第7話:成年後見制度利用支援事業の光と影

錆びついた鉄扉を開けた瞬間、肺の奥を刺すような冷気と、長年蓄積された埃の匂いが結城の喉を塞いだ。


そこは、築五十年の木造アパートの一室。四畳半の空間には、文字通り「何もない」があった。擦り切れた畳の上に置かれた、小さなカセットコンロと、中身の空けたカップ麺の容器。そして、薄汚れた布団から顔を出している、痩せ細った老人・山崎(72歳)。


「結城……先生。すまないねぇ、こんな貧乏人のところに」


山崎の声は、枯れ葉が擦れるような頼りない音だった。 結城蓮は、高級なスーツの裾が煤けるのも構わず、冷たい畳に膝をついた。手元の書類には、山崎の全財産が記されている。


「預金残高、842円。……山崎さん、これがすべてですね」


「ああ、そうだ。生活保護の金も、借金の返済で消えちまった。先生に払う金なんて、一円もありゃしない。……あんた、損しに来たのかい?」


山崎の濁った瞳が、結城を値踏みするように見つめる。 成年後見制度において、本人の財産が乏しい場合、自治体が報酬を助成する「利用支援事業」がある。しかし、その支給額には上限があり、結城のような専門家が動く対価としては、あまりに心もとない。


「役所から決定通知が来ました。私の月額報酬は、市が負担する2万8千円のみです。交通費や事務手数料を差し引けば、手元に残るのは微々たるもの。……佐倉さんが言った通り、完全な『赤字案件』です」


部屋の入り口に立っていた佐倉ほのかが、沈痛な面持ちで口を開いた。 「結城さん。このアパート、来月取り壊しなの。山崎さんを新しい施設に移さなきゃいけない。でも、身寄りもなくて保証人もいない山崎さんを受け入れてくれるところなんて……。これ、普通なら何十時間も役所と交渉して、いくつも施設を回らなきゃいけない仕事よ。それを、その『数千円』の利益でやるの?」


佐倉の問いは、鋭い針のように結城の胸を突いた。 これまでの「1,000万円の壁」や「5,000万円の資産家」の案件とは、次元が違う。報酬が低いということは、その業務にかけられる「時間」を制限しなければ、事務所の経営が傾くという現実を意味する。


「報酬が安ければ、支援の質も下がるのか。……社会の誰もが、そう思っています」 結城は立ち上がり、窓の隙間から吹き込む隙間風に目を細めた。 「『安い仕事なんだから、適当に役所に放り投げればいい』。そう考える専門家も少なくない。だが、山崎さん」


結城は布団のそばに歩み寄り、山崎のガサガサに荒れた手を取った。その手は氷のように冷たく、死の予感に震えていた。


「私のプライドは、通帳の残高で決まるほど安くありません」


「……え?」


「一円の報酬も出ないからといって、あなたの命の価値が下がるわけではない。私はあなたを、5,000万円の資産家と全く同じ熱量で『管理』します。それが私の、プロとしての意地だ」


翌日から、結城の「非効率な」戦いが始まった。 彼は報酬が10倍の案件を抱えながら、合間を縫って市役所の福祉課へ何度も足を運んだ。窓口の担当者が「そんな端金の仕事で、よくそこまでやりますね」と呆れるのを、結城は「事務の正確性に、報酬の多寡は関係ない」と一蹴した。


足が棒になるまで施設を回り、山崎の生活保護費の範囲内で入居できる、かつ「人としての尊厳」が守られる場所を探し歩いた。 ある雨の日、結城は泥だらけの靴で事務所に戻ってきた。


「結城さん、顔色が真っ青よ。もういいじゃない、適当な救護施設で……」 佐倉が心配して駆け寄る。


「適当、という言葉は私の辞書にはない」 結城は震える手で温かい缶コーヒーを握り、その熱を吸い取った。 「今日、ようやく見つけました。身寄りなしの生活保護受給者を受け入れ、看取りまでしてくれる養護老人ホームです。あそこなら、山崎さんは最期に、温かいスープを飲んで死ねる」


「……どうして、そこまで?」


結城は、缶コーヒーのプルトップを開けた。蒸気が白く立ち上る。 「佐倉さん。この国の社会保障は、もう限界だ。お金のない人間は、制度の網の目からこぼれ落ちていく。後見人が『割に合わない』と手を引けば、山崎さんのような人は孤独死してゴミのように片付けられるだけだ」


結城の瞳に、激しい感情の火が灯る。


「私は、それが我慢ならないんだ。制度が救えないなら、私が救う。報酬の額で人間の優先順位を決める社会に対し、私は私の『赤字』をもって抗議する」


一ヶ月後。山崎は新しい施設へ移った。 清潔なシーツ、差し込む陽光。山崎は、久しぶりに食べたというカボチャの煮付けを、大切そうに味わっていた。


「先生……。あんた、馬鹿だねぇ。私みたいな老いぼれのために、靴底減らして」


「ええ、馬鹿ですよ。裁判所に提出する報告書も、いつもの三倍の厚さになりました。当然、報酬は一円も増えません」


結城は窓の外を眺めた。そこには、春を待つ蕾が微かに膨らんでいる。 「山崎さん。あなたの人生の最後の『番人』が、私で良かったと思わせる。それが、今の私の報酬です」


山崎は、シワだらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。その笑顔には、どんな高価な美術品よりも価値があるように、一瞬だけ見えた。


帰り際、佐倉が結城に並んで歩いた。 「ねえ、結城さん。今日の仕事、時給換算したらどうなると思う?」


「計算したくありません。……おそらく、コンビニのアルバイトにも劣るでしょう」


「でも、今のあなたの顔、5,000万円の案件の時より、ずっと良い顔してるわよ」


結城は足を止め、自分の手のひらを見つめた。 そこには、何の報酬も乗っていない。ただ、一人の老人の冷たい手を温めた時の、かすかな記憶の熱だけが残っていた。


「……光と影、か」


結城は呟いた。 制度が光を当てない場所に、自らが影となって寄り添う。 報酬という名の数字に支配されない、真の「番人」の姿がそこにあった。


「さあ、行きましょう。次の案件は……財産1,200円の女性です。また赤字が増えますよ」


結城は眼鏡をクイと上げ、寒空の下、再び足を踏み出した。 その背中は、どんな金持ちの邸宅にいる時よりも、気高く、そして力強かった。


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