絡繰人形編
第廿三話 粛清(チーストカ)
1.
二〇一五年、七月。 暦の上では夏といえど、北の帝都、聖彼得堡の夜明け前は、季節の概念を嘲笑うかのような冷気に支配されていた。バルト海から吹き付ける湿った風が、ネヴァ川の水面を波立たせ、死者の吐息のような白い霧を街へと押し流していく。霧はガス灯の鈍い光を乱反射させ、バロック様式の壮麗な街並みを、現実味のない幽霊船の群れのように変貌させていた。
旧アレクサンドル・ネフスキー大修道院。 かつて、かのピョートル大帝が大北方戰爭の勝利を祝した際に建立し、魯西亞の守護聖人ネフスキーの遺骨を安置したその場所は、今や歴史の遺骸に過ぎなかった。高くそびえる石壁には、ナポレオン戰爭、二度の世界大戰という、この國の「血の記憶」が何層にも堆積している。威厳を保とうとする尖塔の足元では、新しい時代の濁流が、音もなく、だが確実に聖域を浸食しつつあった。
午前七時。 修道院の裏口に、漆黒のベンツが三台、排気音を殺して滑り込んだ。 車から降り立ったのは、勲章を誇示する軍服の兵士でも、黒い法衣を纏い香炉を振る司祭でもなかった。彼らは仕立ての良い、だが徹底して特徴を排したダークグレーの外套を羽織った男たちだった。その懐には、冷たい鋼鉄の重み――先の時代から「信頼」という名の血を吸い続けてきたマカロフ拳銃が、主人の体温を奪うように静かに収まっている。
彼らは「改革派」と呼ばれていた。 だが、その実態は國家保安委員会(KGB)の系譜を継ぐ、法と信仰の埒外に置かれた実行部隊。言うなれば、旧体制(アンシャンレジーム)のみに狙いを定めた、二十一世紀の「チェーカー(秘密警察)」である。
「時間は十分ある。だが、無駄話は要らん。それが莫斯科からの条件だ」
リーダー格の男が、白く濁る息と共に短く命じた。彼の手首には、高級な時計ではなく、軍事用の無骨なデジタルウォッチが巻かれている。扉を叩く礼儀も、扉を蹴破る野蛮さもそこにはない。彼らは用意されていた合鍵を使い、まるで自分の家に帰るかのように、音もなく聖域へと侵入した。彼らにとって、修道院の静謐も、そこに漂うインセンス(香)の香りも、単なる「作戦区域の環境データ」に過ぎなかった。
地下会議室。 そこはかつて、無神論を掲げるボルシェヴィキの弾圧から逃れるため、修道士たちが命懸けで秘密の祈りを捧げた場所だった。かつての弾圧者は「國家」だったが、今の弾圧者は「國家と一体化した宗教」である。
今、その狭い空間では、ボリス大司教を中心とする五人の男たちが、最後の議論を交わしていた。 机の上には、聖彼得堡の教区運営、そして「帝都」を巡る改革案の書類が山積し、冷めきった紅茶の表面には、微かな油膜が不気味に浮いている。その中央に置かれていたのは、古びたシャシュキ(魯西亞式チェック)の盤だった。
「ボリス大司教、我々の主張はコンスタンティノープルに届くと思いますか?」
若い司祭が、震える指先で白い駒を一つ進めながら問いかけた。彼の瞳には、純粋な信仰ゆえの恐怖が宿っていた。 「届くのではない。届かせねばならんのだ。莫斯科の専横を許せば、我々の信仰はただの地政学の道具、あるいは蘇聯型社会主義という名のナショナリズムに成り下がる。――この街も『レニングラード』という汚名を返上したことで浄化されたはずだった。だが、今の莫斯科は、再び神を國家の歯車にしようとしている」
ボリスは、盤上を静かに見つめた。 彼が進めた白い駒は、敵陣の最後列まであと一歩のところにある。そこへ辿り着けば、強力な権限を持つ『ダムカ(キング)』へと成る。だが、その盤上の勝利は、現実の暴力の前ではあまりに無力な「算術」に過ぎなかった。
ボリスが次の一手を指そうとした、その時だった。
重い鉄扉が、一切の予兆なく開いた。 「……誰だ」 若い司祭が椅子を引き、立ち上がろうとする。その言葉が終わる前に、地下室の冷え切った空気は、五つの乾いた破裂音によって引き裂かれた。
ボリスの視界が、不自然なほどのスローモーションに変容する。 隣にいた若い司祭の胸部が、目に見えない衝撃に弾け、赤い飛沫が書類を汚した。彼が倒れ込む衝撃で、精緻に組まれていた盤上の駒が派手に飛び散った。『ダムカ』に成るはずだった白い駒が、床を転がり、広がり始めた血溜まりの中へと虚しく没していく。
