第5話:旅行に行くな! 安全か、自由か
窓の外では、冬の低い陽光が都会のビル群を無機質に照らしていた。結城司法書士事務所の応接室には、南国の鮮やかな海が印刷されたパンフレットが、不釣り合いなほど眩しく置かれている。
「ハワイ、ですか」
結城蓮の声は、冷たく乾いた氷のようだった。対面に座るのは、被後見人の川島トヨ(78歳)。派手な柄のブラウスを纏い、年齢を感じさせない艶やかな声で彼女は言った。
「そうよ。死ぬ前に一度だけでいいの。新婚旅行で行った、あのダイヤモンドヘッドの夕日をもう一度見たいのよ。先生、私のお金でしょ? 三百万円くらい、パッと使ったってバチは当たらないわ」
「却下します」 結城は視線をパンフレットから外し、手元の端末に表示された収支表を叩いた。 「理由は三つ。一つ、渡航および現地での転倒・急病のリスク。後見人としてその責任は負えません。二つ、三百万円という支出はあなたの現在の資産規模から見て不相当な浪費です。そして三つ目……」
「三つ目は何よ! 自分の報酬の査定に響くからでしょ!」 横から口を挟んだのは、トヨの付き添いで来た佐倉ほのかだった。彼女の頬は怒りで紅潮し、安物のコートからは冬の冷たい風の匂いがした。
「結城さん、あんまりだわ。トヨさんはね、ずっとこれを目標にリハビリを頑張ってきたの。自由を奪って、安全な箱に閉じ込めるのが後見人の仕事なの? あなたはトヨさんの『今』を殺して、『数字』だけを長生きさせようとしている!」
「自由にはコストがかかるんです、佐倉さん」 結城は眼鏡の奥の目を細めた。 「もし現地で倒れたら? 医療費だけで数千万飛ぶ可能性がある。そうなれば、帰国後の施設費用すら払えなくなる。私は『守銭奴』と呼ばれても構わない。彼女を路頭に迷わせないこと。それが私の、そしてこの国の制度が私に課した唯一の命令だ」
トヨは唇を噛み、震える手でパンフレットを握りしめた。 「先生……あんた、血が通ってないのかい」
その日から、結城への風当たりは一層激しくなった。佐倉の所属する包括支援センターだけでなく、トヨの親族からも「ケチな番人」「報酬泥棒」という匿名に近い罵詈雑言が事務所に届く。 「本人の金でハワイに行かせてやれ。どうせ余る金だろ」 「後見人が自分の保身のために老婆の夢を潰している」
だが、結城は頑なだった。事務的に、淡々と、トヨのハワイ旅行に反対する意見書を家庭裁判所に提出し続けた。
一週間後。結城はトヨが暮らす介護付有料老人ホームの個室を訪れた。 部屋にはトヨがお気に入りだというハワイアンキルトが飾られ、ココナッツのような甘い香料の匂いが鼻をついた。
「また説教に来たのかい、死神先生」 トヨはベッドに座り、背を向けたまま言った。
結城は鞄から、一通の古い調査報告書を取り出した。それはトヨの後見人に就任した際、彼が独自に調べ上げた、トヨの亡き夫に関する記録だった。
「川島さん。あなたがハワイに行きたい本当の理由は、夕日を見るためではないですね」
トヨの背中が、微かに強張った。
「あなたの夫、正一さんは三十年前、ハワイでの仕事中に現地で別の女性と家庭を築き、そのまま行方をくらました。あなたは『死別のための新婚旅行の思い出』と周囲に説明していますが、実際には、彼はあなたを捨てた。ハワイは、あなたにとって最も残酷な裏切りの場所だ」
結城の声には、いつもの冷徹さとは違う、どこか湿った響きがあった。
「あなたが今、多額の金を投じてハワイに行こうとしているのは、思い出に浸るためじゃない。あの日、自分を捨てた男の墓を探し出し、そこで『私はこれだけのお金を持って、優雅に暮らしている。あなたの勝ちじゃない』と、復讐を完了させるためだ。違いますか?」
