第二十話 逃避行
5.
頭上の太陽が、漆黒の円盤に喰らい尽くされていく。
正午だというのに、地上は夜よりも深い、翡翠色の「闇」に沈んだ。
シュミットの『予定説』が世界を定義し直し、あらゆる物質が彼の殺意に従って再構成されていく。
「さあ、ノスフェラトゥーによるフィナーレの始まりだ!!」
「髙島、皆既日食の継続時間の計算は?」
隣でエレナが、八重歯のような鋭い牙を覗かせて笑った。
死の影が物理的な重圧となって迫る中、彼女の黄金の瞳だけが不敵に輝いている。
「……理論上の最大継続時間は七分三十二秒。だが、実際の最長記録は一九五五年に比律賓で観測された七分プラス数秒程度だったはずだ」
髙島は網膜に走る思考回路を凝視しながら、以前、駅のベンチでたまたま拾い読みした、自分には似合わない科学新聞の記事を思い出していた。
「誤差を考慮して、この闇が続くのはおおよそ五分間――三〇〇秒だ。その間、一つでも行動を違えば俺たちは瓦礫の下だ。エレナ、ルートは俺が作る。お前は―――」
「それ以上、言わなくていいわ。あんたが拾い集めたその知識を、あたしが『現実』に叩き伏せる。そうでしょ?」
「文系馬鹿のクセしてよく分かってるじゃないか」
エレナは腕の中のマリヤを強く抱き寄せた。
「流石、唯の金魚の糞ではないわね―――さあ、地獄のカウントダウンを始めましょうか。――あんたの出血も早急にどうにかしないとね」
エレナが床を蹴ると同時、彼らが先ほどまでいた空間を、巨大な鉄骨が音もなく粉砕した。
「――残り、二百八十秒」
髙島の掠れたカウントダウンと共に、背後の通路が巨大な顎に噛み砕かれたような音を立てて消失した。
エレナはマリヤを抱えたまま、倒れ掛かる高島の身体を強引に支えて跳躍する。だが、高島の左腕、自ら噛み切った傷口は無惨だった。
攻撃であればマリヤの『上書き』により効かないが、シュミットが放つ「日食の闇」の冷気は攻撃ではない。
それは傷口から入り込み、翡翠色の毒気となって彼の血管を蝕んでいる。
「髙島、しっかりしなさい! 目を開けて!」
「……っ、すまない。視界の……焦点が、合わない……」
失血と呪詛。高島の脳内モニターに激しいノイズが走り、逃走ルートの演算が途切れかける。
シュミットの「予定説」が、高島の死という結末を強引に手繰り寄せようとしていた。
その時、エレナの腕の中でマリヤが動いた。
彼女は恐怖に震える手を伸ばし、高島の熱い傷口にそっと触れる。
そして、絶望的な崩落の轟音を切り裂くような、古風でリズミカルな韻律を口ずさみ始めた。
「Hlūde wæran hȳ, lā hlūde, dā hȳ ofer pone hlæw ridan……(彼女たちの叫びは激しく、ああ、激しく、丘を越えて駆けるとき……)」
それは、古き北の民。アングロサクソンが「空から降る見えない槍(急な痛み)」を追い払うために編み出した癒しの歌、『Wið færstice』。
「Ut, lytel spere, gif her-inne sie!(出よ、小さな槍よ、もしここにあるならば!)」
「……痛いの、飛んでいけ(vua stice)。……輔祭さんに教えてもらった呪文。悪い槍は、もうここにはいないよ!」
マリヤの異言が古英語の呪文と共鳴した瞬間、高島の傷口から、シュミットの呪詛が結晶化した翡翠の棘が、音を立てて弾け飛んだ。
噴き出していた黒い霧は一瞬で霧散し、代わりにマリヤの純粋な「否定」の力が混じり合い、
髙島の肉を、血管を、急速に編み直していく。
「……っ、肺に空気が入る。……視界が、戻った!」
髙島は大きく息を吸い込み、再び視界を押し上げた。
脳内の幾何学模様がかつてない鮮明さで再起動し、崩壊する地下空間の中に、地上へと続く唯一の「解」を黄金の線で描き出す。
これを世間では火事場の馬鹿力というのだろう。
「――残り二百五十秒。マリヤ、助かった。おかげで『回路』が繋がったぞ」
「……ふん、お礼は戦いが終わってから言いなさい。――いくわよ、二人とも!!」
エレナは不敵に笑うと、高島の血によって再構成された野生的な爆発力を解き放ち、垂直に切り立った壁を重力無視の速度で駆け上がり始めた。
背後では、シュミットの「予定」を裏切られた翡翠の柱が、空しく空を打って砕け散っていった。
「――残り二百秒。この先、右の壁が崩れる! 十五度左へ跳べ!」
髙島の網膜に投影された黄金のラインが、激しく火花を散らす。
シュミットの『予定説』と、高島の『確率計算?』が、空間の主導権を奪い合って激突していた。
エレナはマリヤを小脇に抱え、高島の指示通りに虚空を蹴る。
背後では、彼女の踵が離れた直後の足場が、巨大な目に見えない力に押し潰され、粉塵へと変わっていく。
「……っ、しつこいわね! 予定だの運命だの、そんなに決められた通りに動くのが好きなら、自分の心臓が止まる時間でも計算してなさいよ!」
エレナの罵声と共に、彼女の背中から黒い霧のような翼が展開される。
髙島の血を得たことで、彼女の吸血鬼としての本質が、日食の闇にさえ抗う「夜の王」の威光を放ち始めていた。
「ハハハッ! 逃げろ、逃げまくれ! だが少年、忘れたか? この地下は私の『基盤』だ。出口などという便利な概念は、五分前に私が削除した!!」
シュミットの哄笑が、四方八方の壁から反響して響く。 出口へ続くはずの階段は、幾何学的な矛盾を起こしてメビウスの輪のように繋がり、彼らを無限の回廊へと誘い込む。
「……違う。出口はある」
髙島は、激しい頭痛に耐えながら眼鏡の縁を掴んだ。
「シュミット、お前の計算は完璧だと思う。 だが……お前は『日食』という天文現象を魔術の触媒にした。それがお前の唯一の、そして致命的な計算ミスだ」
「何だと……?」
「お前が座標の基準にしたのは、かつての帝国主義の象徴、グリニッジ旧王立天文台の基準線(子午線)だろう?
