第8話:身上保護と「付加報酬」の算定不能な価値
深夜の病院の廊下は、消毒液の鼻を突く匂いと、一定間隔で鳴り響く医療機器の電子音に支配されていた。 結城蓮は、待合室の硬いプラスチック椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆っていた。スーツの肩には、先ほど緊急搬送の際に付着した雨の雫が、染みとなって残っている。
「……結城さん。まだ、帰らないんですか?」
背後から声をかけたのは、夜勤明けの佐倉ほのかだった。彼女の目元には濃い隈が浮かび、手には自販機の温かい緑茶が握られている。
「被後見人の意識が戻るまで、ここにいます。……後見人として、医師からの説明を聞く義務がありますから」
「義務、ね」 佐倉は隣に座り、お茶を差し出した。 「でも結城さん、今日だけでここに来るの、三回目でしょ。午前の施設でのトラブル対応、午後の入院手続き、そしてこの緊急搬送。……これ、全部『身上保護』の業務よね。裁判所は、この奔走をどれだけ評価してくれるのかしら」
結城は熱い茶を受け取り、その温もりに縋るように指を絡めた。 「評価……。家庭裁判所が決定する『付加報酬』の基準は、基本的には客観的な事務の困難性です。不動産を売った、裁判をした、という目に見える成果には金額がつく。だが……」
結城は、暗い病室のドアを見つめた。 「『本人の手を握って、一時間励ました』ことや、『夜中に施設からの愚痴を電話で聞いた』ことに、家裁は一円もつけません。効率で言えば、最悪の業務だ」
今回の被後見人は、80歳の元教師、宮田。 彼は結城を、死んだ息子だと思い込んでいる。施設で暴れるたび、呼び出されるのは結城だった。事務作業なら、秘書に任せればいい。だが、宮田の混乱を鎮められるのは、この冷徹な「番人」の、意外にも穏やかな声だけだった。
「結城さん、あなた、変わったわね」 佐倉がふと呟く。 「前なら『それは私の職務権限外です』って切り捨ててたはずなのに。今のあなたは、効率を捨てて、ただの『結城蓮』として走り回ってる」
「……捨てたわけではありません」 結城は頑なに否定した。 「ただ、算定不能なものに、価値がないわけではないと……気づいただけです」
翌朝、宮田の意識が戻った。 結城が病室に入ると、酸素マスクをつけた宮田が、力なく視線を巡らせた。結城の姿を認めた瞬間、その乾いた瞳に微かな光が宿った。
「……来てくれたのか」
「ええ。仕事ですから」
結城は椅子を引き寄せ、宮田のそばに座った。 宮田の手は、枯れ木のようにもろく、点滴の針の跡が生々しい。彼は震える手で、結城の袖を掴んだ。
「先生……怖いんだ。暗いところに、一人で放り出されるのが。……金なら、いくらでも払う。だから、ここにいてくれ」
「お金は、もう十分にいただいています」 結城は嘘をついた。宮田の財産は、度重なる入院費で目減りし、報酬ランクは下がる一方だった。 「私は、あなたの財産を管理する者。あなたが安心して眠るために、ここにいる。それも管理の一部です」
宮田は安堵したように息を吐き、そのまま眠りに落ちた。 結城はその手を、宮田が完全に眠りにつくまで、静かに握り続けた。 心拍モニターの規則正しい音が、まるで自分の報酬を刻むメトロノームのように聞こえた。一拍、一拍、無償の時間が過ぎていく。
数日後、結城は事務所で「報酬付与申立て」の書類を作成していた。 『身上保護に関する特別の労力』 その欄に書けることは、驚くほど少ない。 「深夜の急行三回」「精神的ケアのための面会延べ五十時間」。 裁判官はこれを見て、数万円の上乗せを認めるかもしれないし、認めないかもしれない。時給に換算すれば、端金にも満たない。
「先生、それ……。あんなに頑張ったのに、たった数行ですか?」 事務員の言葉に、結城はペンを止めた。
「ええ。法律は、心臓の鼓動までは査定しません」
結城は窓の外の街並みを見つめた。 人々は自分の生活のために働き、対価を得る。自分もそうだった。数字こそが正義で、残高こそが人生のスコアだと思っていた。 だが、宮田の手の震えを止めたあの時間は、どの通帳にも、どの契約書にも、場所がない。
「……でも」
結城は呟き、最後の一行を書き加えた。 『本人の平穏な生活の維持のため、今後も継続的な身上保護が必要である』
それは、これからも「効率の悪い、金にならない時間」を捧げ続けるという、自分への宣戦布告だった。
夕暮れ時、結城は再び病院へ向かった。 鞄の中には、宮田が欲しがっていた、施設の庭で採れた小さな花の押し花が入っている。 これを持って行っても、付加報酬は一円も増えない。 むしろ、往復のガソリン代でマイナスだ。
それでも、結城の足取りは軽かった。 報酬という名の鎖から解き放たれた時、彼は初めて、一人の人間の「番人」になれたのかもしれない。
廊下を歩く彼に、看護師が声をかける。 「結城先生、またですか? 本当にお熱心ですね」
「ええ、管理の徹底です」
結城は少しだけ口角を上げ、宮田の病室のドアを開けた。 消毒液の匂いの向こうに、自分を待っている、一人の老いた命の気配があった。 算定不能。査定外。 けれど、今の彼には、その「無駄な時間」こそが、何よりも重い報酬に感じられた。
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