第十五話 限界態勢



17.



 シュミットの指が引き金を引き絞り、死の鉄槌が下されようとした。




 ――その刹那だった。




 「――いいえ、幕を下ろすのは『そちら』の方ですよ」




 静寂を切り裂いたのは、凛烈な少女の声だった。




 同時に、髙島たちの背後にあったはずの「絶対的な壁」が、まるではじめから蜃気楼であったかのように、青白い火花を散らして崩壊した。




 コンクリートの破片が飛び散るのではなく、幾何学的な紋様が剥落するように空間が裏返る。




 「なっ……!?」


 シュミットの完璧なポーカーフェイスが、初めて驚愕に歪んだ。




 銃口が火を噴くより早く、背後の「壁」だった場所から、凄まじい密度の冷気が奔流となって溢れ出す。




 崩れ去る偽りの壁の向こうから現れたのは、左肩を血で染めながらも、碧色の瞳に苛烈な戦意を宿した魔導師――エレナ=シュタイナーだった。




 「エレナ!」


 髙島が叫ぶ。




 エレナは手にした偽書ヴェレスを高く掲げ、その周囲には無数の『ペタルの杭』が、主を護る盾のように浮遊していた。




 「儀式的空間複雑性リチュアル・スペイシャル・コンプレキシティ……アステカの神殿が、なぜあのような異様な構造をしているか分かりますか? 本来は神との交信を象徴する迷宮。ですが、その幾何学的な難解さは、同時に外敵や賊の侵入を物理的に阻む『聖域の防壁』としても機能していました」




 「――見事な目眩ましでしたが、所詮は書き換え可能な不安定な領域に過ぎません。構造式さえ読み解けば、裏口を作るのは容易いことです!」




 皮肉を込めて告げるエレナに、シュミットの表情が歪む。




 ――彼が心血を注いで築き上げた「完璧な防壁」を、満身創痍の少女が見破り、ここまで到達した事実が、プライドを逆撫でした。




 「――粋がるなよ、血統に恵まれただけの、生意気な小娘が!」




 シュミットの瞳に冷たい炎が灯る。


 異常な集中力と魔力の噴出を測るかのように、彼の指が軽く動いた。




 「――だが、その出血量を見るに、魔力の消費は少々過剰ではないか?


奥義まで使って、このザマ……しかも、湿潤の女神、モコシの力を模倣してこれか?


――お前も知っているだろう? 血管内の血液が全て喪失したら、例え吸血鬼であろうと絶命する」




 エレナは偽書ヴェレスを握り、魔力を全身に巡らせようとした。


 しかし、血と疲労が体を縛り、千鳥足のように左右に揺れる。




 手元の偽書からは、微かに緑色の魔力の残滓が揺らめき、奥義を使い切った痕跡を示していた。




 奥義はもう使えない――頭では理解している。


 だが体は止まらず、無理に魔力を送り込もうとする。


 血が脈打ち、魔力の残滓が微かに砕け散る。




 千鳥足になりながらも、エレナは歯を食いしばり虚勢を張る。


 「……まだ、終わりません」




 瞳には決意が宿り、左肩を軽く押さえながら言い放った。


 「出血量など大したことはありません……先天的な吸血鬼は体重が無いに等しいですし」




 微笑む視線は敵を挑発する。




 その視線に応えるように、シュミットの手元で翡翠の結晶が整列し、冷徹な緑光を放ち空間を支配し始める。




 「ふん……この蟻地獄ミクトランに足を踏み入れた以上、後戻りは許さんぞ」




 ――翡翠の結晶が規則正しく舞い、整列した刃や結界が戦場を一瞬で支配する。


 秩序的で冷徹なその光景に、エレナの血と魔力の消耗も、千鳥足の揺れも、戦局に影響はなかった。





18.





 決着は、あまりにも早かった。




 翡翠の床に刻まれた紋様が淡く脈打ったその直後、――エレナの膝が音もなく崩れ落ちる。




 魔術でも、抵抗でも、反撃でもない。


 単なる――限界だった。




 偽書ヴェレスが指先から滑り落ち、硬い音を立てて転がる。


 身体は前のめりに倒れ、起き上がろうとした動きは途中で止まった。




 翡翠の空間は、すでに戦場ですらなかった。


 そこにあるのは、勝者の領域と、敗者の置き場所だけだ。




 髙島の瞳が血走った。


 倒れ伏したエレナを見つめ、思わず口をついた。


 「……エレナっ!」




 だが反応はない。


 肩に血を滲ませ、全身に力の限界が見えた少女は、もはや立ち上がる気配すらない。




 「……終わりだ」


 シュミットは呟き、倒れたエレナに視線すら落とさず、靴底で軽く――身体を押し転がす。




 ――やはり、反応はない。


 それだけで興味を失ったように視線を逸らした。




 「血を流し、神話の奥義を用い、それでも届かない。


―――血統にのみ恵まれた小娘の模倣とは、所詮その程度のものだ」




 返答はなかった。


 翡翠の戦場が静まり返る。


 戦いは、音もなく終わっていた。




 マリヤも息を呑んだ。


 「……どうしよう、おにーさん……」


 手は震え、声もかすれた。


 しかし瞳の奥に潜む決意は揺らがない。


 「ここで立ち止まるわけにはいかない……!」




 髙島は咄嗟に判断した。


 エレナを助けることは今や不可能かもしれない。


 だが、この迷宮を突破するためには、二人で次の手を打つしかない。




 背後から翡翠の結晶が光を放ち、整列した刃や結界が戦場を支配する。




 秩序的で冷徹な光景の中、二人の胸に冷たい恐怖が押し寄せる。


 しかし同時に、髙島の瞳は倒れたエレナの勇姿を思い出し、マリヤの握った手は小さく震えながらも離れなかった。




 「……ここで、止まっちゃだめ」


 マリヤが小さく息を吐き、覚悟を固める。


 


 髙島は無言で頷き、二人は互いに目を合わせた。





 ―――無言の約束。生き抜くため、進むしかないのだから。


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