第廿五話 遭遇(エンカウント)
3
―――坂を上りきったその場所は、先の戰闘を感じさせぬ、人の営みの中心地である住宅街だった。
しかし、その頂を超えた瞬間、劇的に風向きが変わった。
それまで鼻腔を突き、肺の奥にまでこびりついていた瓦礫と焦げの臭いが、一陣の風に攫われて霧散する。
代わって流れ込んできたのは、あまりにも純粋で、どこか無機質なほどに澄み渡った空気だった。
それは夏の熱気に曝された肌には、冷えた水というよりは、鋭利な氷の刃のように感じられた。
同時に、狂ったように鳴き喚いていた蝉の声が、ひとつ、またひとつと、深い淵に吸い込まれるように途切れていった。
耳に痛いほどの沈黙。音という音がこの世界から剥ぎ取られていくような、あまりに不自然な静寂。
「……あれ?」
誰よりも先に、マリヤが足を止めた。
見えない何かに名前を呼ばれたかのように、きょろきょろと辺りを見回す。
その細い肩が、微かに震えていた。その異変に気づいた高島が、反射的に彼女の肩を抱き寄せようと手を伸ばす。
「どうした、マリヤ?」
少女は首を傾げる。少し困ったような、それでいて、遠い日に忘れてきた大切な匂いを思い出そうとするような、曖昧で儚い表情。
「……ううん。なんでもないの。ただね……さっきまで、すごく暑かったのに」
マリヤは自分の細い腕を抱きしめ、吐息とともに言葉を漏らした。
「……ちょっと、ひゃっこいかも。冬が、急に来ちゃったみたい」
その言葉を聞いた瞬間、隣に立つエレナの指先が、目に見えてぴくりと跳ねた。
彼女の瞳には、髙島には見えない「世界の変質」が映っていた。大気が凍りついているのではない。
因果が、この場所一点に向けて収束し、塗り潰されているのだ。彼女は直感していた。
これが、これまでの敵とは根本から異なる、取り返しのつかない「嫌な予感」の兆候であることを。
「……マリヤちゃん。私のそばを離れないでください。絶対に」
いつになく硬く、悲鳴にも似た鋭さを含んだエレナの声。
マリヤは戸惑いながらも「はーい」と素直に頷き、縋るようにエレナの服の裾を握りしめた。
―――ぱちん。
世界のどこかで、乾いた音がした。
銃声でも、爆発でもない。強いて言うなら、あまりに硬く張り詰めすぎた糸が、その張力に耐えかねて断ち切れる音。
先頭を歩いていた紅葉が、地面に根を張ったかのように足を止めた。
「……来るわね」
彼女の視線の先。
夏の強烈な陽光が、どういうわけか届かないはずの坂道の影から、その男は現れた。
―――歩いてきたというより、光と影の境界線から滲み出し、そこに最初から在ったという方が正しい。
塵一つない、深夜の海のような深い黒の司祭服。あまりにも整いすぎた、生気を感じさせぬ大理石のような美貌。
男が歩を進めるたび、周囲の温度が確実に、そして物理的に削り取られていく。
「……あらあら。最悪のタイミングで、最悪の人選ね」
紅葉が低く、毒を吐くように舌打ちした。彼女の手はすでに懐の獲物にかかっているが、その指は微かに震えている。
熟練の暗殺者である彼女の身体が、目の前の存在を「生物」として認識することを拒絶していた。
エレナは碧の瞳を鋭く細め、その名を、呪いを吐き出すかのような重みで呼んだ。
「……Лев(レフ)大主教様」
男は立ち止まり、胸の前で静かに十字を切った。
それは敵意の表明ではなく、ただ、そこにある塵を払うような、あまりにも自然な儀礼。
「ご無沙汰しております、エレナ嬢。いえ……今は、“裁定者殿”とお呼びすべきでしょうか。
主の庭を離れた貴女の足跡が、このような辺境にまで続いているとは」
感情の揺らぎが一切ない、水晶の擦れ合うような透き通った声。
髙島は理解より先に、脊髄が発する警告を聞いていた。脳が、逃げろと叫んでいる。
こいつは、駄目だ。 これまで戦ってきたシュミットのような狂信者とも、組織の残党とも違う。
この男には「私欲」がない。あるのは、ただ純粋で透明な、ゆえに救いようのない――邪悪だ。
「……誰だよ、お前」
喉の奥から絞り出すような髙島の問いに、レフはゆっくりと視線を向けた。その瞳は、深淵のように底が見えない。