二発目、三発目。 外套を羽織った男たちの動きに迷いはない。それは射撃訓練の標的を倒すような、事務的なまでの正確さだった。一発目で動きを止め、二発目で心臓を、三発目で頭部を。彼らにとってこれは殺人ではなく、國家という巨大なシステムのバグを取り除く「クリーンアップ」に過ぎなかった。硝煙の匂いが、古びた地下室の埃臭さを一気に上書きしていく。
「待て! 我々は――」
ボリスは叫ぼうとした。自分たちが守ろうとした真理、正教の未来、それらを言葉にしてぶつけようとした。だが、冷徹な銃口が彼の眉間に固定される。 直後、彼の意識は漆黒の闇へと突き落とされた。至近距離から放たれた九ミリ彈が、彼の脳を、そして彼が抱いていたすべての理想を、物理的な質量を持って粉砕した。
ボリスの体は、数秒間だけ椅子に座ったままの姿勢を保ち、やがて重力に従って前方に崩れ落ちた。床に敷かれた古い祈祷用の絨毯が、温かい鮮血を貪るように吸い込み、どす黒く変色していく。それはまるで、大地そのものが「生け贄」を受け入れたかのような光景だった。
「対象、全員の沈黙を確認」
実行部隊の一人が、脈を確認することもなく、無機質な声で告げた。彼は足元に転がってきた白い駒を軍靴で無造作に踏み潰し、リーダーへと視線を向けた。 「記録はどうする?」 「予定通りだ。不法占拠した過激派集団による内部抗争。老害共が消えれば、彼らが守っていた『保護対象(資産)』も、もはやただの暗殺対象、あるいは没収対象だ。速い話、すでに殺されてても何も驚かん」
リーダーの男は、虚空を見つめる死体たちを無表情で見下ろした。ここにはもはや、神も救いもない。ただ、硝煙の匂いと、壁に掛けられたイコン(聖像画)だけが、この惨劇の証人だった。弾痕を受け、斜めに傾いたイコンの中のキリストは、悲しげに目を伏せ、この泥まみれの「現実」を拒絶しているように見えた。
「――莫斯科、ひいてはЛев大主教に逆らったのだ」
その名を告げた瞬間、地下室の空気が僅かに重くなったように感じられた。それは権力という名の物理的な圧力だ。 「大義名分は我々にのみ存在する。否、正確には――あのお方の側にのみ、だ。無敵艦隊(アルマダ)を気取ったところで、所詮は泥舟。沈むのは、歴史の必然だ」
男は外套のポケットから、一通の封筒を取り出した。それは、本来であれば教会法に基づき、厳かな聖公会議を経て発行されるべき、世界の理を左右する文書だった。 床の血溜まりを避け、彼はそれをボリスの亡骸のそばに置いた。
「シスマ(ΣΙΣΜΑ)通知書」
そこには、東方正教会の秩序を根底から覆す、恐るべき署名が並んでいた。 コンスタンティノープル、莫斯科、
この一枚の紙が、彼らの死を「殉教」ではなく「処刑」へと定義し直した。彼らは信仰のために死んだのではない。最高権威によって「不浄なる理論の温床」と断じられ、排除された異端者として処理されたのだ。この通知書が置かれた瞬間、彼らの魂は天国への門を閉ざされ、地獄という名の「歴史の闇」へと放り込まれた。
部隊が去った後、地下室には時計の秒針の音だけが響いていた。 カチ、カチ、と刻まれる時間は、死者たちの止まった時間とは無和に、非情な未来へと進んでいく。
後日、聖彼得堡の朝刊には、社会面の隅に小さな記事が掲載された。 『正教修道院関係者、武装集団による銃撃で死亡。当局は内部抗爭とみて捜査を開始』
市民たちは、パンを齧り、冷めたコーヒーを飲みながらその記事を読み飛ばす。誰もが、その地下室で「正教の未来」を賭けた最後の一手が、血に濡れた盤上で永遠に途絶えたことなど知る由もなかった。 マフィアの縄張り争いか、あるいは狂信的な過激派の仕業か。誰もがそう思い、誰も深くは追求しない。それがこの國の、そしてこの時代の生存戦略としての「作法」であった。
改革派は宗教を否定したのではない。ただ、自分たちの描く新秩序にとって、ボリスたちの信じる「古い神」が不要になったから殺したのだ。 これはクーデターですらなかった。ただの効率的な「革命」であり、冷徹な「処理」であり、そして何より――。
―――北の都では、決して交わることのない断絶の線が、鮮血によって引かれていた。 地下室に残された「シスマ」の紙は、乾きゆく血の中で、ただ静かに次の標的を指し示しているようだった。
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