第十話 暗闇ノ誤謬

4.





 ―――地下の闇に、異様な影がじわりと広がった。それは、この密室のような空間の酸素を全て吸い尽くすかのような、圧迫感だった。




 ペストマスクの男たち、すなわち吸血鬼の群れは、向かって左側から、ゆっくりと、間合いを支配するように進む。


 足音はほとんど聞こえない。ただ、その重低音が身体に直接響き、髙島の心臓の鼓動を乱す。まるで彼らの存在自体が、地下の地盤を振動させているかのようだ。




 髙島は思わず後ろを振り返る。さっき通った改札口が、まるで別の空間に閉ざされてしまったかのように、遠く、そして無関係なものに感じられた。彼らの逃走経路は、この静止したホームしかない。




 「――エレナ……」




 髙島の声は微かに震えた。


 エレナが、この多勢を相手にどうするつもりなのか、彼は想像もつかなかった。




 その時、碧色の瞳が、蛍光灯のわずかな光を反射して、強く輝いた。エレナは、迷いを断ち切ったかのように、一瞬だけ視線を地下鉄ホームの暗がりに投げた。




 エレナは、スカートから書物―――偽書ヴェレスを迷いなく取り出す。


 ページを開くと、古のグラゴロ文字が青白く微かに光を帯び、空間に淡い、極低温の振動を生む。


 その魔力によって、周囲の冷気が一気に増し、頭上の蛍光灯の光がパチパチと音を立てて微かに乱れた。周囲の空気は、既に死闘の前の前触れを告げていた。




 その動作を、獲物を狙う鷹のように見逃さなかったかのように、ペストマスクの男たちも足を止め、一斉に緊張の気配を放つ。彼らの黒衣の袖口から、かすかに光る刃のような物体が覗いた。


 それは、ただの爪や牙ではない、組織化された戰闘集団が用いる、精巧な暗殺用の暗器なのだ。


 男たちの影が、不自然に歪む。 


 枕木に沿って立つその姿は、ただの病的な疫病医ではなく、戦いに備えた、冷徹な戰士そのものになっていた。




 一体の男が小さく身をかがめ、手元の暗器を微かに光らせる。それは、魔力で強化された吸血鬼にとって、エレナの魔術と一瞬で距離を詰めるための切り札であることを示していた。


 別の影は、呼吸もなく、じっとエレナの動きを見つめる。


 地下鐵の蛍光灯のちらつきが、彼らの装束の陰影を際立たせ、張り詰めた緊張の糸をさらに鋭くした。




 髙島の鼓動が頭に響く。目の前のホームは、もはや日常の通勤空間ではない――超常的な力を持つ異形と、魔導の担い手、ヘクセンが対峙する、異界の戦場と化していた。





5.





 ――先手を取ったのはエレナだった。




 偽書を高く掲げると、グラゴロ文字が一斉に青白く、灼熱の炎のように輝き、空気が微かに震えた。


 エレナの体から放出された冷気が、地下の壁を這い、髙島とマリヤの肌を刺す。書から放たれる膨大な魔力が、目に見えぬ波動となって、五体のペストマスクの男たちに威嚇として迫る。




