第十四話 鳥籠、烏、そして雀
14.
突きつけられた銃口――
その深淵のような銃身の奥に死を予感した瞬間、髙島の脳裏には走馬灯ではなく、どす黒い怒りが沸き上がった。
「……テメエに、マリヤを渡すわけないだろう!」
剥き出しの敵意を込めた咆哮が、硬質なコンクリートの壁に幾重にも反響し、不気味な重奏となって通路を揺らした。
髙島は隣で凍りついているマリヤの手を、指の骨が軋むほどの強さで握りしめる。
「おにーさん……っ!」
マリヤの声は悲鳴にもならず、震える呼気となって漏れた。
だが、髙島の瞳に宿る光は一点の曇りもなく、ただ前方のみを見据えている。
「行くぞ、マリヤ! 一瞬の躊躇いが命取りになる!」
彼はマリヤを引き寄せると、弾丸の軌道を攪乱するように身体を低く沈め、シュミットの射線から一気に飛び退いた。
「――全力で走れ!!」
爆ぜるような足音が静寂を切り裂く。
足元のグラウンドライトが、逃げる二人の影を壁面に歪な巨像のように投影した。
背後のシュミットは、微動だにせずその様子を眺めている。
氷の楔のような冷徹な瞳。
その銃口だけは、磁石に引き寄せられる針のように正確に、常に髙島の急所を捉え続けていた。
「……フン、面白い。だが――私の鳥籠テリトリーから逃げられると思うなよ、少年」
シュミットは静かに、しかし確実な一歩を踏み出した。
その足取りは、死神が獲物の歩幅を測るかのように優雅で、それでいて逃げ場をじわじわと奪う圧倒的な重圧を孕んでいる。
髙島は壁沿いに身体を滑らせ、ライトの死角となる濃い陰影を縫うように疾走した。
マリヤは極限の恐怖で膝が笑い、何度も倒れそうになるが、髙島の握る手の熱さだけを唯一の道標として、必死にコンクリートを蹴った。
「……こ、怖い……でも……おにーさん、離さないで……!」
マリヤの喉は焼けるように乾き、心臓は肋骨を内側から叩き割らんばかりに激しく脈打つ。
通路の先には、数少ないライトが等間隔で瞬いている。
それが希望へと続く光なのか、あるいは巧妙に仕組まれた終着点なのか。
二人は迷うことを捨て、ただ命が火花のように弾ける刹那の疾走にすべてを賭けた。
15.
背後から、低く冷酷な足音が振り子のように正確なリズムで迫りくる。
シュミットの追跡は、物理的な距離以上に精神を磨り潰すものだった。
壁を伝う湿った冷気、明滅するライトの周期、そして空気の振動――その空間を構成するすべての要素が、シュミットの指先一つで操られているかのような錯覚に陥る。
「……あっ……!」
マリヤが足元のわずかな凹凸に躓き、身体が前のめりに泳ぐ。
「大丈夫だ、離れるな!」
髙島は反射的に彼女の腰を抱きかかえるようにして支え、速度を落とさずに前へと押し出した。
マリヤは必死に彼の腕にしがみつく。彼女の指先は感覚を失うほどに冷え切り、小刻みに震え続けていた。
背後の足音は、寸分も狂わない。
まるで二人の乱れた心拍数さえも計算に入れ、嘲笑っているかのようだ。
シュミットの銃口は、闇の中でも揺らぐことなく、逃亡者の背中に死の刻印を押し当てている。
「……シュミット……あの人……速いの……ずっと、すぐ後ろにいる……!」
マリヤの声は涙で濁り、絶望が通路の霧となって二人の視界を遮る。
通路の先、グラウンドライトがチカチカと不安定に明滅を始めた。
その不吉な予兆が、二人の焦燥をさらに加速させる。
「もう少しだ……! あの光の向こう側へ、必ず突き抜けるんだ!」
髙島は叫ぶ。それはマリヤを鼓舞するためであると同時に、己の内側に広がる「底なしの恐怖」をねじ伏せるための咆哮でもあった。
背後に感じる気配は、今や直接心臓を冷たいナイフで撫でられているような、生々しい殺意を伴っていた。
二人の荒い呼吸、不揃いな足音、壁に映る歪な影、そして明滅する光。
そのすべてが、逃げ場のない閉鎖通路の中で、一つの巨大な絶望の渦へと収束しようとしていた。
16.
