第廿六話 降臨(クレッシュ)


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 ―――須臾。


 ―――火蓋が切って落とされた。


 素早く足を動かさんとする、エレナの耳元でЛевが微笑む。


 「―――大きな勘違いをなさっているようですね。『サイン六位』の御母様ならいざ知らず、貴方如きが私に歯向かうなどとは。―――禁欲し、見届けるのも一信徒としての立派な修行だというのに」


 「……動け、ない……?」

 エレナの思考が、絶対零度の沈黙に凍結される。


 目の前の男が発する『言葉』は、もはや音ではない。

 それは、複雑に編み上げられた因果の糸を、一本ずつ、丁寧に、そして無慈悲に解いていく『世界の解体作業』だった。

 ―――それは、まるで蚕の末路だ。


 「理解されましたか、裁定者殿。私にとって貴方の抵抗は、書き損じの原稿を丸めて捨てるのと、同程度の労作に過ぎないのです」


 「―――書き殴ることにも―――意味があるのではないでしょう――か?」


 エレナが軽口を叩く。


 刹那。

 Левの眼が鋭利になるのを確認した。

 完璧な文字盤に、あってはならない傷がついたかのような、不快感。  

 解かれ、ただの細い線へと戻るはずだったエレナの因果が、その場に踏みとどまり、どす黒い執念を帯びて脈打ち始めたのだ。


 「それを『無意味』と申しているのです。―――貴方は少し働きすぎです。⋯⋯休んだ方が良い」


 Левが静かに、空いた左手をかざす。  

 それは眠りを誘う聖母のような、あるいは、役目を終えた機械の電源を落とす技師のような、残酷なほどに穏やかな仕草だった。


 「…………っ、あ」


 エレナの視界から、色が消えた。

『休め』という言葉に従うように、彼女の脳が、筋肉が、吸血鬼としての本能さえもが、強制的にシャットダウン(解体)されていく。  

 抗うための『書き殴る』意志さえも、Левの放つ圧倒的な『平穏』という名の暴力に塗り潰されていくのだ。


 「お姉さん!!」

 マリヤがエレナの身体を揺する。

 当然かのように返答はない。


 それを見たЛевは哀れみの目を向ける。

 まるで、屠殺寸前の畜生を見るかのよう。

 あからさまに人へ向けるものでは無い。



 ―――その時。  

 静寂を、一筋の不協和音が引き裂いた。


 「―――休ませたいなら、てめえの家で勝手にやってろよ。ロリコン神父」


 Левの背後。  

 因果の糸が解かれ、誰もが「蚕の末路」を辿るはずの沈黙の檻を、泥まみれの靴が踏み越えてきた。  

 髙島實。  

 Левにとっては、原稿の端についた「数ミリの汚れ」にも満たないはずの、名もなき少年。


 髙島の体は、エレナとの戦闘で負傷し、既に血が滲んでいた。  

 だが、その熱い血こそが、Левの定義した「絶対零度の秩序」に対する、最大かつ唯一の反証だった。


 「確か、汚れノイズは、一度ついたら簡単には落ちねえんだよ。……なあ?」


 髙島の手が、Левの肩に届く。  

 神の代理人を自称する男の司祭服を、人間の、不潔で、不格好で、しかし誰よりも熱い指が、強く  ――掴んだ。



 次の瞬間。

 ―――乾いた音が、静寂の檻を爆砕した。


 神の言葉ロガエスによって『休め』と命じられた世界に、火薬の咆哮が響き渡る。  

 それはЛевの編み上げた完璧な原稿の上に、真っ黒なインクをぶちまけるような、あまりに粗野で、救いようのない「暴力」の行使だった。


 「…………ッ!」


 彈丸は、Левの『絶対零度の秩序』を貫き、その司祭服を裂き、肉へと肉薄する。  

 Левの眼光に、初めて明らかな『動揺』が走った。

 彼にとって、髙島という存在は本来無視して良い『汚れ』だったはずだ。

 だが、その汚れが放った一撃は、理屈ルールを超えた殺意となって彼の『平穏』を物理的に蹂躙したのだ。


 唯の彈ではない。

 ―――先程、シュミットから奪った、吸血鬼の肉を焼き切らんとする『銀製』だ。

 それは、解かれるのを待つだけの『蚕の末路』を拒絶し、自分たちは、ただの素材ではないと叫ぶ生命の不協和音。


 Левの身体が、衝撃にわずかに仰け反る。  完璧な文字盤から、ついに秒針が零れ落ちた。

 その瞳に宿るのは、もはや慈悲ではない。  

 自分の完璧な物語を汚した「不規則イレギュラー」に対する、あまりに静かな、ゆえに逃げ場のない憤怒。


 「……銀、ですか。古臭い迷信の産物かと思っていましたが、なるほど。これほどまでに『熱い』ものだとは」


 ―――Левは冷静に、表情を修繕しようとする。


 「私の編纂した静寂を、これほど無作法に焼き切った。―――私の原稿に、これほどの『蛇足』を書き加える者がこの場に現れた。……髙島くん、と言いましたか」


