昇華せぬ机上神話編
第十六話 概念爆撃
1.
―――紅葉(もみじ)は瓦礫の山を這いずるように抜けて、ようやく開けた場所で一息ついた。
肺の奥に溜まった煤(すす)混じりの熱気を吐き出すたびに、喉の奥が焦げた鉄のような不快な味を主張する。
周囲は静まり返っているが、彼女の耳にはいまだ、数分前まで響いていた破壊の残響がこびりついて離れない。
手首に巻かれた無骨な小型通信機に触れる。外装にはメーカーのロゴも、軍用の刻印すらない。
一見すればチープなデジタルウォッチにさえ見えるが、その内部構造は現代科学の埒外にある。
複数の視座に跨がる多重暗号化が施され、大気中に溶け込んだ強大な魔力反応を捕捉し、位相幾何学的に解析する特殊回路が組み込まれているのだ。
「……っ」
微かな、だが鋭い振動が手のひらから脳髄へと伝わる。
起動したインターフェイスが、紅葉の網膜に直接、青白いホログラムを投影した。
そこには、地下の異常波動の方向と強度が、脈打つような色と線で示されている。
戦闘によって引き千切られ、霧散した魔力の残滓(ざんし)と、その中心で冷酷に拍動を続けるシュミットの異常な魔力波動が、死神の指紋のように浮かび上がった。
「……ここね。逃がさないわよ」
紅葉は一瞬だけ瞳を閉じ、かつてこの場所にあった平穏な街並みの記憶を、脳内の地図から消去した。
彼女は目に見えぬ「魔力の糸」を頭の中でなぞり、地下の異常領域へと繋がる特異点を特定していく。
通信機が、そのかすかな揺らぎを増幅し、針の穴を通すような正確さで座標を固定した。
地下の異常領域への道筋は、もはや迷いなく彼女の意識に刻まれている。しかし、分かっていることと、到達できることは同義ではない。
時間は、砂時計の底から溢れる砂のように無情に失われていく。
「……一応の保険。それと、強引なまでの突破口を開く」
呟きは冷たい風にさらわれ、虚空へと溶けた。
ターゲットは地下一〇〇メートル、シュミットの「翡翠の秩序」が支配するミクトラン領域。
そこへ至るための物理的な階段は、もはや存在しない。
シュミットの魔術は、空間そのものの「意味」を書き換えてしまったのだ。
通常の手段でアプローチを試みれば、存在しない廊下を無限に彷徨わされるか、空間の不整合によって肉体を内側から裏返されるのが関の山だろう。
仮に彼女が今から万全の儀式準備を整え、精鋭のハンターを引き連れて駆けつけたとしても、領域の隔壁を物理的に突破するまでに数十分、いや一時間は要する。
その間に、地下に取り残されたエレナとマリヤは殺される可能性が高い。
あるいは、死よりもさらに残酷な結末――ナチス残党が
紅葉は、廃墟となった聖堂を越え、かつての表通りへと出た。
帝都の空は、地上の地獄を嘲笑うかのように、あまりにも澄み渡った青色を
遠くでパトカーや消防車のサイレンが悲鳴のように鳴り響いているが、これら場所には、物理的な救いの手はほぼ届かない。
現実と異界を隔てる薄い皮膜のこちら側で、紅葉は己の「無力」を、奥歯を噛み締めて咀嚼していた。
車窓に映る街灯やビル群の明滅さえも、紅葉には、時間が止まったかのように無意味な光の瞬きに見えた。
手配していた黒塗りのセダンに乗り込み、運転席の男に短く、だが峻烈な声で急ぐよう指示する。
シートに沈み込む彼女の指先は、抑えきれない怒りと、自分自身の「無力」への焦燥で微かに震えていた。
しかし、バックミラーに映るその瞳には、感情を極限まで圧縮し、凍結させたような絶対零度の理知が宿っている。
救うための「正攻法」がないのなら、すべてを焼き払う「劇薬」を用いるしかない。
それが、親友の命を天秤にかける禁忌の選択であっても、彼女の決断に揺らぎはなかった
―――帝都・御茶ノ水の高台に座す帝都復活大聖堂、通称ニコライ堂。
かつてはビザンティン様式の荘厳なドームが、神の慈愛を象徴するように帝都を見守っていた。
しかし今そこにあるのは、聖なる静寂ではない。腐敗した肉の臭いと、冷え切った殺意が渦巻く「空白」の墓標だった。
石造りの壁面にかつての聖歌の反響はなく、砕け散ったステンドグラスの破片が無秩序に散乱する大理石の床には、
血と煤、そして人間の内臓が泥濘のように混ざり合った深紅の河が淀んでいた。
ドームの頂にある窓から差し込む日光も、かつての鮮烈な色彩を失い、冷たく歪んだ影だけを静かに伸ばしている。
巫女装束の裾を汚しながらその瓦礫を踏み越えて歩むと、足元で、砕け散ったステンドグラスが、まるで踏み潰された虫のように悲鳴を上げた。
かつてキリストや聖人たちを鮮やかに彩っていたはずのガラス片は、今や信徒たちの流した鮮血に浸り、どす黒い輝きを放ちながら大理石のひびに絡みついている。
香油の残り香も、聖歌の余韻も、すべては圧倒的な死臭に押し潰され、残響としての不気味な静けさだけが漂っていた。
転がっている死体は、もはや人としての原型を留めていない。
祭壇に縋り付いたまま背中から爆発したかのように弾け、内臓を聖歌隊の席に撒き散らした者。
眼球が最期の絶望を映したまま凝固し、そこから翡翠色の魔力が腐食性の蒸気となって立ち上る者。
五十名に及ぶ信徒と司祭たちは、吸血鬼という怪物が通り過ぎた後に残した「消費された資源」の成れ果てに過ぎなかった。
その惨状は、理性をもってしても理解不能な狂気の跡であり、並の人間であれば一瞥しただけで正気を失うだろう。しかし、それ以上に彼女の脳内では激昂が勝っていた。
(翡翠色の魔力……ラットライン―――アステカの生贄(いけにえ)儀式をベースに、ブリルの神秘思想を融合した秩序再構築。
ニコライ堂の『聖域』という概念そのものを食い破り、自分の栄養に変えている。……卑劣な、寄生虫共め!)
