第十九話 正午(タイムリミット)
4.
「―――なぁんてな。くだらん演技にも飽き飽きしていたところだ」
シュミットは、それまでの仰々しい身振りをぴたりと止めると、内ポケットから取り出した金色の懐中時計の蓋をパチンと開いた。
その金属音は、静まり返った地下空間において、まるで死刑執行を告げる裁判官の槌音(ガベル)のように冷酷に響き渡る。
「……少年よ。君は『法』を信じている。小娘、君は自らの『血』を。――だが、それらが成立するための条件というものを、一度でも深く考えたことはあるかい?」
彼はあえて言葉を切り、ゆっくりと視線を巡らせた。髙島、エレナ、そして恐怖に肩を震わせるマリヤ。
一人一人の瞳の奥を覗き込むようなその仕草には、獲物の断末魔を心待ちにする捕食者の嗜虐心が透けて見える。
正午まで、あと五十秒。 頭上の崩落した隙間から差し込んでいたはずの、わずかな救いの光が、目に見えて弱まっていく。
帝都の空は、健康な青を失い、どす黒い病的な紫色へと変色し始めていた。天体が、その本来の並びを狂わせ、世界から色彩を奪い去ろうとしている。
「たとえば、だ。この近代建築の礎石の下に、何が埋まっていると思う? 排水管か? 送電網か? ……違うな。
かつてここが海だったかも知れないという、退屈な地理学的御託は無しだ。もっと下、この土地が誕生し、まだ名前さえ持たなかった頃の『記憶』だよ」
シュミットは、泥に汚れた床をダンスでも踊るかのように、優雅なステップで歩き回る。彼の足跡からは、翡翠色の燐光が立ち上り、周囲の闇を不気味に照らし出した。
「どの高度な文明にも共通する絶対的な真理は、その下の『基盤』が必ず存在することだ。
ピラミッドの下には前の時代の瓦礫が、教会の地下には異教の祭壇が、そしてこの帝都の地下には――」
彼はそこで、わざとらしく言葉を止めた。溜めに溜め、高島の焦燥が、その心拍が、極限まで跳ね上がるのを待ってから、毒を塗り込んだ蜜のように甘い声で告げる。
「――かつて世界を終わらせようとした、原初の恐怖(カオス)が、フラクタルの如く心地よい眠りについているんだよ」
「……まさか、日食っ!」 エレナがその単語を絞り出した時には、もう遅かった。
あと四十秒。 日食の影が、シュミットの背後で巨大な、多足の怪物の形に膨れ上がっていく。
それはドレスデン・コデックスに記された、太陽を貪り喰らう星の魔物(ツィツィミトル)のシルエット。
実体を持たぬはずの「影」が、物理的な質量を伴って空間を歪ませ、地下の空気を圧縮していく。
「お前たちが今日、この瞬間ここにいることも。私がこの場所を選んだことも。……全部、明日のニュースには一行も載らない『確定事項』だったんだよ。
文明という名の、今にも割れそうな薄い氷の上で、君たちは実によく踊ってくれた」
正午まで、あと三十秒。 地下の湿った空気は、今や完全に「死」の温度まで下がりきっていた。吐き出す息が白く凍り、肺の奥を刃物のように切り刻む。
「……なあ、モルモット。貴様の主は何と言っていたかな?」 シュミットは、教壇に立つ教師のような、穏やかでいて冷酷な手つきで空中に円を描いた。
そこには日食の影が、巨大なハロー(暈)となって定着し始めている。
「祈れば救われる? 善行を積めば報われる? ……ハハッ。滑稽だ。お前達の信仰しているキリスト教的には、それを『予定説』と呼ぶんだよ。
神が救う者と滅ぼす者は、最初から決まっているという残酷な真理をね」
シュミットは「貴様」という二人称を冷たく突き放し、その響きを自らの舌の上で転がすように続けた。
「お前たちが今日ここで死ぬことも、私の記憶が神話となって世界を塗り替えることも……。
祈りの深さや、君の持っている小賢しい算術などで変わるような、そんな安っぽい出来事ではない。
