第十一話 唐紅のファンファーレ



9




 左肩の痛みが、脈打つたびに鋭く走った。


冷気に満ちた地下で、そこだけが異様な熱を持ち、血が流れる感覚をはっきりと主張してくる。


 体温がどこまで下がっているのか、自分でも判然としない。


 冷たさと熱さが溶け合い、境界を失った感覚が、エレナの意識をじわじわと侵食していた。




 それでも、視線は逸らさない。


 五体の吸血鬼――その立ち位置、重心、次に踏み出す方向。すべてを、氷のように冷えた思考で捉え続ける。




 手にした偽書が、ひどく重かった。


 紙の重量ではない。溜め込まれた魔力と、それを解き放つ覚悟の重さだ。まるで、自分の体と魂を一緒に引きずり込もうとしているかのように、腕に鈍い負荷がかかる。




 (……本当は)




 心の奥で、押し殺していた声が浮かぶ。




 (これだけは、使いたくなかった……)




 奥義。『モコシの方舟』は、単なる大魔術ではない。


 自分の魔力だけで完結する術ではなく、周囲の湿潤、地下に眠る水脈、土地そのものの“状態”を強制的に神話へと昇華させ、巻き込む――いわば、環境ごと戦場に引きずり出す行為だ。




 制御を誤れば、敵だけでなく、自分自身も呑み込まれる。


 だからこそ、普段は決して選ばない。選んではならない力。




 だが――。




 視界の端で、吸血鬼の一体が、わずかに踏み込みの角度を変えた。


 連携の合図。次は、四方向から同時に来る。




 失われ続ける血。


 削られる魔力。


 そして、ここを突破されれば、その先にいるのは――髙島とマリヤ。




 碧色の瞳が、静かに据わる。


 


 「……この先には行かせません」




 一度、深く息を吸う。


 冷たい空気が肺を満たし、そのまま身体の奥へと沈んでいく。




 「……私の得意な魔術は」




 声は低く、震えはない。




 「炎でも、風でもありません」




 言葉と同時に、偽書ヴェレスの頁がめくられる。


 グラゴロ文字が、淡い青白色に浮かび上が り、空間そのものが、わずかに軋んだ。




 「氷と、水です……!」




 宣言と同時に、地下が“応えた”。




 ホームの床下、さらに深い地層を巡る地下水が、はっきりとうねりを上げる。




 それは地震のような破壊的な揺れではない。


 もっと静かで、もっと不気味な――水そのものが、意志を持って身じろぎする感覚だった。


 エレナは環境を壞しているのではない。


敵が存在するための“前提条件”を、神話の形で奪っているだけなのだ。




 霧が噴き上がる。


 視界を奪うほどではないが、輪郭を曖昧にし、距離感を狂わせるには十分な白さだ。


 吸血鬼たちの足元で、水膜が広がる。わずかな傾斜すらないはずのホームが、まるで傾いた床のように錯覚される。




 一体が踏み込む。


 次の瞬間、その足が滑った。




 完全な転倒ではない。


 だが、戦闘において致命的な“半拍の遅れ”。




 エレナはそれを見逃さない。




 偽書ヴェレスを介して、湿潤の魔力をさらに圧縮する。


 水は氷へ、氷は粘性へと変質し、床は“止まれない地面”へと変貌していった。




 吸血鬼たちは即座に対応する。


 壁を蹴り、手すりに掴まり、宙を使って間合いを詰める。


 その連携は洗練され、無駄がない。




 ――だが。




 地下であること。


 水があること。


 そして、ここが閉鎖された空間であること。




 すべてが、エレナの側にあった。




 「地下で戰おうとなさるとは……お馬鹿の極みですね!」




 嘲笑を伴うその声は、戦場を嘲るかのように、閉ざされた空間に冷たく響き渡る。




 左肩が、再び疼く。


 拍動に合わせて、鋭い痛みが走る。


 一瞬、視界が暗転しかける。




 「……っ」




 喉までこみ上げた呻きを、噛み殺す。


 ここで集中を切らすわけにはいかない。




 (まだ……まだ耐えられます)




 エレナは、自分に言い聞かせるように呼吸を整える。


 冷たい空気を吸い込み、吐き出すたび、意識は再び澄み渡っていった。




 取り出したのは、先の戰闘でも用いた、正教会から託された聖遺物――


 祝福されし、『ペタルの杭』の公式レプリカ。




 ――エレナは吸血鬼でありながら、祝福が効かない。


 だからこそ、彼女のみが扱える品だった。




 青白い杭が、一本。


 次いで、もう一本。




 霧の中に浮かび上がるそれらは、氷の結晶をまとい、異様な静けさを放っている。




 吸血鬼の一体が、直感的に危険を察知し、距離を取ろうとした。




 ――遅い。




 エレナの意識が、杭に流れ込む。




 放たれた一本目は、回避行動に入る直前の胸部を正確に貫いた。


 衝撃音が遅れて響き、吸血鬼の身体が後方へ弾き飛ばされる。




 二本目。


 三本目。


 四本目。




 連続する突きは、流れる水のように途切れない。


 速度ではない。軌道と精度が、完全に敵を上回っていた。




 左肩の痛みが、限界を主張する。


 膝がわずかに沈む。




 それでも、杭は止まらない。




 最後の一体が、必死に杭を掴み取ろうと手を伸ばした、その瞬間。


 エレナは、ためらいなく意識をさらに踏み込ませた。




 青白い杭が、わずかに――しかし決定的に加速する。




 高速。


 冷徹。


 まるで処刑ではなく、作業のように。




 最後の一体が、膝から崩れ落ちる。




 エレナは、その目前で立ち止まり、静かに告げた。




 「これは、祝福ではありません」




 杭を、まっすぐに。




 「――ただの、終止符です」




 乾いた音。


 すべてが、終わった。




 エレナは深く息を吐き、その場に膝をつく。


 遅れて、激痛が一気に押し寄せる。




 「――っ痛いです……」




 堪えていた涙を溜めながら、エレナは左肩をそっと押さえた。




 霧が、ゆっくりと薄れていく。


 湿潤と冷気だけが残り、地下鐵のホームは再び静寂に包まれた。

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