第廿一話 疥癬の猛獣(チュパカブラ)

6.



パァンッ!


鼓膜が弾けるような衝撃音と共に、世界が白く塗り潰された。

コンクリートに叩きつけられるドサッという鈍い音。 遅れてやってきた凄まじい風圧が、周囲の街路樹をザワザワッと大きく揺らした。


「……っ、が……はっ、げほっ!」


髙島は、自分の肺が空気を吸い込むヒュー、ヒューという情けない音で、ようやく自分が生きていることを実感した。

網膜にはまだ、あの暴力的なまでの白光――ダイヤモンドリングの残像が焼き付いている。


「……生きてる、わよね。あたしたち」


すぐ隣で、エレナが荒い息をつきながら座り込んでいた。 煤だらけの顔、ボロボロになったセーラー服。

だが、その黄金の瞳はしっかりと前を見据えている。

彼女の腕の中では、マリヤがビクッと身体を震わせながらも、静かに目を開けた。


「……お日様。……まぶしい」


マリヤの小さな呟きが、静まり返った街に溶けていく。

皆既日食という「異常事態」が終わりを告げ、地上には再び、ありふれた夏の午後の陽光が降り注いでいた。


髙島の視界の端で、遠くからパトカーのウゥゥゥーというサイレンが聞こえ始める。

先ほどまでいた地底の地獄が嘘のように、地上は困惑と混乱、そして再始動の音に溢れていた。


「……髙島、あんた。さっきの『日本の素晴らしき授業』ってやつ。あの金柑頭の先生に聞かせたら泣いて喜ぶんじゃない?」


エレナが皮肉っぽく口角を上げた。

高島は地面に大の字に寝転がったまま、力なく首を振る。


「……勘弁してくれ。二度と顔も見たくない。……ただ、もし次があるなら、居眠りせずに聞いてやるよ。……たぶん、だけどな」


「ふん、殊勝なことね。――さあ、立ちなさい。ピーポーピーポーって賑やかになってきたわ。今のあたしたちの格好で職務質問なんて受けたら、夏休みどころか警察署直行よ」


エレナが髙島の襟首をグイッと掴んで引きずり起こす。

「……っ、痛い! 手加減しろ、お前と違って一般人なんだぞ!」


「男の意地を見せたんでしょ? だったら最後までシャキッとしなさいよ」


髙島はふらつく足取りで、二人に支えられながら歩き出した。 背後では、シュミットの拠点が完全に崩壊した影響か、道路がメリメリッと音を立てて陥没し始めている。


「……あ、そうだ。エレナ」


「何よ」


「明日からの夏休みだけどさ……。俺、予定変更していいか?」


髙島は、突き抜けるような青空を見上げた。


「……『予定』なんて古臭い紙屑は、地下に置いてきたからな」


エレナは一瞬、呆れたように高島を見つめ、それからクスクスッと、牙を覗かせて笑った。



「…………あれ」


「何よ、急に立ち止まって」


 エレナが不審そうに眉をひそめる。  

髙島は青ざめた顔で、自分の右側、そして左側の空間を交互に見た。あるはずの感触がない。


「…………カバン」


「は?」


「カバン、置いてきた……。地下、いや隧道に……」


 一瞬、現場に沈黙が流れた。  

 遠くで鳴り響くサイレンの音と、足元でメリメリッと崩落を続ける地面の音だけが響く。


「……中身は何よ。まさか、あいつを倒すための切り札とか?」


「……そんな準備が良いわけあるか! 水筒とか⋯あと、今日提出しなきゃいけない、地理の、追加課題のプリント……」


 エレナの黄金の瞳が、急速に冷ややかなものへと変わっていく。  


 マリヤもまた、哀れみのこもった目で高島を見上げた。


「……あんた、あんなに格好いいこと言っておいて、結局また『補習』に逆戻りなわけ?

