第十二話 複雑怪奇な迷宮(ラビリンス)


10.




 地下空間に残る湿気と霧は、先ほどの戰闘の痕跡――それは、エレナ自身の魔術が生んだものだった。  


 しかし、そこに漂う空気は、ただの戰闘後の静けさとは違っていた。




 水膜を踏むたび、足元が自分の意志とは少しずれて揺れる。霧の向こうに見える柱や壁も、ほんのわずかに反応しているように思えた。


 (……ただの地下空間じゃない……)


エレナはゆっくりと息を吐き、視線を巡らせる。光の屈折、柱のわずかな傾き、壁に反射する霧の揺らぎ――すべてが、まるで自分の動きを読んでいるかのようだ。




 手元の水膜も、杭を放った後の魔力の残滓を反応させ、微細な波紋を描いている。踏み込むたびに水面が揺れ、霧が流れるたび、視界の端の形が変化する。


 この感覚は、普通の戦場や地下では味わえない。




 (……ここは……領域……)


 その言葉が心の中で確信に変わった瞬間、背筋が凍る。


 「……彼等……この空間そのものを操っている……」




 地下空間は閉ざされ、外界から完全に切り離されている。列車の音も、人の声も届かない。


 ここは、彼らが“成立させた”空間――結界、いや、領域そのものだと直感した。




 視覚だけでなく聴覚も狂わされる。


 滴る水音、遠くで響く微かな金属音、霧の中で反響する自分の呼吸――そのすべてが、空間と一体になって反応している。


 一歩踏み出すたび、床も霧も、音も光も、まるで意思を持って答えるかのように揺れた。




 深呼吸し、意識を一点に集中させる。戰闘後の疲労、肩の痛み、水膜に足を取られる不安。


 すべてが、この空間が魔術的に成立した“領域”であることによって増幅されていた。




 心臓が早鐘のように打つ――二人は無事なのか。もしここで足を止めれば、髙島とマリヤが危険に晒されるかもしれない。


 胸の奥で不安がじわりと膨らむ。だが、領域であることを理解した今、足を止めるわけにはいかない。




 左肩の痛みが脈打つたびに鋭く走る。杭を放った後の疲労が、体の節々に重くのしかかる。


 膝も水膜の感触に微妙に揺らぎ、踏み込むたびにバランスを確認しなければならなかった。




 地下空間は、まるで生きているかのように反応する。 


 霧が少し薄れた瞬間、壁の輪郭が微かに揺れ、柱がわずかに傾いたように見える。 


 水膜の表面はただの水ではなく、意思を持っているかのように微細な波紋を描いた。




 呼吸を整え、意識を一点に集中させる。肩の痛みと膝の揺れを押さえ込み、慎重に足を前へ出す。


 薄霧の向こう、視覚が捕らえきれない暗がりが広がる。何もないはずの空間から、微かな気配が立ち上る。




 (……髙島さん。マリヤちゃん。どうか無事でいてください……!)




 心の奥で呟き、肩の痛みを押し殺しながら、一歩一歩進む。


 ホームに上がり、足を進めるたび、水膜が僅かに揺れる。霧が流れるたび、視界の端の形が変わる。


 エレナは感覚を意識に沿わせ、床の感触と霧の動きを読む。まるで、地下そのものと呼吸を合わせるかのように。




 静寂の中、微かに聞こえる滴る水音、空気の揺れ、遠くで響く金属音。すべてが戰慄を誘う。どれが罠で、どれが自然か、判別はつかない。


 それでも、前に進むしかない。髙島とマリヤの安全を確認するため、エレナは体中の感覚を研ぎ澄ませる。




 霧と水膜、痛みと疲労、そして迷宮の異質な呼吸――すべてが重なり、緊張感を生む。


 目の前の闇に一歩踏み込むたび、胸の鼓動が空間に響き渡る。肩の痛みを押し殺しながら、一歩一歩、階段の入り口へと向かう。




 エレナは、固く閉ざされた非常階段のドアノブを握った。





11.





 エレナは固く閉ざされた非常階段のドアノブを握る。


 「はぁっ――」


 と、ひと息ついて、ゆっくりと捻る―― が、金属は、僅かながら押されるだけで、びくともしない。




 「……なんで開かないのですっ! 意地惡な扉さんにはお仕置きなのですよ!」




 ムッとした表情で、小さく苛立ちを漏らす。肩の痛みが残る中、戰闘後の緊張感から少しだけ解放される瞬間だった。




 呼吸を整え、少し後ろに下がる。再び踏み込み、足でドアを強く蹴る。




 「――んっ!」




 金属と木の軋む音が地下空間に響き、固いドアがゆっくりと弾け飛ぶように開いた。



 「――これで進めますね」




 霧が揺れ、水膜が波打つ。床や空気の異質な感覚は相変わらずだが、エレナはそれに惑わされず、一歩前へ進む。




 肩の痛みを押さえつつも、迷宮のような領域を踏み越える覚悟を新たにした。





(……ここは……まだ、あの方達の領域の中……)


 緊張が肩を締め付ける。足元の水膜も、微かに波打つたび、意識の集中を試すように揺れる。


 一歩進めば、迷宮は彼等によって形が変えられるかもしれない。




 エレナは小さく息を吸い込み、胸の奥で髙島とマリヤの安否を確かめる。


 (……御二人共。どうか、無事でいてください……!)




 目の前の階段は、ただの脱出口ではない。 


 領域が試すように変化を繰り返す限り、ここを通るには自分の感覚を完全に空間に合わせるしかない。


 


 ―――それは、エレナにとって、戰術と集中力を合わせた、総力戰の開始が告げられる瞬間だった。

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