第10話:最後の通帳

冷たい雨が止み、雲の間から差し込んだ春の光が、静まり返った病室を白く染めていた。 空気は驚くほど澄んでいて、先ほどまで聞こえていた人工呼吸器の規則正しい機械音も、今はもうない。ただ、開け放たれた窓から流れ込む、濡れた土と沈丁花の淡い香りが、死の直後の静寂を優しく包み込んでいた。


佐藤まつは、眠るように息を引き取った。 結城蓮は、彼女の枕元で深く頭を下げ、それから静かに最後の手続きを始めた。


「……結城さん。お疲れ様でした」


背後から佐倉ほのかが歩み寄り、まつの頬に優しく触れた。まつの表情は、第1話で怯えていたあの時とは違い、驚くほど穏やかだった。


「はい。これで、私の後見人としての職務は終了です。あとは、相続人への引き継ぎと、裁判所への最終報告を残すのみです」


結城の声はいつも通り事務的だったが、その手は微かに震えていた。彼はまつの枕元に置かれていた、一冊の古い通帳を手に取った。ボロボロになったプラスチックカバー、何度も書き込まれた数字の列。それは、まつがこの世を生きた、最後の「生命維持装置」だった。


その通帳の間に、一枚の折り畳まれた紙切れが挟まっているのに、結城は気づいた。 そこには、震える手でこう記されていた。


『結城先生へ。 ケーキ、内緒でたまに食べちゃいました。ごめんなさい。 でもね、先生が「ダメだ」って言ってくれたおかげで、私、自分がまだ一人前の人間なんだって思えたのよ。 誰にも見向きもされなくなった私を、あんなに一生懸命「管理」してくれて、ありがとう。 私のお葬式の代金、ちゃんと残しておいたから。迷惑かけないで、あっちへ行けそうです。』


「……バカな人だ」


結城は呟き、紙を強く握りしめた。視界が急速に歪み、一円単位で管理してきたはずの数字が、涙で滲んで読み取れなくなった。 通帳の最終残高は、50万円。 結城が「ケーキは買うな」「旅行は行くな」と鬼になって守り抜いた、その最後の塊。それは、孤独な老婆が最期まで失いたくなかった「誰にも迷惑をかけない」という名のプライドそのものだった。


「……計算通りです。葬儀費用と、未払いの医療費。ぴったり、一円の狂いもなく収まっている」


「結城さん、泣いてるの?」


「いいえ。……目に、春の埃が入っただけです」


結城は背を向け、眼鏡を外して強く目を拭った。 彼はまつの財産を「守る」ことで、彼女の最期のわがまま――「綺麗に消えたい」という願いを叶えたのだ。月2万円という、世間から見れば端金のような報酬で、彼は一人の人間の尊厳という、計り知れない価値のあるものを看取った。


一ヶ月後。 結城司法書士事務所の窓からは、満開の桜が見えた。 デスクの上には、新しい依頼人の資料が置かれている。


「失礼します、結城先生」


入ってきたのは、初老の男性だった。身なりは質素だが、どこか不安げに周囲を見回している。 「あの……私の弟のことなんです。独身で、少し認知症が始まっていて。財産も、この300万円くらいしかないんですが……。こんな少ない額じゃ、専門家の方に後見人をお願いするなんて、無理ですよね?」


男性は申し訳なさそうに、使い古された通帳をテーブルに置いた。 佐倉ほのかが横から覗き込み、結城の顔を伺う。 かつての結城なら、「採算が合いませんね」と冷たくあしらっていたかもしれない。あるいは、支援事業の手続きを事務的に説明するだけだったろう。


だが、結城はゆっくりと通帳を手に取り、その重みを確かめるように微笑んだ。


「300万円、ですか。……ええ、十分です」


「えっ、本当ですか?」


「基本報酬は月額2万円。私の事務所の経営的には、決して『美味しい』案件ではありません」 結城は眼鏡をクイと上げ、いつもの冷徹なトーンで、しかし瞳には確かな熱を宿して続けた。


「ですが、300万円あれば、できることは山ほどあります。美味しいお茶を飲み、たまには季節の和菓子を楽しみ、冬には温かい綿の布団を新調する。……いいですか。このお金は、単なる数字ではありません。あなたの弟さんが、最期まで『自分』でいるための、大切な武器です」


結城はペンを取り、受任通知の書類に力強く署名した。


「私が番人を務める以上、一円の無駄遣いもさせません。ですが、一円の『後悔』もさせない。……最高の余生をプロデュースしましょう。それが、プロの仕事ですから」


男性は救われたような顔で、何度も頭を下げた。 佐倉ほのかが、結城の隣でクスクスと笑った。


「また始まった。今度はどんな厳しい制限をかけるつもり? 『和菓子は月に一個まで』とか?」


「……状況によります。管理の徹底は、私の信念ですから」


結城は窓の外を眺めた。 風に舞う桜の花びらが、新しい通帳の上に一枚、ひらりと落ちた。 かつて「貯蓄の番人」と呼ばれた男は、今、その呼び名に新しい意味を見出していた。


守っているのは、数字ではない。 その数字の向こう側にある、震えるような「生」の輝きだ。


「さあ、始めましょうか」


結城は新しい事件記録を綴じ、次の「人生」のページを開いた。 彼の指先には、一円単位の正義と、算定不能な優しさが、確かに宿っていた。


春の光が、事務所の古びたデスクを暖かく照らし出していた。 物語は終わらない。通帳がある限り。そして、その一頁を大切にめくる番人がいる限り。


『貯蓄の番人 ―そのケーキ、誰の金ですか?―』全10話・完




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