 Левの左肩から、鮮血が滴り落ちる。  

 それは神聖な大理石に刻まれた、一生消えない    『書き殴り』の傷跡。

 エレナがこじ開けた『隙間』を、髙島がその泥臭い執念で強引に押し広げた結果だった。 


 「伝わるかどうかは置いといて、意味があるかないか決めるのは、書き手の特権だ。読み手の感想なんて聞いてねえんだよ⋯⋯カスが」


 髙島の言葉が、Левの『絶対の静寂』に風穴を開けた。 

 だが、神の理システムそのものであるЛевが一つの銃彈で屈することなど当然無い。彼は、血の滴る肩を意に介さず、髙島という『誤字』を完全に抹消するために再び指を掲げた。


 

 ―――その時。

 髙島が掴んだЛевの影、その漆黒の広がりから、もう一つの不協和音が立ち上がった。

 


 Левの足下。物理的には髙島しかいないはずのその場所から、紅葉が『滲み出して』いた。  

 彼女は、髙島がЛевを掴み、その注意が『一人の少年』という最小単位のノイズに集中した瞬刻の死角を、暗殺者の直感で突き抜けていたのだ。


 「―――御託はいいから、さっさと魯西亞に帰りなさいな。このページは、まだ真っ白なのよ」



 紅葉の手に握られた銀製のナイフが、日光を反射することなく、ただ暗い輝きを放ってレフの脇腹へと突き立てられる。


 「……ッ、貴女まで」


 Левの声に、初めて人間らしい『痛み』が混じった。  

 脇腹に突き立てられた紅葉の刃は、彼の編み上げた因果の糸を物理的に断ち切る『現実』の楔だ。


 髙島の熱い指が肩を掴み、紅葉の冷たい刃が脇腹を抉る。  

 神の代弁者を自称する男の輪郭が、夏の陽炎のように激しく歪んだ。


 「勘違いしないで。私はこの『殴り書き』を汚されるのが嫌いなだけ。

 ―――とっとと消えなさい、大主教様。貴方の出番はもうおしまいよ」


 紅葉が獲物をさらに深く捩じ込む。  

 実の放った銀彈の『熱』と、紅葉がもたらす『死の毒』が、Левの体内で激突し、爆ぜる。



 しかし―――。




 「…………クッ、あははははッ!!」


 哄笑が、不意に断ち切られた。  

 Левの瞳から感情が消え、代わりにそこには、深淵よりも暗い『無』が宿る。


 「ですが、誤植は正されねばならない。それが編纂者の義務です」


 Левが、自らの脇腹を貫く紅葉の刃を、あろうことか自ら深く押し込んだ。  肉を断つ嫌な音が響く。しかし、そこから溢れ出したのは赤ではない。  それは、文字を黒く塗り潰すインクのような、あるいは光を飲み込む闇そのもののような、粘着質な『言葉の泥』だった。


「……っ、何これ……!?」


 紅葉が驚愕に目を見開く。  彼女の獲物を通じて、逆流してくる絶望。  それは「死」ですらない。存在を、歴史の注釈アノテーション程度にまで格下げし、無価値化する概念の暴力。


「『主は言われた。不要な枝は剪定せよ。枯れた葉は火に投げ入れよ』」


  Левが静かに、しかし世界を揺らすような重みで《ロガエスの書》を朗誦する。  


  瞬間、髙島が掴んでいたレフの肩が、陽炎のように透き通った。  掴んでいたはずの感触が消え、實の体は虚空を掴むように前のめりに倒れ込む。


「髙島くん、離れて!!」


 紅葉の叫びが、氷解した世界に響く。  

 ―――しかし、遅かった。  


 Левを中心に、半径数メートル。  

 陽光が物理的に遮断され、そこだけが「白紙の領域」へと変質したのだ。


 完全に風が止まる。  

 髙島の肺から、酸素が奪われる。

 Левの背後には、先ほどの幻影を遥かに凌駕する、『影の翼』が天を衝くように展開されていた。


 「貴方達の言う『殴り書き』とやらを、神の慈悲によって白紙ゼロに戻してあげましょう。―――これが、私の成す『校正』です」


 Левの掲げた左手が、白く、神々しく発光する。  

 それは救済の光ではない。  

 その光に触れたすべての事象を、存在しなかったことに書き換える、絶対的な拒絶。




 ―――Левは何も言っていない。

 だが、何故だろうか?


 第六感シックスセンスなのか、皆が瞬時に理解したのだ。



 ―――ただ今をもって、マリヤの『言葉』が完全にかき消された事を。




 髙島の目の前で、彼が放った銀の弾丸の薬莢が、砂のように崩れて消えていく。  

 


 ―――それはつまり歴史を汚した代償として、髙島實という少年の『今』が、世界から完全に、剥がし取られようとしていることを示唆していた。

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黙示録の警鐘(エミリアのコロコール) 菖蒲士 @14840101

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