第6話:任意後見人の「契約」と「裏切り」
重厚なドアを開けると、そこには濃厚な薔薇の香水の匂いと、高級家具のワックスの匂いが立ち込めていた。かつて令嬢と呼ばれた九条麗子の邸宅は、今や「契約」という名の檻に変わっていた。
「あら、結城先生。ご苦労さまですこと」
ソファに優雅に腰掛け、琥珀色のティーカップを傾けるのは、麗子の知人を自称する男・中野(52歳)だった。彼は麗子がまだ意識がはっきりしていた頃、「月額15万円」という法外な報酬で任意後見契約を結んでいた。
結城蓮は、家庭裁判所から選任された「任意後見監督人」として、この場に立っていた。任意後見人が契約通り正しく仕事をしているか監視するのが彼の任務だが、手元の通帳コピーには不自然な数字が並んでいた。
「中野さん。先月の麗子さんの生活費、200万円支出されていますね。内訳を説明してください」
結城の声は、研ぎ澄まされたメスのように鋭い。
「説明? 契約書を見てくださいよ、先生。麗子さんは『自分らしい華やかな生活を維持すること』を望まれた。ブランド物の服、高級食材のデリバリー、庭の手入れ……。すべて彼女の希望に沿った、契約通りの事務執行ですよ」
中野は勝ち誇ったように、公正証書の写しをひらつかせた。 「報酬の15万円だって、彼女が納得してハンコを押した正当な対価だ。契約の自由、ですよ。あなたが口を出す権利はない」
部屋の隅で、当の麗子は虚ろな目で窓の外を見ていた。かつて気品に溢れていた白髪は少し乱れ、その首元には、彼女の趣味とは思えない派手な金のネックレスが重そうに揺れている。
「麗子さん、わかりますか?」 結城が近づき、彼女の目を見つめた。麗子の指先は、カシミアの毛布を何度も執拗に弄んでいる。 「このネックレス、中野さんが選んだのですか?」
麗子は力なく微笑んだ。 「……中野さんが、似合うって。でも、少し重いの。首が、痛い……」
結城の奥歯が微かに鳴った。 中野は、麗子の金で高価な宝飾品を買い、それを麗子に「贈る」という体裁をとって、事実上、財産を自分の管理下に移しているのだ。あるいは、自分の行きつけの店に金を落とさせてバックを得ているのか。
「中野さん。任意後見は『本人の意思』を尊重するものですが、それは『本人の財産を食いつぶすこと』までを許容するものではない」
「おいおい、監督人さん。勘違いしないでくれ」 中野が立ち上がり、結城の胸元に指を突きつけた。安っぽい葉巻の匂いが結城の鼻を突く。 「俺は彼女と正式に契約したんだ。あんたみたいな後から来た役人が、死ぬまで一人でいるはずだった老婆を救ってやってる俺たちの仲を裂くのか? 法的に、俺は無敵なんだよ」
結城は中野の指を冷たく払い、手帳を閉じた。 「……法的に無敵、ですか。それはどうでしょうか」
結城は翌日から、徹底的な調査を開始した。 任意後見監督人としての報酬は、裁判所が決める。中野の取る15万円に比べれば微々たるものだ。だが、結城は執念深く、麗子が「契約」を結んだ当時の診断書、中野が金を落としている宝飾店の経営実態、そして麗子の邸宅に出入りする出入業者の証言をかき集めた。
一週間後。結城は再び邸宅を訪れた。今度は、家庭裁判所への「任意後見人の解任申立て」の草案を携えて。
「無駄だって言っただろう」 中野が嘲笑う。
「いいえ。あなたは致命的なミスをした。麗子さんに買い与えたそのネックレス。領収書は『九条麗子』名義ですが、その店のポイントカード、あなたの名義で登録されていますね。さらに、その店からあなたへ『紹介料』の名目で多額のキックバックが発生している。これは『利益相反行為』です」
中野の顔から、余裕の笑みが消えた。
「任意後見契約は『契約の自由』に基づきますが、後見人には『善管注意義務』がある。本人の財産を私物化し、不当な利益を得ることは、契約の前提を根底から覆す背信行為だ。私は監督人として、あなたを横領罪で告発する準備も整えています」
結城は麗子の側に寄り、彼女の震える手から重い金のネックレスを外した。 「麗子さん。重かったですね。もう大丈夫です」
麗子の瞳に、一瞬だけ、かつての令嬢としての光が戻った気がした。彼女は結城の袖をぎゅっと掴み、掠れた声で言った。 「……先生。私、怖かったの。契約したから、逆らっちゃいけないと思って……」
「契約は、あなたを縛る鎖ではなく、あなたを守るための盾であるべきなんです」 結城の声は、初めて少しだけ柔らかくなった。
中野は毒づきながら部屋を去っていった。 その後には、高い香水の匂いだけが虚しく残った。
結城は窓を開け、部屋の空気を入れ替えた。冬の冷たい風が入り込み、澱んだ空気を一掃する。
「結城さん、お疲れ様」 後から駆けつけた佐倉ほのかが、魔法瓶に入った温かいコーヒーを差し出した。 「今回の件、監督人の報酬だけじゃ、あなたの調査費用も出ないんじゃない? 完全に赤字でしょ」
「……ええ。一円の得にもなりません」 結城は苦いコーヒーを一口飲み、顔をしかめた。 「でも、中野のような輩が『契約』という神聖な言葉を汚すのが、我慢ならなかった。それだけです」
「守銭奴の結城さんが、赤字を承知で戦うなんて。明日、雪が降るかもね」 佐倉がからかうように笑う。
結城は答えず、麗子の通帳に新しい印をつけた。 契約の自由、という名の暴力。 その隙間に落ちた人を救うのは、結局、同じ「法」という武器を持つ者でしかない。
「次の仕事は何ですか?」 佐倉が尋ねる。
「……第7話。報酬が払えないほど困窮した方の、支援事業申請です。一円も持っていない人の番人を、どう務めるか……。それが、今回の私の『宿題』です」
結城は空になったティーカップを見つめた。 報酬とは、単なる労働の対価ではない。 それは、誰かの人生に介入し、その責任を背負い続ける覚悟の重さそのものなのだ。 冷たい冬の風が、結城の頬を優しく、しかし厳しく撫でていった。
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