第廿四話 胡蝶の夢(トロイメライ)
2.
世界を白銀に染め上げていた狂気的な熱量は、潮が引くように静まり返っていた。
つい数分前まで空間を歪めていた因果律の嵐はどこへ消えたのか。
あとに残されたのは、ひび割れ、熱で飴細工のように無惨に波打ったアスファルトと、かつては荘厳な威容を誇っていた帝都地下の無残な残骸だけだった。
崩落した石材の隙間からは、白煙が細く立ち昇っている。
鼻腔を突くのは、肺の奥まで焦がしそうな、焦げた鉄とコンクリートの乾いた臭い――戦いという名の非日常が、物理的な破壊となって物質界に還元された証だった。
「……っ、げほっ……、ごほっ……」
髙島は、自分の喉が辛うじて空気を求めて動いていることに気づいた。
呼吸をするたび、喉の奥がチリチリと焼けるように痛む。
網膜に焼き付いた白光の残像が、目を閉じても開いてもチカチカと残酷に踊り、意識の輪郭は濃い霧の中に浮いているように心許ない。
全身の皮膚が、薄い硝子の破片を一斉に押し付けられ ているかのように痛痒く、神経が悲鳴を上げている。
だが、その苦痛こそが、自分がまだ死の淵を免れているという唯一の証明だった。
その時、泥濘に沈むような意識の底へ、硬質な、けれど微かに震えを帯びた声が届いた。
「……起きてください、髙島さん。寝るなど、この私が許さないのです。―――貴方は私の大切な口唇を、これほどまでに台無しにしたのですから。
弁償とは言いません。―――口直しのモンブランくらい、耳を揃えて払っていただきますからね」
視界がゆっくりと焦点を結んでいく。
すぐ目の前に、煤と埃で汚れ、真っ白な肌を赤く火照らせたエレナがいた。黄金の瞳が、溢れそうになる涙を必死に堪えるように潤んでいる。
いつもの不遜な態度を装ってはいるが、その肩は小さく震えていた。強気な言葉の裏側に、彼女らしい、ひどく脆そうな不機嫌さが透けて見える。
「……モンブラン……。……安くしてくれよ。俺、来週から、かき氷代も、バイトで貯めなきゃいけないんだから……」
髙島はひび割れた唇を無理やり動かし、掠れた声で笑った。
その、あまりにも場違いで「日常的」な、冗談とも本気ともつかない言葉。
エレナは一瞬だけ、真っ白な雷に打たれたように虚を突かれた顔をして目を丸くした。
それから、こみ上げる感情を隠すように、逃げるようにフイッと顔を背けた。
「……当たり前ですわ。頭がキーンとなるような、一番高いものを奢っていただきます。……絶対なのです。拒否権など、最初からパートナーに過ぎない貴方にはありません」
そのやり取りを、手の届く距離で見守っていたマリヤが、限界まで溜め込んでいた緊張の糸が切れたように、わっと声を上げて泣き出した。
小さな、今にも折れそうな指でエレナの背中にしがみつき、幼子のように声を上げて泣きじゃくる。
その涙は、恐怖からではなく、最悪の結末を回避できた安堵からくるものだった。
「……よかったぁ……。……エレナお姉さんも、おにーさんも……っ。……本当に、死んじゃうかと思ったんだもん……!」
「……泣かないでください、マリヤちゃん。……もう、大丈夫です。……最悪の予定は、全部私たちが書き換えました。
……これからは貴女が、自分の言葉で……白い紙に続きを書くのです」
エレナはマリヤの頭を、壊れ物を扱うように優しく、愛おしそうに撫でた。
その指先は、先ほどまで世界を焼き尽くそうとし、物理法則という絶対の理にバグを撒き散らしていた「破壊の真髄」ではない。
ただの年相応の少女が持つ、細くて、柔らかで、確かな熱を持った手だった。
死を前提として組み上げられた神話の歯車が、一人の少年の青臭い「わがまま」によって噛み合わなくなり、脱落した。
その結末を噛みしめるように、エレナは高島の傷だらけの手を、自分の手でそっと覆った。
少し離れた場所で、南方紅葉がその三人の姿を凝視していた。
彼女の手にあったはずの、霊的な光を放つ『鳴弦の弓』は既に粒子となって大気に消えている。
代わりに彼女が手にしていたのは、ひどく場違いで、けれど残酷なまでに現実的な、スマートフォンだった。
画面を操作する彼女の指先は、まだ戦いの興奮と、一歩間違えれば全員が消滅していたであろう恐怖の余韻で、微かに震えている。
「……はい、こちら南方。……目標の回収に成功。……ええ、現場の被害は甚大だけど、最悪の事態は免れたわ。
……え? ……今、なんて言ったの? 『新秩序(ヌーヴォー・レジーム)』? ―――何のこと?
