第五話 秘匿、それは羞恥
10.
―――本日八時半頃、総武線内にて大規模な火災が発生し、両國~新宿間での運転を見合わせています。尚、復旧の目処は立っておらず………。
驛のコンコースに、無機質で残酷なアナウンスが繰り返し響いていた。
改札前には行き場を失った乗客たちが溢れかえり、驛員に詰め寄る怒号や、携帯端末で連絡を取ろうとする人々の焦燥が、熱気となって渦巻いている。
ホームを眼前にして、スマホに映る「運転見合わせ」の赤い文字を一瞥した髙島は、人混みの外れで足を止め、少し顔をしかめてつぶやく。
「………弱ったな。営団で行くしかないかなぁ」
だが、ここから最寄りの営団地下鉄の駅までは、優に一キロ以上はある。
普段なら散歩程度の距離だが、この殺人的な猛暑の中では話が別だ。
ふと見上げれば、帝都の空は抜けるように青く、それゆえに太陽は容赦がない。同時に、この帝都の鐵道網の異常な整備具合にも改めて気づかされる。
―――地上がダメなら地下がある。
多少の時間ロスと、この炎天下を歩く労力さえ惜しまなければ、蜘蛛の巣のように張り巡らされた数多の路線が、目的地へ辿り着くことをほぼ確実に保証してくれるのだ。
その重層的なインフラへの安心感と、迷路のような複雑さには、毎回驚かされる。
「おーい、地下鉄驛まで歩くことになるけど、いいか?」
髙島は振り返り、人波を避けるように券売機の陰に立っていたエレナに声をかけた。
「ここからだと、十五分……いや、信号待ちも含めれば二十分は歩くかもしれない」
すると彼女は、左手に食べかけの黒糖饅頭を大事そうに抱えたまま、花が咲くようににっこりと微笑んだ。
「はい♪ 大丈夫です、お散歩みたいで楽しいですし。………彼等も迂闊に手は出せませんでしょう」
口の端に少しだけ黒糖の欠片をつけて笑うその表情には、電車の遅延も、肌を焦がすような日差しもどこ吹く風といった余裕がある。
髙島たちはきびすを返し、遥か先の地下鉄入り口を目指して、驛前の大通りへと足を踏み出した。
暑さを再び意識した瞬間、熱の壁が体にぶつかってきた。
夏の光がビルのガラスに反射し、強烈な白さとなって降り注ぐ。アスファルトの熱気が靴底を通して足元に伝わり、遠くの景色は陽炎でゆらゆらと歪んでいた。頭上では蝉の声が飽和し、途切れることなく降り注いでいる。肌にまとわりつくような湿気が、一歩進むごとに体力を奪っていくようだ。
信号待ちの間、髙島は首筋の汗を拭いながら、隣のエレナを見た。彼女は涼しい顔で、まだ饅頭をちびちびとかじっている。
(……元気だな、ほんと)
そんなことを考えていると、二人の少し前を軽やかに歩いていたマリヤが、不意に足を止めてくるりと振り返った。
白いキトン? の裾と白髪を揺らし、小首をかしげて尋ねる。その問いかけは、蝉時雨を切り裂くように唐突で、あまりにも無邪気だった。
「ねえねえ、お姉さんは純血? それとも混血?」
時が、止まったようだった。
エレナの動きが凍りつく。饅頭を口に運ぼうとしていた手が空中で停止し、みるみるうちに頬は熟したトマトのように赤く染まった。彼女は持っていた黒糖饅頭で必死に口元を隠すが、泳ぐ視線と落ち着きのない手つきは、何も隠せていなかった。
「そ、そんなこと……き、聞かないでくだしゃい…!」
裏返った声が漏れる。何か致命的な秘密を指摘された動揺が、痛いほど伝わってくる。
「……二人は何の話をしているんだ? 脈絡がなさすぎるだろう」
髙島が呆れを含んだ声で割って入る。
しかしマリヤは悪びれる様子もなく、ただ不思議そうに瞬きをして、あどけない声で答えた。
「え? だから、お姉さんは混血か純血か、どっちの吸血鬼なの?って話」
――吸血鬼。その非現実的な単語が耳に届いた瞬間、髙島の中で何かが弾けた。
いつもなら、冗談だと笑い飛ばすべき言葉だ。
しかし、脳内では先程の戦闘の映像が鮮烈に蘇り、否定の言葉を封じ込めた。
男の攻撃を紙一重で躱す、人間離れした鋭敏な反応速度。重力を無視して壁を蹴り、天井近くまで舞い上がった跳躍。魔術を使った不可解な攻撃、そして、常人なら竦むような場面で見せた人外じみた咄嗟の判断力。
――すべてが、目の前の少女が「普通の人間」ではないことを示していた。
「ああ、なるほど――」
髙島は、すとんと腑に落ちた。パズルのピースが音を立てて嵌っていくような感覚だった。
記憶の蓋が開く。
小学校の掃除の時間、ふざけてぶつかったわけでもないのに、華奢な彼女が手に持った花瓶を「あっ」と言って素手で粉々に握りつぶしてしまったこと。
高校の体力測定。握力計を握った彼女が、何かを恐れるように震えながら測定し、結果が片手七〇キロだったこともあれば、次は加減をしすぎて一五キロになっていたこと。
あの時の、困ったような、泣き出しそうな笑顔。機会は多かった。
その度に「器具の故障かな」「火事場の馬鹿力ってやつか」と無理やり自分を納得させてきたが。
―――そういうことだったのだろう。
だからこそ、いまマリヤが口にした「エレナが吸血鬼である」という事実は、彼女の存在に違和感を抱かせるどころか、長年の疑問に対する唯一の解となり、すべてを腑に落ち着かせる要素になっていた。
(……そういうことか。なら、全部辻褄が合うな)
髙島は心の中で静かにつぶやき、エレナに合わせて歩調を緩める。
マリヤはいたって無邪気だ。髙島の反応を見ても肩をすくめて笑うだけで、そこに悪意はまったくない。
ただ、道端で珍しい蝶を見つけた子供のような、純粋で残酷な好奇心があるだけだ。
「うぅ……」
エレナはまだ赤い顔をして、饅頭越しに上目遣いでこちらの様子を窺っている。
その必死さが、吸血鬼という畏怖すべき存在であるはずの彼女を、むしろ守ってあげたいほど愛らしく見せていた。
二人の間に、沈黙が落ちる。周囲の蝉の声や車の走行音だけが大きく聞こえる。
だがその沈黙は重苦しいものではなく、互いの秘密を共有し、境界線をまた一つ越えたあとの、微妙だが温かい距離感を感じさせる静けさだった。
「……髙島さん?」
「ん?」
「その……なんでも、ないです」
驛までの道のりはまだ半分以上残っている。うだるような暑さの中、巨大なビルの影が歩道に落ちていた。
髙島は無理に追求しなかった。
今はまだ、この曖昧な共有だけで十分だと思ったからだ。
「……ほら、あそこの交差点を曲がれば、驛の入り口が見えてくるはずだ。あと十分くらいかな」
そう言って、足元の濃い影や、熱風に揺れる街路樹に目を向けながら、ゆっくりと流れる時間を受け止めていた。
エレナはほっとしたように息を吐き、また一口、黒糖饅頭をかじる。
じりじりと焼けるような帝都の巳の刻。三人の影は長く伸び、溶け出しそうなアスファルトの上で、一つに重なるように並んでいた。
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