彼女は、汚された祭壇の記憶を一瞥し、感情を殺したままスマートフォンを操作した。
政府支給ではない。外装にロゴはなく、多重暗号化が施された、彼女独自の「聖遺物」と呼ぶべき通信端末だ。
接続先は、莫斯科でもメルチェンコフでもない。
「……政教分離(ライシテ)は、私たちを縛る鎖。でも、同時に政府の目を逸らす目隠しにもなる」
呼び出したのは、ロシアの古都、聖彼得堡。
かつての帝政ロシアの首都であり、現在は正教会の深奥。
先の時代に「人民の阿片(あへん)」として切り捨てられ、地下に潜った旧き血筋の修道士たちが棲む「聖務執行会議(聖座の影)」。
莫斯科の官僚たちは現代的な保身と、欧米との国際政治のバランスに
だが、ペテルブルクの老人たちは違った。彼らの目的はただ一つ、「ロゴス(神の言葉)」を世界の絶対法則として再構築すること。
紅葉が信用するのも、その狂気的なまでの純粋さゆえだった。
「聖彼得堡、応答しなさい。
スマホのスピーカーから、冬のネヴァ川の底を思わせる、凍てついた重苦しい声が漏れた。
『……南方か。日本正教会や莫斯科、コンスタンティノープル総主教庁の承認を通さず、我らに直接接触するとは。その身の保証はできんぞ。
……理由を。我らが安眠を妨げるに足る、相応の理由を述べよ』
「ニコライ堂が堕ちた」 紅葉の声は、一切の感情を剥落させていた。
「五十名が『資源』として消費され、帝都の聖域は汚された。現在、地下一〇〇メートルにて、例のナチス残党の手による異教の領域が拡大中。
ナチの犯行と知らない莫斯科は、これを『テロ』か『外交問題』として処理し、保身のために後手に回るでしょう。しかし閣下たちは違うはず。
……許可を出しなさい。いえ、私が許可を捏造(ねつぞう)するわ。撃ちなさい、
沈黙。 スマホ越しに、ロシアの地の底にある冷気が伝わってくるようだった。
『……正気か、小娘。現場には君の「かわいい妹」とも言うべきエレナ嬢がいるはずだ。それに保護対象のポポフ=マリヤも。
聖なる秩序の飽和攻撃を行えば、概念の不整合を起こし、彼女達とて無事では済まん。存在の根幹を焼き切られることになるかもしれぬ』
『……そして南方、お主も分かっているだろう』
通信の向こうで、老修道士の声が一段低くなる。
『ポポフ=マリヤが“保護対象”でいられるのは、我ら聖務執行会議が生きている間だけだ。新モロカン(改革派)は違う。彼らはあの存在を“例外”ではなく、“誤り”と見なす。
祝福が効かず、尚且つ異言が使える存在は、神学的にはいずれ修正されるべき歪みだとな』
「―――彼女が慕っていた‘‘アレクサンドル輔祭’’の落命もそれだ」
紅葉は唇を噛み、視線を逸らさずに答えた。
「……だから逃げた。いいえ、逃がされたのよ。
あの子自身は知らない。
“保護”という名の裁定を待つ檻に、もう一歩で押し戻されるところだった」
『処分は、時間の問題だった』
ボリスは否定しなかった。
『我らが手を出さねば、いずれは“事故”として処理されていただろう。――神の御名の下にな』
「……いいえ」 紅葉は運転手に指示を出す。 アクセルをさらに踏み込み、対向車を強引に追い抜いた。
「そんなことはさせない。マリヤちゃんは東方典礼正教会(われわれ)が保護する」
「ーーーそれに、祝福が効かない彼女たちなら、この『光の嵐』の中でも立っていられるわ。神に拒絶されたという『呪い』こそが、唯一の生存資格になる……」
紅葉は続ける。
「私は、彼女たちの『呪い』を信じている。聖座の窓を開放なさい。人間とて、エクソシストは特別でしょう?」
スマホの向こうで、老修道士が低く、愉悦を隠さぬ笑い声を上げた。
『よかろう、南方紅葉。汝の絶望を祭壇への捧げ物として受理した。……⋯座標を送れ。北の都が、汝の穢(けが)れた東の帝都を