 ペストマスクの男たちは即座に構えを取り直す。


 彼らは魔力の奔流を肌で感じ取りながらも、微動だにしない。互いに間合いを測り、刃先に淡く、血を思わせる赤黒い魔力の気配を滲ませる。




 マリヤはエレナの背中に隠れるように、軽く身体を後ずさりしつつ、震える手でエレナを見上げた。


 「……お姉さん、気をつけて……」


  怖さを押さえ、少し不安げに、しかし冷静を装って声を出す。


 彼女の目は、自分のために戰おうとするエレナから、一瞬も逸らされていなかった。




 青白い光が男たちの影を斬り込み、空間に緊張の裂け目を生む。このままでは、彼女の魔力と彼らの暗器が、一瞬でぶつかり合ってしまう。




 その瞬間、エレナは低く、はっきりと、指揮官の冷静さをもって声を出した。


 「髙島さん、マリヤちゃん、すぐにホームの端まで下がって!  非常階段まで逃げて! 後は、私に任せてください!」




 髙島は一瞬戸惑った。エレナが、この状況で自分たちから離れることを選んだのだ。


 だが、彼女の碧色の瞳に宿る決然とした光を見て、恐怖よりも、彼女への絶対的な信頼を優先した。




 「わ、わかった! 無理はするなよ、エレナ!」




 マリヤも小さく頷き、恐る恐るだがエレナの背を離れ、髙島と共に指示通りにホームの端へと後退し始めた。


 彼らが階段の暗がりへ向かう一歩一歩が、エレナにとって守るべき距離となる。




 エレナは偽書を両手に握ったまま、五体のペストマスクの男たちの間合いの境界線に、たった一人で立ちはだかる。




 男たちも戰意を研ぎ澄まし、互いに間合いを詰め、静かな戦闘準備を整えた。彼らが動けば、エレナは即座に魔術を発動せざるを得ない。




 地下鉄のホームは、もはや日常の通勤場所ではなく、一人の魔導師と複数の異形の吸血鬼が対峙する、血濡れた戦場と化していた。





6.





 エレナが魔力の構成を完了させるより早く、三体の吸血鬼が三方向から同時に彼女に迫った。彼らの暗器――刃先を赤黒い魔力で強化された、短く鋭いククリ刀のようなものが、エレナの喉、胸、そして腹部を狙う。




 彼らの動きは、エレナが想定していた吸血鬼の速度を遥かに超えていた。テロリストではなく、親衛隊を彷彿とさせる訓練された戰闘集団の動きだ。




 エレナは偽書ヴェレスを胸の前に掲げたまま、一歩も引かない。




「――氷結の言霊よ!」




 彼女の口から発せられたのは、炎ではなく、極低温の言葉だった。




 パァァンッ!!!!




 本を閉じた瞬間、エレナを中心に半径三メートルにわたり、青白い氷の霧が爆発的に発生した。




 吸血鬼の群れは、その猛烈な冷気に一瞬たじろいだ。彼らの黒装束に、細かな霜がこびりつく。冷気は彼らの動きを鈍らせることはできても、停止させるには至らない。




「チッ!」




 エレナは舌打ちした。多勢を相手に、魔力を一点に集中できない。




 その隙を見逃さず、吸血鬼の一体が、床を蹴らずに、まるで水面を滑るようにエレナの背後に回り込んできた。エレナが彼らを止めるために使った冷気は、同時に彼女自身の視界と動きも奪っていたのだ。




 「エレナ!!」




 ドガッッ!!




 髙島が叫ぶ間もなく、吸血鬼の暗器がエレナの左肩を浅く切り裂いた。セーラー服が破れ、傷口から流れる血は、冷気の中でも熱い蒸気を上げていた。




 「グゥッ!」


 


 エレナは痛みに顔を歪めながらも、すぐに体勢を立て直す。振り向きざまに、偽書に溜めていた火蛇を、切り裂いた敵の顔面に向けて、零距離で放出した。




 バシュッ!




 火花が散り、焦げた肉の匂いが地下鐵のホームに広がる。炎の直撃を受けた吸血鬼は、ペストマスクを半分焼き焦がされ、断末魔の叫びを上げる間もなく、そのまま壁に叩きつけられた。




 五体から、四体へ。




 しかし、エレナの左肩からは、既に大量の血が流れ出している。





7.





 「お姉さん!」




 非常階段のドアを開けた髙島とマリヤは、その一瞬の攻防を目撃し、マリヤが悲痛な叫びを上げた。




 「大丈夫だ、マリヤ! エレナを信じろ!」




 髙島はマリヤの左腕を掴む。エレナの血を見た瞬間、彼の頭の中に残っていた最後の理性の欠片が吹き飛んだ。彼はもう、逃げるという選択肢しか考えられなかった。エレナの犠牲を無駄にしてはならない。




 「行くぞ!」




 髙島は重い非常階段のドアを、全身の力を使って開け放った。中から流れ込むのは、冷たい土と錆びた鉄の匂い。その階段は、通常運行には使われない、地下深部へと続く、文字通りの『非常』の道だった。





 ガシャン!!




 髙島は階段へ飛び込むと同時に、ドアを乱暴に閉め、手近にあった消火器でドアノブの周辺を叩き壊した。これで吸血鬼たちが追ってくるには、ドアを物理的に破壊する必要がある。




 階段の暗闇は、ホームの照明とは比べ物にならないほど濃密だった。髙島はマリヤを背負ったまま、錆びた手すりを掴み、必死に地下の底を目指して階段を降り始めた。




 上からは、エレナと吸血鬼たちの、金属的な衝突音と、低いうなり声が響いている。




 ドガッ!!


 キィィン!!




 「くそっ、間に合え……!」




 髙島は、この地下深くの迷宮、ラビリンスが、エレナから託された最後の命綱であることを悟った。

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