第3話 おにぎりの誓い

アイゼングレイズ家の領地外縁、通称『鋼の墓場』。 そこは、かつて両親が戦車を拾い上げた戦場跡よりもさらに危険な、現役の紛争地帯に隣接する場所だった。


(……これなら、お父様たちも喜んでくれるかな)


六歳になったルナは、瓦礫の山から突き出た「魔導銀の配管」を、小さな手で必死に引っ張っていた。高純度の魔力を通すこの金属は、今のルナを維持するための貴重な資金源になるはずだ。


しかし、運命は残酷だった。


「――待て。そこに誰かいるぞ」


冷徹な声と共に、茂みを分けて現れたのは、鉄色(くろがねいろ)の鎧に身を包んだ帝国の斥候部隊だった。


「王国の民か? いや……この魔力の揺らぎ、ただの子供ではない。魔導変異体(ミュータント)の類か!」


兵士たちが殺気立ち、槍を向ける。 恐怖。それが引き金だった。ルナの背後に浮かぶ「鉄傘(アイアン・アンブレラ)」が、防衛本能に呼応してドクンと鼓動した。


「くる、な……っ!」


ルナの叫びと共に、周囲の空間が歪んだ。 猛烈な重力波が兵士たちを地面に叩きつけ、同時に、ルナの体内のエネルギーが凄まじい速度で吸い出されていく。


「あ、が……っ、お腹が……痛い……っ」


視界が急速に色を失う。 重力を操る代償として訪れる、地獄のような飢餓。目の前に倒れ伏す兵士たちが、血の滴る肉塊に見えてくる。理性の堤防が決壊し、ルナの瞳が「銀の野獣」の輝きを帯び始めたその時――。


「……やめろ。そいつに手を出してやるな」


重圧の結界を、一人の少年兵が無理やり踏み越えてきた。 年の頃は十かそこら。粗末な革鎧を着た、帝国軍の見習い兵。名はカイルといった。


「カイル、下がれ! そいつは化け物だぞ!」 「化け物じゃない。ただ……ものすごく腹を空かせて、泣いてるだけだ」


カイルは、重力に押し潰されそうになりながらも、膝をついてルナの前にまで這い寄った。 ルナは獣のような唸り声を上げ、彼を拒絶しようとする。だが、カイルは怯えなかった。


「……これ、食えるか。俺が夜番の時に、こっそり自分で握ったんだ」


彼の手のひらにあったのは、帝国の無機質な配給品ではない。 不格好だが、温かな湯気を立てる――白い、おにぎりだった。


「おに、ぎり……?」


その響きに、ルナの意識がわずかにつなぎ止められた。 差し出されたそれを、ルナは奪い取るようにして口に押し込んだ。


衝撃だった。 噛み締めた瞬間、米の甘みと、ほんの少しの塩気が口いっぱいに広がる。 それは、アイゼンが拾ってきた豪華な肉とも、イザベラが買い揃えた高級なケーキとも違う。 「誰かが、自分のために作ってくれた」という、純粋で温かな祈りのような味がした。


「美味しい……。あったかい……」


ルナの瞳から銀色の光が消え、大粒の涙が溢れ出した。 暴走していた鉄傘の重力は嘘のように収まり、カイルの周囲だけは、まるで春の陽だまりのような穏やかな空気に包まれた。


「……そうか。旨かったか」


カイルは、敵であるはずの少女の頭を、泥だらけの手で優しく撫でた。


「おい、カイル! 撤収命令だ! 王国の増援が来るぞ!」


仲間の叫び声に、カイルはハッとして立ち上がる。彼は持っていた布袋を、ルナの膝元に置いた。


「これ、全部やるよ。……次に会う時は、もっと旨いもんを作ってやる。だから、そんな餓えた獣みたいな顔をするな」


カイルは一度だけ振り返り、少年のあどけなさが残る笑顔を見せて、森の奥へと消えていった。


残されたのは、静寂と、カイルから受け取ったおにぎりの温もりだけ。 ほどなくして、血相を変えて駆けつけてきたアイゼンとイザベラは、その場で座り込み、大事そうに竹の皮を抱きしめている娘の姿を目にする。


「ルナ! 無事か!?」 「お父様……私、決めたわ」


ルナは、空になったおにぎりの包みを見つめ、静かに、しかし力強く告げた。


「私、世界中の美味しいものを全部、あの人にも食べさせてあげたい。……お腹がいっぱいなら、きっとみんな、あんなに悲しい顔で戦わなくて済むもの」


美食聖女・ルナの、本当の意味での「建国」の理念が産声を上げた瞬間だった。

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