第九話 烏合の衆



2.



 ――ニコライ堂。


 その内部での惨状は筆舌しがたいほどのものだった。――噛まれて原型を留めない、眼球が飛び出した死体。腸が引きずり出された死体。吐瀉物が流れ出る死体。挙げ出したらキリがない。


 数字で示すのなら―――建物内に居た五〇名が全滅。


 この惨劇は、日本正教にとっての精神的支柱、そして蘇聯のポポフ=マリヤ保護交渉の拠点の一つが、超常的な力によって一瞬で崩壞したことを意味していた。




 現場を囲む、何重もの厳重な警備。外部の人間は、これがガス爆発による事故として処理されるだろうことを知っていた。しかし、内部にいる誰もが、この惨劇が「吸血鬼」の仕業であると知っていた。





 「――ここまでやられるとは……甘く見すぎていたか」


 


 影は、巫女装束を纏った、烏の濡羽色の長髪を持つ少女だった。




 彼女――南方紅葉は、血にまみれた廃墟となった聖堂の床を、一歩ずつ慎重に進む。足音だけが、沈黙した空間に響いていた。




 祭壇の周囲に目を走らせ、焦げた木片の隙間に残る足跡や爪痕を指先で確認する。単なる惨状の確認ではなく、犯行の手口や配置を読み取り、次の行動を決めるためだ。




 「救援は……間に合わなかったか」




 紅葉は拳を固く握る。遠くの破壊された祭壇の奥に視線を据え、幼い頃から共に過ごしてきたエレナ、そしてポポフ=マリヤ――二人を守りたい思いが胸を焦がす。




 廃墟を後にし、外の光に目を細めた。大暑の紅色の光が血に染まった瓦礫を照らす。街は静かに見えるが、その静けさが逆に不穏さを増幅させていた。




 「……淺草槗と同じ手口ね……」




 紅葉は頭の中で地図と現場の状況を照らし合わせる。複数地点での同時多発テロ――偶然ではない。計画的で、吸血鬼の特性を熟知した犯行だ。




 しかし胸には焦燥だけでなく、エレナ達を守るという強い思いが混じる。




 「絶対に、二人を……」




 呟きながら、紅葉は小型の通信機を手に取り、短く報告を打つ。文字列は簡潔だが、全ての情報を蘇聯・日本正教側の司令部に正確に伝えることができる。




 自分一人で動くつもりはない――だが、誰よりも早く二人のもとへ駆けつけるのは、自分しかいないと知っていた。




 「……行くしかない……エレナちゃん、マリヤちゃん、待っててね」




 胸に宿る熱を力に変え、紅葉の足取りは瓦礫の上を慎重に、しかし迷いなく進んだ。街灯に映る彼女の影は、長く赤く伸びていた。




 


3.





 ―――営団の某驛。地下鐵の通路は、普段なら通勤客のざわめきや足音、そしてモーターの轟音に満ちているはずだった。




 そのホームで、髙島達は列車を待っていた。




 ………だが、異常はすぐに彼等の感覚を締め付けた。決定的な違和感が、地下の冷たい空気に重くのしかかる。




 ―――何時まで経っても列車が来ないのだ。


 時計の針は確実に進んでいるのに、トンネル奥から届くはずのモーター音は微かで、地下の風圧もほとんど感じられない。


 普段なら数分おきに脈打つはずの、生命のような鉄の脈動が、完全に止まっていた。




 驛構内の放送は「只今、列車は定刻通りに運行しております」と、無感情な声で平常運転を告げる。


 だが、その声は空虚に響き、現実の沈黙と乖離して、地下空間を無機質に支配していた。




 髙島がスマホで運行情報を確認する。画面には「平常運転」の四文字。だが、現実の状況はそれを嘲笑うかのようだった。




 数十秒後、ホームのスピーカーから列車接近を知らせる高低のある不協和音が響く。




 「ピンポーン……ピンポーン……」




 規則正しいメロディではなく、微妙に狂い、金属的なこもりを帯びた音は、神経を直接刺すように脳に響いた。


 音響設備そのものが、何者かの意志で侵されているかのようだ。




 暗がりの向こう――線路の上に、影がゆっくり現れた。




 列車ではない。




 そこに立つのは、服装こそ異なるが、今朝の出来事を思い起こさせるペストマスクの男だった。


 古びた黒衣に身を包み、まるで十七世紀の疫病医が現代に蘇ったかのような異様さを放つ。




 男は線路を歩いてくる。重々しい足取りでありながら、奇妙な無音。枕木を踏む音は、かすかに金属音を伴って地下の壁に反響し、ホーム全体を不穏な低周波振動で満たす。




 髙島の喉は締め付けられ、呼吸は自然と浅くなる。胸の鼓動が頭に響き、身体が震えた。腐敗した匂いがかすかに漂い、喉の奥を張り付くように絡む。




 「……な、何だ、あれは……?」


 声は震え、思わず呟いた。




 さらに、接近音に重なるように、男の影は二体、三体と増え、五体程が徐々に明るみに現れる。


 マスクの奥の目は、無言の脅迫を放つ。


 彼等の存在だけで、髙島たちの心臓は凍りつき、全身を強張らせる。




 地下の蛍光灯が微かにちらつき、空気がわずかに震える。風もないのに、冷気が肌を刺す。


 列車の到着を期待していた筈のホームは、今や逃げ場のない異界へと変貌していた。




 ――この不気味な静寂と、不協和音の接近音、そして影の接近。




 髙島たちは理解した。地下鐵のホームで待っていたのは、もはや列車などではない。何か、もっと恐ろしいものだ――と。

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