第三話 劇場のイドラ


7.



 「エレナ―――っ」


 とっさに口から飛び出したのがこれだった。




 「髙島さん、――お怪我は?」


 「ああ、中々に効いているよ。ジンジン痛む」




 エレナは髙島の傷の様子を素早く確認し、微笑んだ。


 「その位、喋れているのなら大丈夫そうですね」




 続いて、エレナはマリヤへ優しく声を掛ける。


 「私は白魯西亞=蘇聯あなたのふるさとより、救援要請を受けて来ました。エレナ=シュタイナーです」




 柔らかい声がマリヤの震えをほどき、


 希望の火がその瞳に灯るのが分かる。




 「髙島さん、こちらを預かって頂けます?」


 懐中電灯を渡される。


 「これは――?」


 「……ひみつ道具なのです。いざというときに、役に立つかもしれませんので」




 エレナは男の元へ静かに歩を進める。




 「………愚かな吸血鬼さん。貴方の狼藉は『國際連合v議決』における、秘匿國際法こうきなうそ、第三条に接触します」


 「最後通告です。―――命が有るうちに、彼女を諦め、この地から立ち去ってください」




 「――笑わせてくれる。長きにわたるへの勝利に、其奴が必要なのだ。赤き帝國ソビエトなど知ったことではない!」


 「――たとえ、エレナ嬢でも容赦せぬぞ!!」




 「交渉決裂ですね―――」




 エレナは古臭い大冊を手に取った。


パラパラパラ!! と紙が自動でめくられ、必要な頁へと導かれる。紙の擦れる乾いた音のはずなのに、その響きはどこか“焔が吸い込む前の呼吸”のようでもあった。





 偽書ヴェレス――四七頁。




 


 エレナは息を整え、


 両の掌を本の両端に添える。




 周囲の空気が静止した。




 風も止まり、埃すらその場で凍りついたように漂う。


 まるで世界そのものが、これから起こる儀式を見届けるために黙り込んだかのようだった。




 エレナは静かに詠唱を紡ぐ。




 「―――燃え盛る蛇よ」




 言葉と同時に、本の頁が淡く発光した。


 光は赤ではない。青でもない。


 炎の“胎動”を思わせる橙色の脈動だった。




「―――真紅の大蛇よ、仇なす者を灰へ帰せ」




 詠唱の最後、


 エレナは両手で本を──




 パァァンッ!!!!




 乾いた破裂音とともに閉じた。




 その瞬間。




 地表に、火が“走った”。




 炎は地面を這い、裂け目のように広がり、


 亀裂から“何か”が生まれようとしている気配だけが、先に伝わってきた。




 ゴ……ゴゴゴ……ッ。




 まるで地の底から巨大な生物が呼吸を始めたような唸り。




 赤い光が地面の下で脈打ち、


 次の瞬間、そこから“形”がせり上がってきた。




 それは、炎そのものが生命を獲得した姿。




 ――火蛇。




 体表は燃え盛りながらも、均一な炎ではない。


 鱗のような模様が、炎の濃淡によって浮かび上がり、


 うねるたびに紋様が滑るように移動する。




 口元には火粉が集まり、光の粒となっては零れ落ちていく。




 その迫力に、髙島は思わず息を呑んだ。




(……炎なのに、“生きて”いる……!)




 火蛇はエレナの足元に頭を垂れ、主への礼のように身を伏せる。


 しかしその瞳は、男を正確に捉えていた。




 エレナは人差し指を軽く振るだけで十分だった。




「行きなさい」




 刹那、火蛇は雷光に似た速度で地面を蹴り飛ばす。




ゴォォォォォッ!!!!




 炎の尾が、溶けたガラスのように地面を赤く照らしながら伸びていく。


 周囲の空気が一気に熱を帯び、視界が揺らめいた。




 男は防御の構えを取りながら激しい息を吐く。




 「来るか……!」




 火蛇は蛇行することなく一直線に男へ突き進んだ。


 その体を振るたび、


 炎の欠片が花弁のように舞い散る。




 轟音が重なり、火蛇の口が大きく開く。




 灼熱の光が収束し──


 “噛みつく”ではなく、“焼き貫く”ための形を作る。




 ついに衝突。




 ――ガオオオオォォォッ!!!!




 爆ぜるような音とともに、火蛇が男を包み込んだ。




衝撃は遠巻きに見ている髙島とマリヤにまで伝わり、


 熱風がドン、と身体を押した。




(……やった……か?)




 そう思ったほんの一瞬。




 炎の壁の向こう側、


 黒い影がゆっくりと膨れ上がっていく。




 「………子供騙しだ」




 男の声が、炎の音の中から這い出てきた。




 炎の中で、漆黒の盾が形成される。




「……黒曜鏡オブシディアン。厄介ですね」


 


 光を拒絶する黒曜鏡が、火蛇の牙を受け止めていた。




 火蛇は全身で押し込もうとする。


 炎が盾の表面でうねり、火花のように散る。




 だが──




 パリンッッ!!!!




