第9話:報酬改定の日
家庭裁判所の廊下は、独特の静謐さに包まれている。磨き上げられたリノリウムの床からは微かにワックスの匂いが立ち上り、開閉される重い扉の音が、まるで人生の判決を告げる鼓動のように等間隔で響いていた。
結城蓮は、法廷の外にある長椅子に座り、一冊の報告書を膝に置いていた。 かつての彼は、この報告書を「報酬を最大化するための請求書」だと考えていた。しかし、今日提出するそれは、彼がこれまで信奉してきた「財産の番人」としての論理を、自ら否定するような内容だった。
「結城先生、お入りください」
書記官に促され、入室した第302審判廷。正面に座る三上裁判官は、眼鏡の奥の鋭い眼光で、結城が提出した一年分の事務報告書と家計表を読み込んでいた。
「結城さん。今回の『報酬付与の申立て』、拝見しました。……少々、不可解な点があります」
三上の声が、高い天井に反響する。彼は手元の資料を指で叩いた。
「被後見人の佐藤まつさん。就任当初、彼女の財産は1,012万円でした。しかしこの一年で、あなたは自宅の手すり設置、段差解消のフルリフォーム、さらには付き添いをつけての国内旅行費用として、約150万円を支出している。現在の残高は860万円。……わかっていますね?」
「はい。承知しております」
「管理財産が1,000万円を下回った。運用基準に照らせば、あなたの基本報酬は月額3万円から2万円へ……つまり年間で12万円の減額となります。あなたは後見人として、自らの報酬を減らすために財産を費消した。これは、財産保護という職務に反するのではないですか?」
三上の問いは重く、冷たい。結城はゆっくりと顔を上げた。 裁判所の空気は乾燥しており、喉の奥がヒリついた。しかし、彼の言葉に迷いはなかった。
「裁判官。私は就任当初、佐藤さんに『ケーキは買うな』と命じました。1,000万円という数字を守ることこそが、彼女を救う唯一の道だと信じていたからです。しかし、私は間違っていた。……財産を守って、心を殺していたんです」
結城の脳裏に、リフォームが終わった日の佐藤まつの顔が浮かんだ。 自分の足で、誰の手も借りずにトイレへ行けるようになった彼女が、「先生、私、まだ自分の力で生きてるわ」と笑った、あの皺だらけの柔らかな笑顔。
「彼女にとっての1,000万円は、ただの数字ではありませんでした。死ぬまで『自分らしくあるため』の軍資金だったはずです。転倒のリスクを抱えながら、暗い家で通帳の数字を眺めて震える毎日と、150万円を費やして、安全な家で苺の乗ったショートケーキを笑って食べる毎日。後見人が守るべきは、どちらの『利益』でしょうか」
「……しかし、あなたは専門家だ。自身の経営も考慮すべきだ」
「経営なら、他で補います」 結城は、自嘲気味に、しかし誇らしげに口角を上げた。 「私はプロです。プロの仕事とは、クライアントに最大の満足を与えることだ。佐藤さんの満足とは、残高の維持ではない。最期まで自宅で、人間として暮らすことだった。私はそのために、あえて『1,000万円の壁』を壊しました。それによって私の報酬が下がるなら、それは私の判断がもたらした当然の結果です。……査定してください。月2万円が、今の私の価値です」
沈黙が法廷を支配した。 佐倉ほのかが、傍聴席の後ろで息を呑む気配がした。彼女の瞳は、驚きと、それ以上の深い敬意で潤んでいた。
三上裁判官は、しばらく結城を凝視していたが、やがて手元のペンを置いた。 「……結城さん。あなたの報告書の最後の一行に、こうありますね。『本人のQOL向上のため、あえて資産減少を容認した。これは管理の放棄ではなく、積極的な身上保護の結果である』と」
三上は、初めて微かな笑みを見せた。
「面白い。……今回の件、基本報酬は基準通り月2万円に改定します。しかし、」
三上の言葉に、結城は背筋を伸ばした。
「リフォームの立会い、業者選定、旅行への動線確認。これら一連の身上保護業務に対し、特別の労力を認め、『付加報酬』として一時金20万円を認めます」
結城の目が見開かれた。 「裁判官、それは……」
「あなたの報酬ランクは下がった。しかし、あなたの『仕事の質』は、基準値を超えている。家庭裁判所は、数字だけを見ているわけではありません。……結城さん、これからもその『不器用な正義』で、番人を続けなさい」
審判廷を出た時、冬の冷たい空気が、驚くほど心地よく結城の頬を撫でた。
「結城さん!」 佐倉ほのかが駆け寄ってきた。彼女からは、冬の陽だまりのような温かい匂いがした。 「すごかったわ。……あんなにかっこいい『報酬減額の受け入れ』、初めて見た」
「かっこよくなどありません。ただの計算違いです」 結城は、照れ隠しに眼鏡をクイと上げた。 「付加報酬で20万円出たとしても、リフォームの打合せに費やした時間を時給換算すれば、やはり大赤字だ。……全く、割に合わない」
「ふふ、また言ってる。でも、後悔してないでしょ?」
結城は答えず、歩き出した。 鞄の中には、佐藤まつの新しい通帳が入っている。 残高は減った。だが、その一円一円には、彼女が生きる喜びを取り戻したという、目に見えない「付加価値」が刻まれている。
「……行きましょう、佐倉さん。佐藤さんに報告だ。今日からまた、週に一度のケーキを再開していい、と」
「ええ、一番高いやつにしましょう!」
結城の足取りは、いつになく軽やかだった。 報酬改定の日。 彼は、自分の給料を削ることで、一人の老人の「尊厳」を買い戻した。 数字という檻から解放された番人は、今、真のプロフェッショナルとして、黄金色の夕暮れの中へと踏み出していった。
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