「私はЛев。魯西亜正教の秘匿大主教。そして――」
その視線が、残酷なほど穏やかに、エレナの背後に隠れるマリヤへと落ちる。
「――《ロガエスの書》第三章、十七節に基づき、例外存在の終端を宣告する者。その子の回収、および処理の担当者です」
マリヤは武者震いとともに、呼吸の仕方を忘れたかのように言葉を失った。
胸の奥に、液体窒素を直接流し込まれたような冷徹な恐怖が広がる。
Левは淡々と、歌を歌うような抑揚で朗誦を続けた。それは祈りの形を借りた、神罰の執行通告だった。
「『主は言われた。光より生まれ、理(ことわり)より逸れしものよ。その歩みが世界を歪めるならば、天は剣を以て、沈黙を与えよ』」
「……ロガエスですって?」
エレナの声が掠れる。
その名は、かつて魔術師ジョン・ディーが天使から受け取ったとされる、失われた言語(エノク語)で記された禁書。
異言の才を持つマリヤならばいざ知らず、祝福とは無縁の吸血鬼の喉と脳では、その内容を理解することすら叶わないはずのもの。
―――だが、目の前の男は、それを「自らの言葉」として完全に扱ってみせた。
Левは微笑んだ。
迷える子羊を慈しむ聖者のような、そして同時に、不要な枝を切り落とす園丁のような、非情な笑み。
「エレナ嬢、勘違いをなさらないでいただきたい。保護とは延命ではありません。救済とは存続ではないのです。⋯⋯⋯スケープゴートは必要ない。
理を乱す例外は、いずれ必ず整理されねばならない。それがこの世界の安定(オーダー)のため。
私はすでに、各正教会の総主教殿の幾分かからも承認を取り付けてあります」
彼は一歩、静かに距離を詰める。
「ヨハネによる福音書三章十七節にはこうあります。『神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである』と。
……私は、この世界を救いに来たのですよ」
その論理の飛躍。
マリヤを「排除すべき異物」と断定しながら、それを「救い」と呼ぶ独善。
エレナの喉が、怒りと恐怖で小さく鳴った。
それでも彼女は一歩も引かず、Левの眼光を真っ向から受け止める。
「僭越ながら申し上げますと、ゼファニヤ書の三章十七節ではこう語られています。『あなたの神、主は、あなたのただ中におられ、救いの勇士であられる。
あなたは喜びをもって主のために踊り、愛によってあなたを新しくし、歓喜をもってあなたのために歌われる』と! 貴方様は神に仕える身でありながら、
その愛を否定し、神の被造物に、ましてや主の奇跡そのものにすら逆らうのですか!」
反論は、静寂に包まれた坂道に虚しく響いた。
Левの微笑みは、微塵も揺るがない。
「解釈の相違ですね。ですが、私の持つ『言葉』の方が、より現実に近い」
「……何?」
「執行を開始いたします」
Левが、一歩、踏み出した。
その距離は、まだ、物理的には十メートル以上離れている。
髙島の身体能力や、エレナの魔術があれば、十分に「対応できる」と錯覚してしまう距離。
何せ、ここにはマリヤがいる。
彼女の「言葉」による事象改変が在る限り、魔術という手段では、誰も彼女たちに触れられないはずだった。
―――だが。Левの背後で、陽光が奇妙な屈折を見せた。
空に太陽があるのに、彼の背後から伸びる影は、巨大な「翼」の形を成して路面に落ちる。
それは、かつて天上で栄光を極めた者が、その矜持を保ったまま地に堕ちた姿――『叛逆天使』の幻影。
エレナの指に触れるマリヤの体温が、急激に奪われていく。
それは夏の日の午後に、不意に地面に落ちた溶けかけのソフトクリームのように、形を失い、白く濁り、今にも消えてしまいそうに心許なかった。
「マリヤちゃん、離さないで……っ! 髙島さんも下がって下さい!!」
エレナが叫ぶ。しかし、その声さえも凍りついて届かない。
次の瞬間。
世界は、誰の目にも明らかな崩壊を始めた。
蝉の死骸が空から雪のように降り注ぐ。
神の言葉を解する者が、神の愛を否定するために振るう「絶対の静寂」が、一行を飲み込んでいった。
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