 まるで巨大なガラスが割れるような音を立てて、


 火蛇の形が崩れ、炎の粒となって四散した。




 炎は風にかき消されることなく、


 光の砂になって夜空のような闇に吸い込まれていった。




 エレナは、燃え残りの煌めきが消えるのを静かに見届けた。




 男は息を荒げながらも嗤う。




 「炎か? 蛇か? どちらにせよ……効かん。


 闇は光の法則にも、熱の法則にも従わん……!」




 火蛇が消滅した空間には、


 焦げた匂いではなく、


 なぜか涼しい風が吹き込んだ。




 戦いは、終わるどころか、むしろここからが本番だった。


 




8.





 男の気配が強まった。


 周囲に黒霧が渦巻き、空気が重く沈む。




 男の背後に黒曜鏡が浮かび上がる。


 十数枚の黒い盾が衛星のように周囲を回転していた。




 男は笑う。


 「避けられるものなら避けてみろ!!」




 黒曜鏡が一斉に射出される――




 ヒュッ! 


 ギィンッ!


 カンッ! 


 キィンッ!!




 エレナは紙一重で回避し続ける。


 盾が地面に当たるたび、火花めいた破片が散る。




 髙島は焦燥を覚えた。


 (当たったら……やばい!)




 さらに男は両手を広げ、闇を吸い込む。




 ドゥン――ッ!!




 黒曜鏡が高速回転を開始し、軌道が複雑化する。


 斜め、横、頭上……隙間なく襲いかかる。




 「エレナ嬢!! 避けるだけで精一杯か!」




 エレナは後ろへ跳びながら、


 「……あと少し……光が入れば……」




 黒曜鏡が軌道を変え、天井へ突き刺さる。




 ゴゴゴゴゴッ!!




 建材が揺れ、亀裂が走り、


 コンクリ片が落ち始めた。




 「伏せろッ!!」


 髙島は声を大にし、マリヤへ指示する。




 男が闇の圧力を再び立ち上げようとした瞬間。


 


 エレナの横顔は、苦悩ではなく“次の手を読む者”のそれに変わっていた。




 「……では、別の頁を試します」




 彼女の指先が、再びヴェレスの表紙に触れる。


 エレナはそっと片足を引き、地面に影が落ちる角度を確かめるように静止し、再び頁が捲られる。




 偽書――三五一頁。





 その瞬間、空気が変わった。




 まるで周囲の風が、彼女の動きに合わせて“息を潜めた”かのようだった。


 エレナは右手を胸前に掲げ、絹糸のように細い動きで指先を滑らせる。




 その刹那。




 ――スッ……!




 彼女の足元、舗装された地面に、光の線が一本だけ描かれた。


 まるで目に見えない硝子ペンで世界そのものに傷を入れたかのように、淡い翡翠色の輝きが地表を走る。




 線は分岐し、編み合わさり、


 輪となり、


 陣となり、


 紋となる。




 地面はただの平面ではなく、


 古い言語が今も息づく“頁”になったかのようだった。




 風の魔法陣が形成されるにつれ、空気が低く唸る。




 ヒュォォォ……ッ。




 風が吹いているのではない。


 風そのものが、あらゆる方向からエレナのもとへ“集まってくる”のだ。




 髪がわずかに浮き、スカートの裾が波のように揺れる。


 それは自然現象ではなく、完全に魔術のための“舞台準備”だった。




 男が気づき、驚愕の声を上げる。




 「……風術だと……!? ヴェレスの書は炎と獣の象徴では――」




 「ええ。一般的には。けれど、“この頁”は風の贈り物なのです」




 エレナは淡々と告げ、指先を魔法陣の中心へ向けてかざす。




 魔法陣の外周が、ふわり……と回転を始めた。


 舗装材の粒が浮き、砂塵が螺旋に吸い込まれ、まるでこの空間だけが“縦”の重力を失ったように風が舞い上がる。




 翡翠色の光が強まり、


 陣の中央がぽうっと明滅する。




 まるで心臓が鼓動するように。




 ドン… ドン… ドン…




 エレナが静かに詠唱を始める。




 「―――行け。“風の槍“」




 その言葉を合図に、陣は輝度を跳ね上げた。




 パァアアアッ!!!!




 地面を走る光が、突如としてひとつの“形”を成す。


 渦巻く風が細く、鋭く、一本の槍へと収束していく。


 実体を持たないはずの空気が、冷たく硬質な質感を帯びる。




 槍は吸い込まれるようにエレナの掌上へと浮かび、


 翡翠色の刃をまとった風が微かに唸った。




 ヒュウゥゥ――。




 エレナは男を真正面から見据え、短く息を吸う。




 「これ以上、彼女たちを怖がらせるのは──許しません」




 その声は、静かでありながら絶対だった。




 彼女が槍を振り抜いた瞬間、


魔法陣の回転が逆流し、凝縮された風が直線状に奔流する。




 空気を切り裂く音が、雷の前触れのように鋭く響く。




 バシュウウッ!!!!




 風の槍が走った瞬間──


 空気そのものが悲鳴を上げたような、鋭い圧縮音が耳を刺した。




 バシュウウウッ!!!!