―――格好良いと思ったあの気持ちを返して」


「……予定変更だ、エレナ。夏休みの初日は、職員室への謝罪行脚から始まることになった……」


 髙島はガックリと肩を落とし、天を仰いだ。  


せっかくのダイヤモンドリングの輝きが、今はなんだか、帝大卒の先生のハゲ頭(金柑頭)の輝きに見えて仕方がなかった。


「お前はどうしたんだよ?」


「持ってきてるわけ無いでしょ? 邪魔だもの」


「さっきの本は?」


「――持ってるわよ」





「……待って。様子がおかしい」


エレナが、陥没する道路を振り返る。

彼女の黄金の瞳がスリット状に細まった。


陥没した穴の底から、先ほどまでの翡翠色の光とは違う、どす黒い「獣の気配」が溢れ出している。


「……あ、あ……ああああ……ッ!!」


それは悲鳴というより、喉をかきむしるような獣の咆哮だった。

土砂を撥ね除け、這い上がってきたのは――もはや人形の面影もない、異形の怪物だった。


背骨が異常に突出し、四肢は不自然に長く、鋭い鉤爪がアスファルトをガリッと深く削る。

かつての知性は消え失せ、落ち窪んだ眼窩には、ただ高島を八つ裂きにせんとする凄まじい殺意だけが灯っていた。


「……シュミット、なのか? あれが……」


髙島は息を呑んだ。 魔術の暴走か、あるいは自ら「予定」という理性を捨てて獣に身を落としたのか。

その怪物の口元には、高島が地下に置き忘れたであろう「補習プリントの残骸」が、まるで食い千切られた獲物のようにぶら下がっている。


「少、年……。オマエ、ノ……日常、ゴト……喰ラ、ウ……!」


ギチギチッと骨が軋む音を立て、チュパカブラの如き異形となったシュミットが地を蹴った。

音速に近い踏み込み。狙いは、高島の喉笛。


「―――アステカに飲まれたか。……いいわ、ならこちらも『礼』を尽くすべきよね」


 エレナの口角が、愉悦に歪んだ。  

 その瞳に宿るのは、憐れみでも怒りでもない。等身大の怪物を迎え撃つことができるという、純粋で残酷な喜びだ。


「日食で遮られていたみたいだけど。―――刻みなさい。これこそが、我が血脈の底に眠る――真髄よ!」


 吸血鬼(ノスフェラトゥー)の真骨頂が、今、ここにあるのだと全身で謳歌するように。    

 エレナが牙を剥き出しにし、紅い輝きを帯びた「正体不明の白い閃光」となって、正面からシュミットを迎え撃つ。


 ドォォォォォンッ!!


 激突の瞬間、アスファルトが巨大なクレーター状に陥没し、凄まじい衝撃波が高島を吹き飛ばさんばかりに荒れ狂った。


 白光の中、エレナの爪とシュミットの鉤爪が火花を散らす。    

 彼女の白い肌を、異形の返り血が汚していくが、エレナはそれを拭うどころか、恍惚とした表情でさらに踏み込んだ。


 「あははっ! そうよ、そうでなくっちゃ! 予定も神話も投げ捨てた、ただの『死に損ない』の足掻き……最高に美味(おい)しいじゃないッ!!」


 髙島は戦慄していた。  

 見えない。  

 今のエレナから放たれているのは、夜の眷属であるはずの吸血鬼が持つにはあまりに不自然な、「眩いばかりの白い熱量」だ。


 それは神々しくもあり、同時に、触れれば魂ごと焼き切られるような、由来の知れない拒絶の光だった。


 夏の青空の下、逃げ場のない路上で、最悪の『午後』が幕を開けた。



シュミットの動きは、もはや生物のそれではない。  


 骨を組み替え、重力を無視してアスファルトを「泳ぐ」ように迫る鉤爪。だが、その一撃はエレナの肌をかすめることすら叶わない。


 「――無駄よ。お前の『執念』は、今の私の波長には干渉できない」


 エレナが虚空を薙ぐ。  

 ただの平手打ちに見えたそれは、白い熱量を伴う衝撃波となり、シュミットの肉体をボロ雑巾のように吹き飛ばした。


 ドォォォォンッ!!  


