第十七話 算術の錨(アンカー)


2.



 二人が、その一歩を踏み出すより早く、世界からすべての「音」が消失した。


 翡翠の結晶が放つ冷徹な輝きも、シュミットが勝利を確信して響かせていた傲慢な嘲笑も、すべてが圧倒的な「無」に塗り潰されていく。  地下一〇〇メートルの閉ざされた監獄。その天井が、まるで最初から存在しなかったかのように透け、漆黒の闇を割って上空から一筋の白い輝きが降り注いだ。


 音もなく、質量さえ感じさせないその光。  それは雲の切れ間から差し込む『天使の梯子(薄明光線)』を思わせる神々しさでありながら、その実体は対象を「存在」ごと削り取る巨大な暴力であった。


 それを人は、窮地を救う『奇跡』と呼ぶのだろう。  あるいは、絶対的な神の意志による、不浄な存在への『消去』と。


「……な、に……っ!?」


 絶叫すら光の濁流に呑み込まれた。  シュミットが築き上げた翡翠の領域「ミクトラン」が、一瞬で、高熱を浴びたガラス細工のように粉砕される。

 アステカの凄惨な神話も、彼が誇った緻密な翡翠の幾何学も、聖彼得堡から放たれた聖なる白銀の秩序(ロゴス)の前では、解読不能な『未定義のノイズ』として一方的に消去されていく。


「……まぶしい……っ」  マリヤが細い指で目を覆う。


 髙島とマリヤ。二人が握り合う手は、激流に流されまいとする一心同体のような強固さで結ばれていた。  降り注ぐ白銀の光は、あまりに純粋で、それゆえにあまりに冷酷。髙島の指先から、マリヤの掌から、急速に体温が奪われていく。  『救済』のはずの光は、その場に立つ者の血肉さえも、血の通わぬ冷たい白磁の彫像へと変えようとしていた。


 視界が白一色に染まり、網膜が焼き切られんとする中、高島の瞳は、瓦礫の向こうで光に焼かれるエレナの姿を捉えた。


「……ああ……あ……っ」


 エレナの小さな唇から、掠れた苦悶の吐息が漏れる。  吸血鬼という、神の秩序から外れた不浄な宿命。  聖彼得堡の老修道士たちが警告した通り、たとえ彼女たちに正教の祝福が効かない体質であろうとも、頭上の『天使の梯子』は神に背いたその存在を一欠片も許容しない。  この光にとって、エレナはただの不純物――取り除かれるべき異物でしかなかった。


 このままでは、彼女がこの世界から消える。


「エレナッ!!」 「お姉さんっ!!」


 二人は、自分たちの身体が白磁へと変わる恐怖をかなぐり捨て、叫んだ。  光によって感覚を失いかけた脚を、折れんばかりの意志で無理やり動かす。白銀の暴風の中へ、彼女を救うためではなく、ただ彼女をこの世に『繋ぎ止める』ために、髙島は迷いなく飛び込んだ。  そして――、光に透け、今にも霧散しそうな少女の華奢な腕を掴んだ。  そのまま、髙島は手を引くのではなく、彼女のすべてを己の熱で包み込むように引き寄せた。


 光に焼かれ、砂のように崩れかけていたエレナの身体が、マリヤと共に髙島の胸の中に収まった。  抱き上げたその身体は、あまりに軽く、あまりに冷たい。  かつてあれほど不遜に、傲慢なまでに自信満々に振る舞っていた吸血鬼の少女は、今や光の激流に自分という形を壊されまいと必死に何かに縋り付く、迷子のような弱々しさを露呈していた。


「エレナ、しっかりしろ! 俺だ、髙島だ! 目を開けろ!」


 叫ぶ髙島の声も、すぐ隣を流れる光の咆哮にかき消される。  エレナの瞳は焦点が合わず、その内に宿る黄金の輝きは白銀の濁流に飲み込まれかけていた。彼女の意識は、もはや現世を離れ、神の秩序という名の『絶対的な無』へと回帰しようとしている。


 掴んでいる腕から、確かな肉の実感が消えていく。このままでは、彼女はただの『現象』として消滅してしまう。  神の祝福は、彼女を救わない。だが、同時に彼女を裁くこともできない。エレナ=シュタイナーという存在は、この白銀の光にとって、解読不能な欠落(バグ)に過ぎなかった。


