほどまでに『熱い』ものだとは」
―――Левは冷静に、表情を修繕しようとする。
「私の編纂した静寂を、これほど無作法に焼き切った。―――私の原稿に、これほどの『蛇足』を書き加える者がこの場に現れた。……髙島くん、と言いましたか」
Левの左肩から、鮮血が滴り落ちる。
それは神聖な大理石に刻まれた、一生消えない 『書き殴り』の傷跡。
エレナがこじ開けた『隙間』を、髙島がその泥臭い執念で強引に押し広げた結果だった。
「伝わるかどうかは置いといて、意味があるかないか決めるのは、書き手の特権だ。読み手の感想なんて聞いてねえんだよ⋯⋯カスが」
髙島の言葉が、Левの『絶対の静寂』に風穴を開けた。
だが、
―――その時。
髙島が掴んだЛевの影、その漆黒の広がりから、もう一つの不協和音が立ち上がった。
Левの足下。物理的には髙島しかいないはずのその場所から、紅葉が『滲み出して』いた。
彼女は、髙島がЛевを掴み、その注意が『一人の少年』という最小単位のノイズに集中した瞬刻の死角を、暗殺者の直感で突き抜けていたのだ。
「―――御託はいいから、さっさと魯西亞に帰りなさいな。このページは、まだ真っ白なのよ」
紅葉の手に握られた銀製のナイフが、日光を反射することなく、ただ暗い輝きを放ってレフの脇腹へと突き立てられる。
「……ッ、貴女まで」
Левの声に、初めて人間らしい『痛み』が混じった。
脇腹に突き立てられた紅葉の刃は、彼の編み上げた因果の糸を物理的に断ち切る『現実』の楔だ。
髙島の熱い指が肩を掴み、紅葉の冷たい刃が脇腹を抉る。
神の代弁者を自称する男の輪郭が、夏の陽炎のように激しく歪んだ。
「勘違いしないで。私はこの『殴り書き』を汚されるのが嫌いなだけ。
―――とっとと消えなさい、大主教様。貴方の出番はもうおしまいよ」
紅葉が獲物をさらに深く捩じ込む。
実の放った銀彈の『熱』と、紅葉がもたらす『死の毒』が、Левの体内で激突し、爆ぜる。
しかし―――。
「…………クッ、あははははッ!!」
哄笑が、不意に断ち切られた。
Левの瞳から感情が消え、代わりにそこには、深淵よりも暗い『無』が宿る。
「ですが、誤植は正されねばならない。それが編纂者の義務です」
Левが、自らの脇腹を貫く紅葉の刃を、あろうことか自ら深く押し込んだ。 肉を断つ嫌な音が響く。しかし、そこから溢れ出したのは赤ではない。 それは、文字を黒く塗り潰すインクのような、あるいは光を飲み込む闇そのもののような、粘着質な『言葉の泥』だった。
「……っ、何これ……!?」
紅葉が驚愕に目を見開く。 彼女の獲物を通じて、逆流してくる絶望。 それは「死」ですらない。存在を、歴史の
「『主は言われた。不要な枝は剪定せよ。枯れた葉は火に投げ入れよ』」
Левが静かに、しかし世界を揺らすような重みで《ロガエスの書》を朗誦する。
瞬間、髙島が掴んでいたレフの肩が、陽炎のように透き通った。 掴んでいたはずの感触が消え、實の体は虚空を掴むように前のめりに倒れ込む。
「髙島くん、離れて!!」
紅葉の叫びが、氷解した世界に響く。
―――しかし、遅かった。
Левを中心に、半径数メートル。
陽光が物理的に遮断され、そこだけが「白紙の領域」へと変質したのだ。
完全に風が止まる。
髙島の肺から、酸素が奪われる。
Левの背後には、先ほどの幻影を遥かに凌駕する、『影の翼』が天を衝くように展開されていた。
「貴方達の言う『殴り書き』とやらを、神の慈悲によって
Левの掲げた左手が、白く、神々しく発光する。
それは救済の光ではない。
その光に触れたすべての事象を、存在しなかったことに書き換える、絶対的な拒絶。
―――Левは何も言っていない。
だが、何故だろうか?
―――ただ今をもって、マリヤの『言葉』が完全にかき消された事を。
髙島の目の前で、彼が放った銀の弾丸の薬莢が、砂のように崩れて消えていく。
―――それはつまり歴史を汚した代償として、髙島實という少年の『今』が、世界から完全に、剥がし取られようとしていることを示唆していた。
黙示録の警鐘(エミリアのコロコール) 菖蒲士 @14840101
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