 電柱がへし折れ、火花が散る。だが、シュミットはすぐさま立ち上がる。千切れた四肢が翡翠色の粘液で繋がり、さらに醜悪な形へと再構築されていく。


 「ア……アア……オマエ……喰ラウ……!」


 「……しつこい。反吐が出るわ」


 エレナの攻撃は一方的だ。シュミットを粉砕し、焼き切り、肉の塊に変えていく。  


しかし、髙島は気づく。  

 エレナの放つ「白い光」が、その圧倒的な出力ゆえに、彼女自身の「存在」をも削り始めていることに。  

 シュミットだった肉塊は、もはや動かない。  

 だが、エレナの暴走は止まらなかった。


「……あははっ、ああ、視えるわ。世界ってこんなに脆くて、美しかったのね……」


 彼女を中心に渦巻く「白い熱量」は、周囲の酸素を焼き尽くし、重力さえも歪めていく。  

 黄金だった瞳は白銀に染まり、彼女を見上げる高島の肌を、その余波だけでチリチリと焼き焦がしていく。


 「エレナ……! もういい、終わったんだ! シュミットは死んだ、カバンも……プリントも、もうどうだっていい!」


 髙島は叫びながら、一歩、また一歩と「白い死の圏内」へ足を踏み入れる。  

 それは本来、人間が立ち入っていい領域ではない。大気はプラズマ化し、放たれる熱量はアスファルトを沸騰させ、空間そのものをドロドロの飴細工のように歪めていた。



 ―――髙島は思い出した。いつかエレナが言っていた言葉を。  

 『数ある魔術の中で、吸血鬼の炎は“生”のみを焼く』


 無機物であるアスファルトやコンクリート、鉄筋のビルなどは、その炎を透過し、傷一つ負わないはずだった。

 それが世界の夜を統べる王族に与えられた「選別」の権能。  

 先にマリヤが唱えた、髙島達の肉体を「透過」し、死を回避させるはずの回避の呪文。

 しかし、エレナの「白銀の熱量」が混濁した極限状態において、異言はマリヤの意図を超えたバグを引き起こした。

「―――掻い潜れ(vua slizze)」

 その異言は、本来なら高島を白銀の劫火から救うための、慈悲深い「透過」の定義だった。

 吸血鬼の炎は、魂を持たぬ無機物を無視し、生者のみを焼き尽くす。それ自体が完結した高潔な理(ルール)だ。  

 しかし、そこにマリヤの回避呪文が混ざり合ったことで、世界は出口のない熱力学の牢獄へと変貌した。


 シュミットという唯一の「標的」が消滅し、周囲の建物という「身代わり」を吸血鬼の権能が拒絶する。

 逃げ場を失った白銀の熱量は、行き場を求めて狂ったようにのたうち回り、唯一「理」の管轄外であった周囲の大気へと強引に転嫁された。    


 吸血鬼の炎が建物自体を燃やすことはない。だが、透過し、拒絶されたはずの全エネルギーは、逃げ場を求めて周囲の「空気」を一瞬で数千度まで加熱した。  

 ――急激な熱膨張。それは大気を爆薬へと変質させ、物理法則のバグとして不可視の衝撃波を生成したのだ。


 それは、もはや魔術と呼ぶにはあまりに無作法な暴力だった。

 行き場のない熱を押し付けられた大気が「爆ぜる」のは、回避不能な物理の必然。

 目に見えない空気の槌(つち)が、高島の鼓膜を内側から叩き、網膜を激しく揺さぶる。



 視覚が熱で歪み、鼻腔には自分の髪が焼ける嫌な臭いが漂う。

 眼球を灼くような白銀の輝きに、涙さえも流れる前に蒸発した。


 「来ないで、髙島。……今の私は、あなたを知っている私じゃない。……このままじゃ、あなたも『予定』ごと消してしまう」


 エレナの声は、もはや少女のそれではない。幾重にも重なる「神の静寂」が混じった、冷徹な響き。    

 だが、高島は止まらない。一歩ごとに皮膚が裂け、筋肉が悲鳴を上げるが、彼の瞳にはいまだ、泥臭いまでの執念が宿っていた。    


 髙島は、先の火花の熱で真っ赤に腫れ上がった右手を伸ばした。    

 その手にあるのは、聖剣でもなければ、魔術を打ち消す符でもない。    