部屋を支配していたココナッツの香りが、急に息苦しく感じられた。トヨはゆっくりと振り返った。その瞳には、老いとは無縁の、鋭く、どす黒い情念が宿っていた。
「……さすがね。そこまで調べたの」 トヨの声が低く笑う。 「そうよ。あいつに会いたいのよ。死ぬ前に、あいつの墓にツバを吐きかけて、私は勝ったんだって、高笑いしてやりたいのよ。そのためなら、三百万なんて安いもんじゃない」
「いいえ、高くつきます」 結城は一歩、彼女に近づいた。 「あなたが復讐のためにその金を使えば、あなたの心は永遠に三十年前のあの日に縛られたまま終わる。私は、後見人としてあなたの財産を守るが、同時にあなたの『尊厳』も守らなければならない。あなたが自分の人生の最期を、自分を捨てた男への憎しみに捧げることを、私は許可しない」
「あんたに何がわかる! 私の三十年の孤独が、この数字の並んだ通帳一枚で語れると思ってんのか!」 トヨが叫び、机の上の花瓶をなぎ倒した。水が床にこぼれ、冬の寒さに冷やされていく。
「わかりますよ」 結城は濡れた床に膝をつき、割れた破片を拾い始めた。 「私も、同じだった。私を捨てた親を恨み、その復讐のために司法書士になった。見返してやる、金を持って、地位を得て、お前たちがいなくても私は完璧だと証明してやる。……でも、そんな動機で手に入れた金は、一円も美味しくなかった」
結城は、自分の手のひらに刺さった小さな破片を見つめた。 「川島さん。三百万使って憎しみを買いに行くのはやめてください。その三百万は、あなたがこれから出会う、あなたを捨てなかった人たちのために取っておいてください。例えば、あなたのために本気で怒ってくれる、あの佐倉さんのような人のために」
トヨは絶句した。怒りに震えていた肩が、ゆっくりと落ちていく。
「……変な人ね。あんた。守銭奴のくせに、そんなこと考えてたの」
「ええ、私は守銭奴ですから。一円の無駄も、一円の価値もない復讐も、絶対に許さない」
結城は立ち上がり、スーツの膝についた汚れを払った。 「ハワイ旅行は中止です。代わりに、国内の温泉宿を予約しました。佐倉さんを誘って行ってください。費用はハワイの十分の一。リスクも最小。裁判所の許可も取りやすい。……これが、私の出す最終回答です」
数日後。包括支援センターの佐倉ほのかが事務所に乗り込んできた。 「結城さん! トヨさんから聞いたわよ! 国内旅行に変更したって。あんなに頑固だったのに、どうやって説得したの? ……まさか、何か脅したんじゃないでしょうね?」
結城はデスクに向かったまま、キーボードを叩く手を止めなかった。 「ただの算定ミスを修正しただけです。ハワイより、温泉の方がコストパフォーマンスが良かった。それだけのことだ」
「嘘ばっかり。……でも、トヨさん、なんだかスッキリした顔してたわ。『もう、あんな男のことはどうでもよくなった』って」
佐倉は不思議そうに結城を見つめ、それから小さく笑った。 「あなたって、本当に損な性格ね。周りからあんなに叩かれても、一言も言い訳しないんだから」
「言い訳は報酬になりませんから」
結城は冷たく突き放したが、佐倉が部屋を出た後、彼はそっとペンを置いた。 トヨの財産は、ハワイに行かなかったことで1,000万円のラインを大きく上回ったまま維持された。結城の基本報酬も、ランクダウンを免れた。
「……これでいい」
彼は一人、呟いた。 守ったのは、財産か。それとも、老いた女性の心の静寂か。 判決を下すのは、家庭裁判所ではない。 結城は再び眼鏡を押し上げ、次の「管理対象」のファイルを開いた。 彼の指先には、あの時刺さった破片の跡が、小さな赤い点となって残っていた。
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