第十一話 唐紅のファンファーレ
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左肩の痛みが、脈打つたびに鋭く走った。
冷気に満ちた地下で、そこだけが異様な熱を持ち、血が流れる感覚をはっきりと主張してくる。
体温がどこまで下がっているのか、自分でも判然としない。
冷たさと熱さが溶け合い、境界を失った感覚が、エレナの意識をじわじわと侵食していた。
それでも、視線は逸らさない。
五体の吸血鬼――その立ち位置、重心、次に踏み出す方向。すべてを、氷のように冷えた思考で捉え続ける。
手にした偽書が、ひどく重かった。
紙の重量ではない。溜め込まれた魔力と、それを解き放つ覚悟の重さだ。まるで、自分の体と魂を一緒に引きずり込もうとしているかのように、腕に鈍い負荷がかかる。
(……本当は)
心の奥で、押し殺していた声が浮かぶ。
(これだけは、使いたくなかった……)
奥義。『モコシの方舟』は、単なる大魔術ではない。
自分の魔力だけで完結する術ではなく、周囲の湿潤、地下に眠る水脈、土地そのものの“状態”を強制的に神話へと昇華させ、巻き込む――いわば、環境ごと戦場に引きずり出す行為だ。
制御を誤れば、敵だけでなく、自分自身も呑み込まれる。
だからこそ、普段は決して選ばない。選んではならない力。
だが――。
視界の端で、吸血鬼の一体が、わずかに踏み込みの角度を変えた。
連携の合図。次は、四方向から同時に来る。
失われ続ける血。
削られる魔力。
そして、ここを突破されれば、その先にいるのは――髙島とマリヤ。
碧色の瞳が、静かに据わる。
「……この先には行かせません」
一度、深く息を吸う。
冷たい空気が肺を満たし、そのまま身体の奥へと沈んでいく。
「……私の得意な魔術は」
声は低く、震えはない。
「炎でも、風でもありません」
言葉と同時に、偽書ヴェレスの頁がめくられる。
グラゴロ文字が、淡い青白色に浮かび上が り、空間そのものが、わずかに軋んだ。
「氷と、水です……!」
宣言と同時に、地下が“応えた”。
ホームの床下、さらに深い地層を巡る地下水が、はっきりとうねりを上げる。
それは地震のような破壊的な揺れではない。
もっと静かで、もっと不気味な――水そのものが、意志を持って身じろぎする感覚だった。
エレナは環境を壞しているのではない。
敵が存在するための“前提条件”を、神話の形で奪っているだけなのだ。
霧が噴き上がる。
視界を奪うほどではないが、輪郭を曖昧にし、距離感を狂わせるには十分な白さだ。
吸血鬼たちの足元で、水膜が広がる。わずかな傾斜すらないはずのホームが、まるで傾いた床のように錯覚される。
一体が踏み込む。
次の瞬間、その足が滑った。
完全な転倒ではない。
だが、戦闘において致命的な“半拍の遅れ”。
エレナはそれを見逃さない。
偽書ヴェレスを介して、湿潤の魔力をさらに圧縮する。
水は氷へ、氷は粘性へと変質し、床は“止まれない地面”へと変貌していった。
吸血鬼たちは即座に対応する。
壁を蹴り、手すりに掴まり、宙を使って間合いを詰める。
その連携は洗練され、無駄がない。
――だが。
地下であること。
水があること。
そして、ここが閉鎖された空間であること。
すべてが、エレナの側にあった。
「地下で戰おうとなさるとは……お馬鹿の極みですね!」
嘲笑を伴うその声は、戦場を嘲るかのように、閉ざされた空間に冷たく響き渡る。
左肩が、再び疼く。
拍動に合わせて、鋭い痛みが走る。
一瞬、視界が暗転しかける。
「……っ」
喉までこみ上げた呻きを、噛み殺す。
ここで集中を切らすわけにはいかない。
(まだ……まだ耐えられます)
エレナは、自分に言い聞かせるように呼吸を整える。
冷たい空気を吸い込み、吐き出すたび、意識は再び澄み渡っていった。
取り出したのは、先の戰闘でも用いた、正教会から託された聖遺物――
祝福されし、『ペタルの杭』の公式レプリカ。
――エレナは吸血鬼でありながら、祝福が効かない。
だからこそ、彼女のみが扱える品だった。
青白い杭が、一本。
次いで、もう一本。
霧の中に浮かび上がるそれらは、氷の結晶をまとい、異様な静けさを放っている。
吸血鬼の一体が、直感的に危険を察知し、距離を取ろうとした。
――遅い。
エレナの意識が、杭に流れ込む。
放たれた一本目は、回避行動に入る直前の胸部を正確に貫いた。
衝撃音が遅れて響き、吸血鬼の身体が後方へ弾き飛ばされる。
二本目。
三本目。
四本目。
連続する突きは、流れる水のように途切れない。
速度ではない。軌道と精度が、完全に敵を上回っていた。
左肩の痛みが、限界を主張する。
膝がわずかに沈む。
それでも、杭は止まらない。
最後の一体が、必死に杭を掴み取ろうと手を伸ばした、その瞬間。
エレナは、ためらいなく意識をさらに踏み込ませた。
青白い杭が、わずかに――しかし決定的に加速する。
高速。
冷徹。
まるで処刑ではなく、作業のように。
最後の一体が、膝から崩れ落ちる。
エレナは、その目前で立ち止まり、静かに告げた。
「これは、祝福ではありません」
杭を、まっすぐに。
「――ただの、終止符です」
乾いた音。
すべてが、終わった。
エレナは深く息を吐き、その場に膝をつく。
遅れて、激痛が一気に押し寄せる。
「――っ痛いです……」
堪えていた涙を溜めながら、エレナは左肩をそっと押さえた。
霧が、ゆっくりと薄れていく。
湿潤と冷気だけが残り、地下鐵のホームは再び静寂に包まれた。
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