 槍は風とは思えないほどの切断力を帯び、真っ直ぐ男へ向かう。


 地面に転がっていた紙片が、一瞬の突風で宙へ撒き上げられた。




 しかし。




 「その程度……ッ!」




 男の喉奥から湿った怒りが漏れた刹那、


 彼の周囲に、再び“黒い鏡面”が立ち上がる。




 さきほど炎蛇を砕いたものと同じ──


 闇を削って造ったような禍々しい盾。




 ただし今度は、先ほどよりも厚い。


 光さえ吸い込む漆黒の層が、皮膜のように何重にも重なっていた。




 風の槍が衝突した。




 ――ガギィィィンッ!!




 金属のぶつかるような、しかしどこか石が悲鳴を上げるような音が響きわたり、


 風槍は一瞬、押し込んだ。


 盾に食い込み、黒い膜を波打たせる。




 押し切れる──かに見えた。




 だが、ほんの一拍遅れて。




 ゴンッ!!




 予想外の衝撃が逆流するように放たれた。


 風槍が弾き返され、砕け散る瞬間、風の粒子が鋭い光のように四散した。




 エレナの銀髪が、その余波にあおられ、舞い上がる。




 「……っ」




 わずかに後退し、足裏で地面をしっかり踏み締める。


 衝撃そのものより、男の“底の見えなさ”が胸を刺した。




 男は嗤い、肩を震わせた。




 「風ごときで、この盾が割れるものか。


 我が術は“光を拒む闇”……!


 貴様等の希望とやらもまとめて呑み込んでやる」




 漆黒の盾が音もなく再構築され、男の全身を再び覆う。


 まるで巨大な生き物が、その身体に闇を巻き付けて守っているかのようだ。




 エレナは唇を引き結び、静かに目を伏せた。




「……そうですか。では、もう一段階……深く、いきましょう」




 彼女の足元の魔法陣が、再び翡翠色に光り始める。


 しかし先ほどとは違う。


 今度は風の流れが“逆さま”にねじれていた。




 髙島はその光景を見て、背中にぞくりとしたものを感じる。




「エレナ……」




 呼びかけようとした言葉を遮るように、男が地面を踏み砕く音が響く。




 「……次は此方の番だ」




 闇の圧力が膨張し、地表に黒い亀裂が走った。


 風と闇が正面からぶつかり、空気が重たく震え始める。




 戦場は、たった数秒でふたたび均衡を失った。


 ―――それを察したエレナは、風の魔法陣で髙島とマリヤを反対側へ押し出す。




 安全圏へ移した瞬間、黒曜鏡の一枚がエレナの背後に迫る。




(まずい――!)




 エレナが振り返る間もなく、


 男が巨大な黒曜盾を形成する。




 「終わりだァッ!!」




 それは避けるのが不可能な“壁”だった。




 エレナは目を細め、決意を固める。




 (――来るっ!!)




 髙島の胸が跳ねる。




 (エレナが……押し切られる……!


 だったら――)




 髙島は懐中電灯を握り、


 目前の男へ――




 パァーッ!!!!




 光を全力で照射した。





 「――がぁっ!!」




 男の動きが鈍り、膝をつく。




 「……貴様っっ!!」





 「………アステカに代表される暗黒魔術テスカトリポカは、闇が源であるため、他に光源が存在すると、途端に弱体となる。貴方のような羞明しゅうめいさんが用いる典型的な魔術の特徴です」  


 エレナが男の方へと歩きながら、言葉を重ねる。


 「―――だからもとより、建造物を完全に破壞することができなかったのでしょう。―――夏の日中ですから、隧道とはいえ、多少光も入りますしね」




 「見抜いて……いたのか――」




 「ええ。黒曜鏡の盾で分かりました。


 懐中電灯は――運よく鞄に入っていただけです。


 制約ハンデを抱えて闘うのは|お互い大変ですね」





 エレナは木製の杭を取り出す。




 「―――こ・ち・ら・をご存知でしょうか?」


 エレナが取り出したのは、何の変哲も無い木製の長身杭。


 


 一見、それだけなのだ。




 ――しかし。


 「………待てっ!! それだけは駄目だ!! シュタイナーの一族はのはず!!」


 腰が抜けた男は最後の力を振り絞って、腕を使って、エレナから離れようと後退りをはじめる。


 


 所以は一つ。


 ―――エレナの持つそれは、ペタルの杭と呼ばれる。




 ……それは、十八世紀に発生した塞爾維セルビアの吸血鬼事件に登場する、祝福された山査子を用いた杭。突如として吸血鬼に変異したペタルという青年の胸に突き刺したとされる物だ。




 ――つまり、吸血鬼にとって畏怖の対象そのもの。というわけである。


 


 をエレナは、「さようなら」の一言を添えて。




 慈悲などなく。




 ……グジャァリッッ!!!!




 事件を終焉を模倣するかのように、男の心の臓を明確に突き刺した。




 杭が振り下ろされ──


 男の心の臓を明確に突き刺した。


 次の瞬間、男の身体は力を失い、音もなく崩れ落ちた。




 それは破壊ではなく、呪いの解放にも似ていた。


 

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