肺が焼けるような熱さを帯び、喉の奥には鉄の味が広がっていた。
「はぁ、はぁ……あそこだ、あの光の先だ……!」
髙島は、朦朧とする意識の中で前方に見える一段と強い光の塊を指差した。
そこがこの長く陰鬱な通路の終着点であり、外の世界、あるいは少なくともこの異常な空間からの出口であると信じたかった。
その光さえ掴めば、マリヤを救えるのだと自分に言い聞かせ、痛む足に鞭を打つ。
しかし、二人がその光の渦へと飛び込んだ瞬間、世界は残酷なまでの沈黙をもって彼らを迎えた。
「……嘘、でしょ……?」
マリヤの膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
崩落するように重なった彼女の小さな震えが、髙島の手を通じて絶望として伝わってきた。
――視界を塞いでいたのは、冷たく、巨大なコンクリートの壁だった。
出口など、最初から存在しなかったのだ。
そこはただ、等間隔に配置されたライトの光が突き当たりに溜まり、出口であるかのような幻想を見せていただけの「行き止まり」に過ぎなかった。
髙島は信じられない思いで壁に駆け寄り、狂ったようにその表面を叩き、爪を立てた。
「クソッ、何なんだよこれは! 隠し扉か? 何かのスイッチがあるはずだろ!?」
叩いた拳からは鈍い痛みが返り、湿ったコンクリートの冷徹な質感だけが掌に刻まれる。
どれだけ目を凝らしても、壁面には空気さえ通さぬほどに継ぎ目一つない。
――完全な密室。 二人は自ら、逃げ場のない巨大な棺桶の最奥へと飛び込んでしまったのだ。
背後から、コツ……コツ……と、乾いた足音が近づいてくる。
逃走中、あれほど乱れ狂っていた二人の鼓動とはあまりに対照的な、冷徹なまでに一定のリズム。
それは逃げ場を失った獲物に対し、死神が最後の一歩を刻む音に他ならなかった。
「――日本語では八方ふさがりと言うんだったな」
通路を支配する闇の向こうから、シュミットがゆっくりと姿を現した。
逆光に照らされた彼のシルエットは、この世のものとは思えないほど長く、禍々しく壁に伸びて二人を呑み込もうとしている。
「残念だったな。この空間は、最初からどこにも繋がっていない。――私の意志が、ここを終着点と定めたのだ。君たちがどれだけ足掻こうとも、大団円を迎えることなく、この物語の幕はここで下りる」
シュミットの声は、まるで耳元で直接囁かれているかのように鮮明に、そして重く響いた。
彼は一切の無駄がない動作で銃を持ち上げ、冷たい銃口を再び髙島の眉間に固定する。その指先に迷いは微塵もなかった。
「おにーさん……ごめんなさい、マリヤのせいで……マリヤがいたから……」
マリヤが嗚咽をもらし、髙島の背中に顔を押し当てた。彼女の細い指が、震えながら髙島の学ランを強く握りしめる。
その涙の熱さが、髙島の背中に痛いほど伝わった。
髙島は、壁に背を向けたままマリヤを背後に隠し、一歩前へ出た。
目の前には、銃を構え、勝利を確信しているプロの殺し屋。背後は、びくともしない死の壁。逃げ場を失い、退路を完全に断たれた、正真正銘の絶体絶命。
だが、髙島の瞳の奥に灯った執念の火は、まだ消えてはいなかった。絶望が深ければ深いほど、その火は青白く、鋭く燃え上がる。
「……まだだ。まだ終わらせてたまるか。こんなところで、お前に屈してやるもんかよ」
低く、地這うような獣の唸りにも似た声で髙島が呟く。
シュミットは薄く、愉悦を孕んだ笑みを浮かべ、引き金にかけた指にゆっくりと、しかし確実に力を込めた。
「その往生際の悪さ、嫌いではない。だが――さよならだ、勇敢な少年よ」
―――極限まで張り詰めた空気が、通路の静寂を粉々に砕こうとしていた。
引き金が落ちるまでのコンマ数秒、時間は永遠のように引き延ばされ、二人の運命は漆黒の銃口に委ねられた。
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