だがな……実際の地球の自転軸と重力モデルに基づいた『真の基準子午線』は、そこから東に約百メートル、角度にして約五・三秒ズレているんだよ!」
高島は、自身の脳内にある『黄金の解』を、限界を超えて加速させた。
「お前の『予定』した地底の座標は、現在の地球測地系(WGS84)から見れば、コンマ以下の誤差どころか、致命的な『脱字』を孕んでいる。
お前が完璧だと思い込んでいる神話の幾何学は、現代の地球の上では、たった今、百メートル分も空を切っているんだ!」
「馬鹿な……基準が、世界の『軸』がズレているというのかッ!?」
「ああ。マリヤが『摩擦』を消し、お前が『基準』を間違えた。――今、この空間の因果関係は、ただのガタガタな欠陥住宅だ!」
髙島は、あり得ないはずの「特異点」を指し示した。 それは数式による導出ではない。
死の淵で、古い記憶と目の前の光景を無理やり結びつけた、ただの直感という名の爆発だった。
「……最悪だったよ。赤点を取って、エレナに見捨てられた上で、GWに無理やり受けさせられたあの地理の補習。
帝大卒先生が脱線して延々と語ってた知識が今更役に立つなんてな!
お前の神話は、俺の真っ赤っ赤の補習プリント以下の価値しかないんだよ。―――先生の話は聞くもんだな!!」
「エレナ、真上だ! 難しいことは知るか! お前が今蹴ってる壁は、ヤツの計算の中じゃ『存在しない空洞』だ! 突き抜けろぉぉ!!」
「――残り、百四十秒! 男の意地を見せなさいよッ!!」
エレナはマリヤを背負い直すと、高島の襟首を、まるでちぎり取るような勢いで強引に掴み上げた。
彼女が地を蹴った瞬間、世界から「上下」の概念が消滅した。
地下100メートル。本来なら、奈落の底。 だが今のエレナにとって、それは踏み越えるべき「壁」でしかなかった。
「――ぶち抜くわよ!!」
髙島の鼻先を、時速数百キロに達する上昇Gが殴りつける。肺から空気が強制的に絞り出され、肋骨が悲鳴を上げた。
視界の端を、巨大な瓦礫と鉄骨が弾丸のような速度で通り過ぎていく。
だが、シュミットの執念もまた異常だった。
逃がさじと迫る周囲の岩盤が、まるで生き物のように蠢き、逃走ルートを物理的に押し潰そうと狭まってくる。
左右から迫る、数千万トンの地層。その凄まじい圧力が、空間そのものをミシミシと軋ませた。
「……っ、道が、閉じる……!」
マリヤが悲鳴に近い声を上げる。 コンクリートと土砂が牙を剥き、出口を完全に塞ごうとしたその刹那、高島の網膜に「答え」が閃いた。
「――右だ、エレナ! 岩盤の『継ぎ目』がある! そこだけはヤツの支配が届いていない!」
髙島が叫んだのは、計算結果ではない。
シュミットの傲慢が作り上げた「完璧な箱庭」の、唯一の綻び――そこに生じた**「風の通り道」**への直感だった。
エレナは空中で体をひねり、閉じる直前の岩盤の隙間へ、自身の背中から溢れ出す漆黒の霧を叩きつけた。
火花を散らしながら、三人の体は針の穴を通すような精度で、地層の断層へと滑り込む。
「……あ、ああ……っ」
マリヤが目を見開く。
その瞬間、耳を刺すような轟音が鳴り響いた。 シュミットの拠点が、自重に耐えかねて最下層から崩壊を始めたのだ。
足元から迫る、すべてを飲み込む暗黒の渦。 だが、その頭上から―― 暗闇に慣れきった瞳を灼くような、暴力的なまでの白光が降り注いだ。
その光の矢が、地下100メートルの深淵まで一直線に突き刺さり、彼らを導く道標となった。
「――『予定』なんてのは、ただの古臭い紙屑だ。シュミット!!
―――お前の敗因は先の大戦時で知識が止まっていたことと、日本の素晴らしき授業を受けなかったことだ」
髙島の叫びを置き去りにして、エレナの脚力が限界を超えて爆発した。
最後の一蹴り。崩落する奈落の底から、三人の身体は弾丸のように撃ち出された。
残り三十秒。
投げ出された視線の先。 漆黒に染まった空の割れ目から、一筋の、今度こそ本物の太陽の光が差し込み始めていた。
シュミットの『五分間の予定』にはない、計算外の「奇跡」。
皆既日食が終わりを告げる、その数秒前の「ダイヤモンドリング」の輝き。
それにより、三人の身体が、地上のまばゆい白光の中に溶けていった。
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