 降り注ぐ光は彼女の肉体を素通りし、その『存在の熱』だけを虚無へと奪っていく。  抱きしめた髙島の腕の中で、エレナはまるで実体のない影のように透き通っていた。


 髙島は直感した。  いかなる魔術でも、いかなる悲痛な叫びでも、彼女を現世に繋ぎ止めることはできない。  必要なのは、彼女の魂をこの泥臭い現実に縛り付けるための、卑近で、下世話で、どうしようもなく『生』の質量を感じさせる錨(アンカー)だ。


 だから、彼はあえて、この絶望の淵に似つかわしくない、あまりに日常的な言葉を投げかけた。


「……おい、エレナ。算数の問題だ。お饅頭が1つあった。俺がもう1つ持ってきた。……答えはいくつだ?」


 場違いな、あまりに場違いな問いかけ。  だがその言葉は、冷徹な光の秩序に汚染されていない、どこまでも俗っぽく温かな『人間の時間』の断片だった。


 その言葉が届いたのか、白銀に呑まれかけていたエレナの睫毛が、微かに、だが確かに震えた。  黄金の瞳がゆっくりと、夢の淵から這い上がるように髙島の顔を見上げる。


「……0こ……、なのです……」


 そう答えたエレナの白い唇から、一筋の鮮烈な紅が溢れた。  髙島は息を呑む。  引き寄せた彼女の身体、その左肩から流れる血が、止まっていない。  吸血鬼の驚異的な再生能力をもってしても、魔力が枯渇し、さらにこの『聖なる光』という極限の浄化環境に曝されている状況では、傷口を塞ぐことさえ叶わないのだ。


 翡翠の床には、彼女が流した膨大な血の溜まりができていた。  「先天的な吸血鬼は、体重がほとんどない」  かつて彼女が強がって言ったその言葉が、今、残酷な真実となって髙島の胸に突き刺さる。血を失うことは、彼女にとって自分の『形』そのものを失うことと同義だった。


 けれど、血を失い透き通りながらも、そこに宿る意志は驚くほどに鮮明だった。  いつもの、自信に満ちたドヤ顔ではない。  彼女の唇は、高島の腕の温もりを噛み締めるように、女神のように、慈愛に満ちた微笑を湛えていた。


「……髙島さんの分も、私が……守って。その……美味しそうなお饅頭を、全部食べてあげますから……」


 その瞬間、髙島は、自分が今ここで成すべきことを完全に理解した。  この光に愛されない、孤独な吸血鬼の少女を、この世に繋ぎ止めるための、唯一の現実。  ―――彼女へ、自らの熱(ち)を与えよう、と。


「……ああ。全部食え。お前が望むなら、好きなだけな。―――その代わり、後でたっぷり味の感想を聞かせろよ」 「……はい」


 髙島は躊躇うことなく、自らの左腕を――己の歯で力任せに噛み切った。


 ―――その瞬間、白一色の無機質な世界に、鮮烈な「赤」が爆ぜた。  髙島の腕から溢れ出した生の奔流。それは冷徹な光の秩序をあざ笑うかのように熱く、鉄の匂いを撒き散らしながら、エレナの喉を、乾ききった魂を潤していく。


「……っ、ふ……あ…………っ」


 エレナの指先に、力が宿る。  髙島の血が彼女の内側に流れ込んだ瞬間、消えかけていた彼女の輪郭が、猛々しい魔力の火花を散らして再構成(リビルド)されていく。  それは神の祝福でも、高名な魔術でもない。ただ一人の男が、自らの命を削って差し出した、あまりに卑近で、あまりに重い『愛』という名の物理的な質量だった。


 隣で髙島の服を掴んでいたマリヤが、その光景を涙に濡れた瞳で見守っている。    マリヤには、今この瞬間の血は必要ない。  高島がもう片方の腕で自分を壊れるほど強く抱きしめていること、その激しい鼓動が自分の背中に直に響いていること。それだけで、彼女の中の『人間』の部分が、白銀の消去に打ち勝っていた。


