第2話 父の決意、母の冷徹
アイゼングレイズ家の朝は、胃袋が軋む音で始まる。
「……お母様。壁のひび割れが、焼き立てのパイの層に見えます……」 「ダメよ、ルナ。それはただの漆喰。お腹を壊して余計にカロリーを消費するだけだわ」
椅子に座るのさえ鉄傘の重力に阻まれ、テーブルに突っ伏しているルナ。その頭上では、計算尺を弾くイザベラの指先が、戦場の砲火よりも激しく動いていた。
「アイゼン、現状を伝えるわ。貯金は底をついた。昨日のレーションが最後の在庫よ。あと三日以内に、ルナに新鮮な魔獣の肉か、高純度の魔導エネルギーを摂取させないと、この子の回路(からだ)が自分自身を焼き切ってしまうわ」
イザベラの言葉は冷徹な数字の羅列だったが、その瞳には焦燥の色が混じっている。 アイゼンは、愛用の巨大な解体剣を背負い、不敵に笑った。
「わかっているさ。……ルナ、今夜のメニューは何がいい?」 「え……? ……お肉。柔らかくて、じゅわっとする、お肉がいいです……」
「よし、オーダーは入った。――イザベラ、市場(マーケット)に行ってくる」
アイゼンが向かったのは、昨日まで帝国と王国が激突していた『灰の平原』。 本来、戦後処理は軍の回収部隊が独占するものだ。だが、今のアイゼンに「軍の規律」など知ったことではない。
「止まれ! ここからは帝国軍の封鎖区域だ!」
残党の警備兵が槍を構えるが、アイゼンは足を止めない。
「邪魔だ。娘が腹を空かせてるんだよ」
彼が背負った解体剣を一閃させると、風圧だけで兵士たちは吹き飛んだ。 アイゼンの視線の先には、地雷を踏んで履帯(キャタピラ)が切れた、帝国の最新鋭重戦車『アイアン・ブル』が転がっている。
「ほう……。上等なクロム合金に、まだ熱を帯びた魔導炉か。これならいい値がつく」
アイゼンは、普通なら十数人で扱う牽引ワイヤーを素手で掴むと、数トンはある戦車を一人で引きずり始めた。背後で帝国軍の増援が叫び声を上げているが、彼は鼻歌交じりに、戦車を引きずりながら家へと帰還したのである。
「ただいま、イザベラ。ルナ、土産だぞ!」
庭に轟音と共に投げ出されたのは、鉄の塊――いや、アイゼングレイズ家にとっては「金」の塊だった。
「アイゼン、遅かったわね。……でも、悪くない獲物だわ」
イザベラの目が、商売人のそれへと変わる。彼女は計算尺を置くと、手際よく戦車のハッチをこじ開けた。
「ルナ、見ていなさい。これがアイゼングレイズ流の『買い物』よ」
イザベラは、戦車の心臓部である「魔導クリスタル」を慎重に、かつ大胆に抜き取った。そこへ、アイゼンが戦車を狙って追ってきた軍の回収官や、噂を聞きつけた闇商人が集まってくる。
「おい、それは我が軍の備品だ! 返してもらおうか!」 「あら、これはうちの夫が『道端で拾った落とし物』よ。所有権は発見者にあるわ」
イザベラは冷笑を浮かべ、詰め寄る軍官に書類を突きつけた。
「どうしても返してほしいなら、正当な『管理手数料』をいただこうかしら。……そうね、この戦車の新造価格の八割。今すぐ現金(キャッシュ)で。払えないなら、あちらの王国側の商人に売るだけよ」 「な、八割だと!? 正気か!」 「娘のデザート代が含まれているもの。これでも安い方よ。……さあ、どうするの?」
イザベラの圧倒的な交渉術(という名の恐喝)に、軍官は顔を真っ青にして財布を差し出すしかなかった。
その夜。 アイゼングレイズ家のテーブルには、信じられないような光景が広がっていた。 分厚い牛のステーキ、山盛りのポテト、色鮮やかなサラダ。そして仕上げには、生クリームがたっぷり乗ったベリーのタルト。
「わあ……っ! お肉……本物のお肉です!」
ルナは目を輝かせ、夢中でフォークを動かした。 一口食べるごとに、全身の細胞が歓喜し、背中の鉄傘が穏やかな、温かい光を放ち始める。
「美味しい……美味しいです、お父様、お母様!」
その笑顔を見た瞬間、アイゼンの腕の痛みも、イザベラの計算の苦労も、すべてが報われた。
「いいかルナ。これから毎日、お前を満足させてやる。そのためなら、俺はどんな鉄の塊でも拾ってくる」 「私は、それを誰よりも高く売ってみせるわ」
満腹になり、幸せそうにうとうとし始めたルナの横で、夫婦は静かに、しかし熱い視線を交わした。 アイゼングレイズの快進撃は、一人の少女の胃袋を満たすことから、今まさに始まったのである。
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