「無事にマリヤちゃんを取り戻すことを約束するわ―――それまでに、改革派の連中を見つけ出して。―――凱旋の報告を待っていなさい。この聖戰に勝利するのは我々よ!」
聖彼得堡。旧アレクサンドル・ネフスキー大修道院。 多くの観光客が訪れる美しい教会の地下深く、そこには地上からは想像もつかない異様な空間が広がっていた。
壁面は無数のイコン(聖画像)で埋め尽くされ、壁や天井には蜘蛛の巣のように銀の導線が這い回っている。
それらすべては、中央に鎮座する巨大な真空管計算機「ソフィア」に接続されていた。
かつてスターリンやレーニンの宗教弾圧という冬の時代を生き抜くために開発されたそのシステムは、祈りを暗号化された実行コードに、聖油(ミロ)を高エネルギー触媒に変換し、
物理学を完全に超越した「概念魔術」として構築する。
―――この世界の『
「―――吸血鬼ども、それもナチスの残党に同志の血を弄ばれ、我らが聖域を家畜の食卓に変えられたのだ! この汚辱を注ぐのに、物理的な炎など生ぬるい。
病根には、強制的な癒やしを。……聖彼得堡は、極東の帝都における生き残りによる報復を『正当な救済』とここに認める!
―――大祖国戰爭の完全なる勝利を、バグラチオンの反攻を、メスティ=ボジエイに基づくカロカガティアを以て、もう一度奴等の脳裏に叩き込んでやれ!!」
ボリス大司祭は軍服の上に金糸刺繍の法衣を纏い、若き司祭たちに命じた。
その瞳には、信仰という名の狂信が青白く燃えている。
「ミステリオンの同期を開始せよ。ターゲット、極東の帝都、地下一〇〇メートル。
物理的損壊をできる限り最小限に、概念的消去を最優先せよ。ナチ共の汚れた理屈を、この世から消し去れ!」
司祭たちは琥珀色の聖油アンプルを、鈍い光を放つ重厚なスロットに次々と装填していく。
巨大な真空管が唸りを上げ、青白く発光。帝都の位相を解析し、次元の断層を貫く「神の道(コリドール)」が形成される。
「―――これより、極東への
ボリスは起動スイッチに手を置き、低く、呪詛(じゅそ)にも似た祈りを捧げた。
「―――主よ、不浄なる論理を汝の光で上書きしたまえ。……
紅葉が、ふと外を見た瞬間、――世界が軋んだ。
それは音ではない。大気そのものが見えぬ巨大な重量で押し潰され、空間の密度が極限まで跳ね上がる感覚。
帝都広域に展開していたエクソシストたちは、本能的な恐怖に一斉に動きを止めた。
彼らが持つスマホ等の受信端末には、サンクトペテルブルクからの強制的着信――「概念コード」が雪崩のように流れ込んでいた。
「……来た。父上たちの、残酷なまでの承認が」
帝都周辺に待機していたエクソシストたちは、一斉に懐から「パントクラトール(全能者ハリストス)のイコン」を天に掲げ、祈祷文を唱えながら聖油を手持ちのギリシャ十字に塗る。
次の瞬間。
世界から「音」という概念が消失した。
夏空を覆っていた鮮やかな青が、一瞬にして、目を焼くような白銀の閃光に塗り替えられる。
物理的な熱を伴わない、存在の根幹そのものを焼き切る「意味の爆発」。
それは帝都の空を音もなく貫き、帝都の地下、シュミットが築き上げた翡翠の迷宮へと直撃した。
帝都の地面が、一瞬で「概念の上書き」がなされていく。
汚濁は光によって浄化され、歪んだ空間は聖域としての秩序へと、強制的に再構築される。
紅葉の目には、混沌と理知が交錯し、激しく震える世界の輪郭が映っていた。
だが、彼女の意志は揺らがない。
―――救済の劇薬は、すでに解き放たれたのだ。
「エレナちゃん、マリヤちゃん。死なないで……」
彼女は白銀に染まった空を見上げ、独り言を漏らした。
剥き出しとなった地下一〇〇メートルの闇の中。シュミットの冷酷な支配が、今、十字神話級の暴力によって根底から覆されようとしていた。
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