……今はそんなことより、一刻も早く救急車を回して。
―――こっちには、地理の追加課題を山ほど抱えた『重病人』がいるんだから。……早くしなさいよ!」
紅葉は苛立ちを隠さずに通話を一方的に切ると、大きくため息をつき、空を見上げた。
帝都を覆っていた、不吉な偽りの日食は終わりを告げている。雲ひとつない真夏の空には、無慈悲なまでに明るい、暴力的なまでの陽光が戻っていた。
その光が、隠すべき恥部を暴くように、地上で起きた惨劇の爪痕を白日の下に晒していた。
彼女の足元では、シュミットの執念とアステカの怨念が混ざり合った象徴、翡翠の破片が、夏の強い日差しを浴びて、音もなく白い砂となって崩れ去っていく。
神話の残滓は、もはやこの世界の現実的な空気を汚す力さえ、完全に失っていた。
紅葉は三人の元へと歩み寄る。彼女の、本来なら清浄であるはずの巫女装束もまた、激戰の衝撃波を受けてボロボロに引き裂かれていた。
「……坂の上まで、頑張って歩けるかしら? ……髙島君。それとも、私が特別にお姫様抱っこでもしてあげましょうか?」
冗談めかして差し出された紅葉の手を見て、髙島はエレナの肩を借りながら、ゆっくりと、震える足に力を込めて腰を上げた。
膝が笑い、全身の節々が「これ以上動かすな」と悲鳴を上げている。
だが、その痛みの鮮明さこそが、自分が「日常」という名の、終わりのない戦場に戻ってきた証拠のように思えた。
「……ああ。――帰るさ。……明日、金柑頭の先生に、……プリントの代わりに、この『惨状』を撮影したスマホを見せて、自由研究として提出してやるんだ……」
「……ふふ、それで退学になっても、私は知りませんわよ? 流石に庇ってなど差し上げられませんから」
エレナがいつもの懍とした、どこか突き放すような声音で返す。
高島は眩しさに目を細めながら空を見上げた。
蝉の声が、まるで先刻までの静寂と爆音など最初からなかったかのように、再び圧倒的な音量で街を支配し始めていた。
騒がしくて、暑苦しくて、誰もが自分勝手に生きている、不愉快なほどにありふれた夏の午後。
彼らが命懸けで守り抜いたのは、英雄譚に記されるような栄光などではない。
明日また誰かに怒られ、課題に追われ、暑さに毒づくという、どうしようもなく不格好で愛おしい「続き」だった。
「というか、そもそもお前誰だよ!? さっきから平然と会話に混ざってるけど」
ふと思い出したように髙島が尋ねると、紅葉は長い髪をかき上げ、茶目っ気たっぷりにウインクした。
「あら、失礼。申し遅れたわね。―――私は南方紅葉。見ての通り、エレナちゃんのお姉ちゃんよ」
「……お前、どう見ても生粋の日本人だろ。―――顔立ちも名前も。平然と真っ赤な嘘を付くなよ、混乱するだろ」
「嘘じゃないわよ。魂の戸籍上はね」
そんな軽口を叩き合える程度には、世界の空気は弛緩していた。
「……行くぞ。かき氷、メロン味か? それともいちごか?」
「却下です。―――宇治金時の一番高いやつ。白玉と練乳は必須条件。認めないのです、それ以外は」
「―――てか、マリヤ。この怪我治せないか? ――さっきみたいにさ。すっげぇ痛いんだけど」
「――ん〜難しいかも。頑張ってね、おにーさん♪」
「マジかよ………」
三人と、さらにもう一人が、ゆっくりと歩き出す。
緩やかな坂道を、互いに支え合い、傷を労りながら。
背後で時折、耐えきれなくなったコンクリートが崩落する轟音が響くが、今の彼らには、その音さえも日常の再開を祝うファンファーレのようにしか聞こえなかった。
しかし、紅葉だけは、歩みを緩めることなく、先ほど通信の向こう側で耳にした不穏な言葉を、意識の最も深いところで反芻し続けていた。
『新秩序(ヌーヴォー・レジーム)』。
歴史の影で蠢く、國家や宗教という枠組みすら超えた巨大な権力構造。その冷徹な歯車が、既に音を立てて動き始めていることを、彼女の第六感が察知していた。
一度は救われたはずのマリヤを、再び世界の「例外」として――処理すべきバグとして切り捨てようとする、より巨大で組織的な意志。
紅葉は、隣で満身創痍ながらもひたむきに歩く、高島の広い背中を見た。
地理のプリント一枚という矮小な武器で、世界の因果律(境界線)を書き換えてしまった少年の、その頼りなくも誇らしい細い肩を。
(……ごめんなさい、マリヤちゃん。そして髙島君。世界という怪物は、まだ、終わらせてはくれないみたいよ)
彼女の唇から零れた微かな呟きは、地上を焼き尽くすような陽光と、激しく鳴り響き始めた蝉時雨の中に、誰に届くこともなく消えていった。
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