 シュミットが最期まで執念深く咥え、今はボロボロになって足元に落ちていた――「地理の追加課題プリント」の半分だ。


 「お前がさっき言ったんだろ。『予定も神話も投げ捨てた足掻きが美味しい』って。……なら、俺のこの無様な足掻きも、ちゃんと味わえよ」


 髙島は、エレナの心臓――「白い熱量」の源泉に向けて、その煤けた紙屑を、聖遺物でも突き立てるかのように力強く差し出した。


 「お前の知らない『日本の素晴らしき授業』は、まだ終わってねえんだ。……帰るぞ、エレナ。明日、一緒に職員室で怒られに行こうぜ。

世界がどうなろうが、俺にとっては、お前が宿題を忘れて先生に詰められてる光景の方が、よっぽど価値があるんだよ!」


 「―――ふーん、そっか。―――じゃあ審判の時間かしら。  ―――あんたはあたしを冒涜した、故に不敬。判決―――極刑!! 

―――これから食肉になる人畜に耳を傾ける必要なんて無いものね」


 エレナの背後に、白い光の輪がギチギチッと不気味な音を立てて展開される。それは幾何学的な「死」の完成。  

 もはや高島の言葉は届いていない。あるいは、届いた上で、あまりに低俗で愛おしいがゆえに、「不敬」として切り捨てられた。  

 彼女は恍惚とした笑みを浮かべ、その白銀の指先を高島の喉元へ伸ばす。その指先が触れれば、原子レベルで分解され、存在そのものが消去されるだろう。


 「直接手は下せないけど。ーーー安心して。あんたの血腥い骨ごと、残さず食べてあげるから!!」


 ドォォォォンッ!!


 彼女が踏み出した一歩で、路上のマンホールが飴細工のように拉げ、周囲のビル群の窓ガラスが一斉に粉砕された。  

 高島の視界は完全な「白」に呑み込まれた。

 プリントも灰になった。

 死が、あまりに純粋な熱量となって彼を咀嚼しようとする。


 「……っ、ああ、そうかよ……。……だったら、食い残すんじゃねえぞ」


 髙島は目を逸らさない。  熱に焼かれ、意識が遠のく中、彼はニヤリと絶望的な笑みを浮かべた。  

 その左手――エレナに血を吸われ、シュミットの毒に冒され、さらにサンクトペテルブルクの『聖傅』を浴びたあの腕が、あり得ない角度で脈動を始めていた。


 それは、失われるはずだった「日常」が、非日常の暴力に抗うための、たった一つのバグ(誤植)。  

 高島の脳内には今、シュミットの複雑な神話も、エレナの絶対的な魔力も存在しない。  

 ただ一つ、彼を現世に繋ぎ止める、あの不愉快な、けれど平和の象徴のような地理の授業だけが響いている。


 「――地理の先生が言ってたぜ。……植民地をはじめとした『境界線』ってのはな、引く奴の都合で決まるもんだってよ!!」


 髙島は、漆黒に変色した左腕を力一杯振り抜いた。  

 それは「攻撃」ではない。世界という白紙の上に、強引に「ここからは俺の領土だ」と赤ペンで線を引くような、傲慢極まりない定義の上書き。


 「神様だか吸血鬼だか知らないが、俺の夏休みの予定表に勝手に他人の神話を書き込むんじゃねえ!!」


 髙島の左腕から、ドス黒い、だが温かな「泥」のような影が噴き出した。  

 それはエレナの白銀の光を打ち消すのではなく、無理やり「受肉」させ、物質的な重さを与えていく。  

 光の速さで消えようとする彼女の存在を、この薄汚れたアスファルトの上に、一人の「女子高生」として縛り付けるための楔(くさび)。


 「面白い。―――死んでも、冥土で文句は言わないことね」


 「……上等だ。俺を消してみろよ、吸血姫クリスタベル。もし俺が消えなかったら……その時はお前の予定表、全部俺が埋めてやるからな!!」


 白と黒がオセロの如く激突し、爆音さえも置き去りにして世界が静止した。


 髙島の引いた「境界線」が、エレナの絶大な熱量を真っ二つに両断し、二人の間に、泥臭い「現実」が無理やり割り込んでいった。

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