 やがて、天を貫いていた白銀の柱が、役割を終えたかのように細い糸のような名残を残して霧散していく。


 静寂が戻った翡翠の監獄。  髙島は激しい失血と疲労で意識が遠のきながらも、腕の中にある確かな熱量と重みを感じていた。


「……ふふ。最高に不味いわね、貴方の血。ひどく熱くて、泥臭くて、……最低に心地いい。流石、神に選ばれし『黄金の血(Rh-null)』ね⋯」


 これまで完璧な怪物を演じていた彼女が、初めて見せる剥き出しの「生の感情」。  神の秩序はそれを『堕落』と呼び、髙島はそれを『信頼』と呼んだ。


「……生き残りなさい、高島。私の『糧』を、こんなところで枯らさせないわよ」


 命を救われたことへの感謝ではない。血を共有し、魂の深淵で繋がった『運命共同体』としての傲慢な宣言。    砕け散った翡翠の破片が散らばる冷たい床の上、髙島は微かに苦笑した。  視界はまだ霞んでいるが、自分をこの世界に繋ぎ止める二つの温もりに、今はただ身を委ねた。


 静寂が完全に周囲を支配する。  口元の鮮血を、乱暴ながらも愛おしそうに拭ったエレナが、黄金の瞳をさらに鋭く、けれどどこか潤んだ光を湛えて高島に向けた。


「貴方、本当に弱いくせに――出しゃばらなかったことだけは褒めてあげる。少しだけ、見直してあげてもいいわ」


―――翡翠の静寂を、髙島の流した紅(あか)が冒涜(ぼうとく)していく。


それは吸血という名の、停滞した世界に対する激しい警鐘だった。


「……エレナ、大丈夫か?」  自力で体勢を立て直し、凛と立ったエレナの頬に、髙島がおそるおそる触れようとした。


―――次の瞬間、エレナは鋭い黄金の瞳でそれを制した。


「……気安く触るな、髙島。まだ……あんたの汚い血が、私の体の中で熱くてうるさいの。――それに、女の子の頬にいきなり触ろうだなんて、とんだ変態ね。今のなしよ」


「マリヤのことも、隙あらばそういう目で見てるんでしょ?」


「っせえな! そんなわけあるか、ロリコンじゃねえよ!!」


―――髙島は息を呑んだ。  いつもの、猫を被ったような「なのです」というお行儀の良い言葉ではない。剥き出しの、年相応の少女としての、荒っぽくも生命力に満ちた言葉。  少し前まで「髙島さん」と余所余所しく呼んでいた面影は、もはやどこにもない。


「……エレナ? お前、その口調……」


「文句ある? ロリコンの汚い血を無理やり混ぜられたんだから、もうあんたに遠慮なんてする必要ないわね。……ほら、さっさとその鉄の棒(拳銃)を拾いなさいよ。……物理的な戦闘ができなくても、あんな変な『計算』だけは得意なんでしょ?」


「分かったよ。―――全く、調子のいい幼児体型だな、お前は!」


「口だけにならないことね。……いくわよ、ロリコン」


「マリヤを忘れないでっ! 私も、二人と一緒にいるんだから!!」


 白銀の光が完全に消失した地下一〇〇メートル。  そこはもはや、シュミットが誇った壮麗な「翡翠の秩序」が支配する、神話的な領域ではなかった。  本来、魔術とは現世の岩一つ動かせぬはずの、言葉と意味による戯れに過ぎない。


 だが、聖彼得堡が放ったその光は、あまりに強固な『正解』の質量をもって、この世界の物理法則の皮膜を食い破っていた。  翡翠の秩序は無残に剥落し、後に残ったのは、魔術の欠片もない、陥没した剥き出しのコンクリートと、断裂して不恰好に突き出した鉄筋――ただの、惨めな『廃墟』としての地下室だった。


「……ふん。口の減らない変態ね」    エレナは髙島の腕から離れ、まだふらつきながらも、自らの意志でその場に立った。  先ほどまでの消え入りそうな透明感はどこへやら、高島の血を得た彼女の肌には、陶器のような純白の中に、毒々しいまでの『生』の赤みが差している。


