国境無きエゴイスト編
第八話 魯西亞事變
1.
莫斯科――。蘇聯最大の都市にして、クレムリンの壁の内に、ほぼ全ての政府中枢機能を冷徹に握る場所だ。重厚な石造りの建物群は、鉄のカーテンの向こう側、この世界を動かす権力の心臓部であることを誇示している。
「内政干渉など許さぬ――仏蘭西の挑発に対する抗議の公式声明を、即座に出せ!」
怒号が飛び交うのは、蘇聯外務省の一室。窓の外には、鉛色の空が広がり、室内の空気は、煤けた煙草の煙と、抑えきれない怒りによって、ひどく澱んでいた。
「仏蘭西の連中のネジの外れ具合ときたら――彼らは、極東の狂信的な
メルチェンコフは、会議卓を拳で叩きつけた。彼の目の前には、外務次官補と、蘇聯の外交顧問たちが、身を縮めて座っている。
仏蘭西人民共和國――。 一九六八年の五月危機によって成立した社会主義勢力『パリ・コミューン』が政権を握る蘇聯の友邦國家だ。イデオロギー的には同調するはずの「東側の兄弟」でありながら、その関係は常に不安定な火花を散らしている。
基本、蘇聯と仏蘭西は様々な観点で同調することが多い。軍事、経済、そして反西側の工作において、両国は近年復活した露仏同盟を準えて『東側の兄弟』と呼ばれる程の蜜月ぶりだ。
――だが、大きく相容れない個所が一つあることも事実だ。それは、宗教観という、地下に流れるマグマのような対立だった。
仏蘭西政府は一九七二年、極端な無神論國家である阿爾巴尼亜(アルバニア)に倣い、阿片思想(宗教)禁止法を制定。彼らは、正教会を「下劣な阿片に惑わされた屍の習合」と痛烈に批判し、蘇聯政府に対しても、正教会に対する自己批判を公然と要求している。
「奴らは、白色革命の再燃を恐れているのだ――阿呆共が!」
メルチェンコフは吐き捨てるように言った。実際、三年前には旧教カトリック信仰の自由化を求めた学生運動が仏蘭西國内で発生し、パリ・コミューン政府によって血の鎮圧が行われている。この極端な強硬姿勢こそが、メルチェンコフに言わせれば「ネジの外れた狂気」だった。
「こうなったら、我々も強硬手段に出る。伊太利國内で和地関の基盤を揺るがす『赤の旅団』への資金援助を一時的に停止する事を、政治的カードとして視野に入れる!」
―――旧教勢力の排除というのは、仏蘭西國外にも及んでいる。その最たる例が、新左翼勢力『赤の旅団』への軍事・資金援助だ。
伊太利國内の政情不安を煽り、和地関の影響力を削ごうというこの工作には、もちろん蘇聯も参加していた。実際の効果は絶大であり、和地関の影響下にある國々でのプロパガンダ展開や民主化運動への抑制に一役買っているのだから。
――しかしだ。旧教の力が弱まった事によるデメリットというのも超過したものであるのも事実だ。 「化け物」の脅威を知るメルチェンコフたちにとっては、その代償はあまりにも大きすぎた。
………なにせ、旧教の権威を削いだ結果、最高レベルの対吸血鬼部隊であるエクソシストが和地関から出られない。それはつまり、蜚蠊ばけものの跋扈を招いたのだ。
それは単なる宗教問題では済まない。
人ならざる者の存在が公となる事は、各國の治安維持体制、軍事ドクトリン、そして何より――人間社会そのものの前提を揺るがす。
無論、各國首脳もそれを理解していない訳ではない。
だからこそ、“知らぬふり”という名の合意が、國連の水面下で成立しているのだ。v議決によって最重要機密として秘匿されているとはいえ、そのような事件が明るみに出れば、この事実が世に知れ渡るのは時間の問題かもしれない。
「ただでさえ、今は日本正教とのポポフ=マリヤの保護交渉で手一杯だというのに!」
メルチェンコフは頭を抱えた。この交渉の裏側では、魯西亞正教からの強大な圧力が八割方を占めている。
―――まさか、スターリン時代の正教彈圧が、数十年を経て、ここにきて外交問題という形で巨大な反動を示すとは思わんだろう。
聖堂は破壊され、司祭は銃殺され、信仰は迷信として切り捨てられた。
その報いが、今になって外交と治安という形で噴き出している。
皮肉な話だ。
神を否定した國家が、今や神に頭を下げねばならぬ立場に追い込まれているのだから。
この事態そのものが、体制の不安定さを象徴している。
「……トロツキストはどいつもこいつも、妄言ばかりで困る」
煙草を蒸しながら、メルチェンコフは怒髪天を必死に堪らえようと、数秒の嗜好に身を委ねる。この一服は、外交官としての彼の理性と、シュタイナー家という「化け物」を信用するしかない現状への、彼の個人的な嫌悪感を分断するための儀式だった。
――――――そんな、張り詰めた静寂が、外務省の重い扉を打ち破る。
バァンッ!! ノックも無しに、扉を叩き開ける轟音。
「東方典礼正教会のハンターから緊急伝令!」
飛び込んできた伝令は、顔面蒼白で息も絶え絶えだった。
「要件はなんだ! 緊急事態の際にはノックくらいしろ!」
「ひっ――はっ! 日本の帝都より、吸血鬼テロの発生を確認! 至急、魯西亞正教への連絡を!保護対象の確保が危急の事態に!」
「それがどうした。極東の騒ぎに、私が構っている暇はない」
メルチェンコフは冷徹に言い放つ。だが、次の言葉は彼の理性を完全に打ち砕いた。
「ポポフ=マリヤの保護へと向かっていた、
メルチェンコフの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「クソっ! ――魯西亞正教との交渉ルートが、これで完全に潰えた! 餓鬼の捕捉はできているのか! エレナ=シュタイナーはどこだ!」
「はっ! ――彼女が現在、帝都にて任務を遂行中です!」
「お前は私に化け物の言葉を信じろというのか!!」
メルチェンコフは、自らが協力者として送り込んだエレナ=シュタイナーが、テロを起こした同胞を追っているのか、あるいはテロに加担しているのか、判断ができないという極限の状況に追い込まれていた。
「いえ、そういうわけでは――」伝令は震えながら答える。
「まあ、良い。いけ好かん正教の連中に飼われるのにも嫌気が差していたところだ」
彼は、吸いかけの煙草を灰皿に叩きつけた。この混乱を、正教会の圧力を振り払う好機に変えるしかない。
「即刻、本件を蘇聯最高会議に上告しろ。――この『化け物どもの喧嘩』は、私には手が負えんでな。――それと、仏蘭西には『内政干渉には断固とした対処を取る』と、いつもの通りに伝えておけ!」
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