この宇宙という巨大な時計仕掛けが組み上げられた、その最初の瞬間に、既に決定(デザイン)されていたことなんだよ」
あと二十秒。 髙島の耳に、自分の心拍とは異なる、巨大な「地動」の音が聞こえ始める。ドクン、ドクンと。それはアステカの地底から響く、生贄を求める神々の足音か。
「マヤの暦がなぜあれほど精密だったか分かるかい? 彼らは『決定された未来』を、一秒の狂いもなく知りたがったからだ。
アステカが血を求めたのは、その『決定』を維持するための税金(タックス)を払っていたに過ぎない。この正午の闇は、たまたま起こった不運などではない。
最初からそこにあった『唯一の正解』なんだよ」
シュミットは、時計を見るのを止めた。もはや機械的な文字盤など必要ない。
世界そのものの拍動が、彼の肉体を通じて「予定」通りに閉じようとしているのを感じ取っているからだ。
「さあ、自分の席に座れ。滅びる側として選ばれた、光栄な貴様らの席に。―――私は踊り狂うぞ、
懐中時計の蓋がパチンと閉まった。その残響が、一秒、また一秒と、引き延ばされた
あと十五秒。
シュミットのステップは、もはや物理法則をあざ笑うかのように、重力を無視し始めていた。
泥に塗れた靴が床を叩くたび、そこから青白い翡翠の火花が爆ぜ、コンクリートの裂け目から、粘り気のある「過去」が噴き出してくる。
「……見てごらん。この壁の亀裂から流れているのは、五百年前に侵略者によって忘れ去られた生贄の記憶だ。あの時流れた血が、ようやく喉を潤せると歓喜している」
彼は踊りながら、空中に見えない『算譜(スコア)』を指先で刻んでいく。
髙島の視界は、もはや正常な幾何学を維持できていなかった。直線の壁はうねり、床は深淵へと続く階段のように歪む。
算術の基本である「一足す一は二」という、揺るぎないはずの真理さえも、日食の影が落ちる角度によって歪曲させられ、導き出される答えは無限の闇へと発散し、霧散していく。
髙島の脳裏に、かつて読んだ古い格言が過った。
『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている』
だが今、目の前にある光景はそんな詩的なものではなかった。深淵そのものが「意志」を持ち、高価なスーツを纏い、狂気の中を跳ね回っているのだ。
「予定説……。そうさ、少年。君が今日、その安物の靴の紐を結び、家を出たその瞬間から、この地下で私のダンスのパートナーになることは決まっていたんだよ。
いくらその拳銃で武装しようが、神々の描いたシナリオには抗いようがない。君の弾丸がどこに飛ぶかさえ、私は既に知っている」
あと十秒。
「さあ、始めよう。メメントモリだ!」
三、二、一....
正午を知らせる、帝都の時計塔の如き防災無線から放たれたチャイムが、重なり合いながら大気を震わせて伝わってくる。
地上の人々が空を見上げ、太陽が欠けていく神秘に息を呑んでいるであろうその瞬間、地下一〇〇メートルでは「神話」が完成した。
そのチャイムの振動は、エレナの胸の奥底、理性の檻で囲われていた「原初の飢え」を暴力的に叩き起こした。
彼女の指先が、末端からどす黒く変色し、その爪は光を吸収する黒曜石のように鋭く、長く伸びる。
彼女の内に流れる吸血鬼の血が、高島から得た「黄金の血」と混じり合い、想定外の化学反応を起こして沸騰していた。
「……予定なんて、クソ喰らえよ」
エレナの搾り出すような呪詛は、しかし、シュミットが呼び覚ました圧倒的な「基盤」の鳴動、地底から噴き上がる神話の咆哮にかき消された。
完全なる闇が、正午の帝都を、そして三人の運命を飲み込んでいく。
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