「お姉さん、顔色が良くなった……。それに、さっきの言葉、なんだか……」  マリヤが不安そうに、だがどこか嬉しそうにエレナの服の裾をぎゅっと引く。


「マリヤ、心配しなくていいわ。ロリコンの血が不潔すぎて、お行儀よくしているのが馬鹿らしくなっただけよ。……それに」    エレナは黄金の瞳を細め、高島の左腕に視線を落とした。  自ら噛み切り、無残に裂けた肉。そこから滴る血は、今や彼女の血肉となって、その生存を支えている。  


「私の所有物(エサ)が、勝手に死ぬことは絶対に許さない。……この不快な地下の空気も、もう飽き飽きだわ」


「お前、さっきから何様だよ!」


「何って、高貴な吸血鬼だけど? ―――その威勢の良さは、法廷で弁論する時にこそ役に立ちそうね」


「……おい。誰が犯罪者だ。こっちは文字通り命がけで供給したんだぞ」


 髙島の呆れたような叫びが、崩壊した地下空間に虚しく、だがどこか温かく響く。  高島は毒づきながらも、意識の混濁を振り払うように頭を振った。  失血による寒気が全身を走るが、不思議と心臓の鼓動だけは、今までにないほど力強い。  左腕の激痛は、自分がまだ「髙島實」という一人の人間として、この理不尽な魔術の世界に踏み止まっている証拠のように思えた。


「あら、自分から志願したわりには情けない顔ね。その程度の出血、私の空腹を満たすデザートにさえならないわ」


 エレナは鼻で笑い、乱れた銀髪を無造作に掻き上げた。  その指先には、先ほどまでの「死の白」ではなく、奪い取ったばかりの生命の赤が脈打っている。  彼女は足元の瓦礫を軽やかに飛び越えると、かつて「ミクトラン」の中心部であった場所へと歩み寄った。


 そこには、粉砕された翡翠の残骸と、光に焼かれて炭化したシュミットの右腕だけが、惨めに転がっていた。


「……終わったのか?」


「いいえ。神の雷は確かにあの傲慢な男を直撃した。けれど……見てなさい、髙島。秩序がこれほど完璧に壊れるということは、その裂け目からもっとも醜悪な『混沌』が顔を出すということよ」


 エレナの言葉に応じるように、地下空間の空気が、再び不気味に震え始めた。  上空から降り注いだ白銀の光が開けた「穴」が、修復されるどころか、周囲の現実空間を飲み込みながら、歪に広がり始めている。


「お姉さん、あそこ見て! 壁が、溶けてる……!」


 マリヤが指差す先では、分厚いコンクリートの壁が、まるで熱せられた飴細工のようにぐにゃりと歪んでいた。  魔術的な『正解』を強制的に叩き込まれた空間が、本来の物理法則を思い出せずに拒絶反応を起こし、壊死を始めているのだ。


「空間の壊死(えし)ね。さっきの『天使の梯子』は、この場所の定義そのものを強引に『聖域』へ書き換えてしまった。……このままじゃ、ここは『存在しない場所』として世界から切り離されるわ」


「待て、それは俺たちも一緒に消えるってことか!?」


「察しがいいわね、ロリコン。算数の問題よりは簡単でしょ?」


 エレナは皮肉げに唇を吊り上げたが、その横顔には隠しきれない焦燥が浮かんでいた。  彼女は振り返り、地面に片膝をついている高島に向かって、傲慢に、だが拒絶を許さない力強さで手を差し伸べた。


「立て、髙島。あんたの血は、まだ私の体の中で熱を失っていない。……その熱を、今度は出口を見つけるための計算(ロゴス)に使いなさい」


 髙島はその手を見つめた。白く、細く、けれど今は誰よりも頼もしい『相棒』の手。  彼は自嘲気味に笑うと、震える右手でその掌を強く握り返した。


「……ああ、分かってるよ。饅頭の数は『0』じゃない。……俺とお前、そしてマリヤ。合わせて『3つ』だ。一つも、欠けさせやしない」


「……ふん。やっぱり、最高に不味い血ね」


 エレナはわずかに顔を赤らめ、吐き捨てるように言った。


 崩壊を加速させる地下監獄。天井からは巨大な瓦礫が降り注ぎ、逃げ場のない闇が三人を取り囲もうとしている。  しかし、繋いだ手から伝わる確かな熱量だけが、この『未定義の絶望』を貫く唯一の錨(アンカー)となっていた

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