第4話:不動産売却という「特別ミッション」

真夏の陽光が、古い日本家屋の瓦を焼き、逃げ場のない熱気が縁側に澱んでいた。 司法書士・結城蓮は、ネクタイを緩めることなく、廊下の突き当たりにある仏間に座っていた。木材が乾燥して軋む音、そして庭の蝉時雨が、耳の奥を突き刺すように騒がしい。


「……いいんですか、本当に。売っちゃって」


隣で、家主の山中老人(85歳)が、震える指で畳の縁をなぞっていた。 山中の視線は、柱に刻まれた古い傷跡に注がれている。それは、かつて彼が息子たちの背丈を測った記憶の集積だ。


「山中さん。あなたの預金残高は、介護施設の月額費用を考えると、あと三ヶ月で底をつきます。ここを更地にして売却すれば、約3,000万円の手元資金が確保できる。そうすれば、あなたは最期まであの施設で、清潔なシーツと適切な医療を受けて暮らせるんです」


結城の声は、今日も機械のように正確だった。 不動産売却。これは後見業務において「特別の行為」に該当する。家庭裁判所に居住用不動産処分の許可を申し立て、複雑な契約実務をこなす。その「付加報酬」として、基本報酬とは別に数十万円が加算される可能性がある。


結城の頭の中には、すでに報酬算定のシミュレーションが浮かんでいた。 (基本報酬6ヶ月分に加え、処分行為による特別加算……。この一件で、事務所の今期の利益は安定する)


「先生は、合理的だねぇ」 山中が、力なく笑った。その笑みからは、古い家のカビた匂いと、老い特有の枯れた匂いがした。 「でもね、この柱。長男が小学校に上がった時に、私が付けた傷なんだ。この庭の柿の木は、家内が嫁いできた時に植えたものでね……。ここがなくなったら、私はどこに帰ればいいんだろうね」


「帰る場所は、施設です。そこが今の、あなたの『家』だ」 結城は突き放すように言った。 情に流されれば、本人の生活が破綻する。それが結城の正義だ。だが、山中が震える手で柱に触れた瞬間、木の表面から剥がれ落ちた微かな木の粉が、結城の掌に落ちた。その乾いた感触が、なぜか結城の心臓をチリリと焼いた。


「結城さん! 不動産業者が来ましたよ!」 玄関から、社会福祉士の佐倉ほのかが声を張り上げた。彼女は、この「思い出の解体」に猛反対していた一人だ。


「結城さん、見て。山中さんの顔を。これ、本当に『本人の利益』なの? お金を残すために、心を殺すことがあなたの仕事?」 佐倉の瞳は、怒りで潤んでいた。 「付加報酬が欲しいだけでしょ。不動産を動かせば、あなたの懐が潤う。だからそんなに急いでるんでしょ!」


「……そうだとしたら、何か問題がありますか」 結城は立ち上がり、書類鞄を強く握りしめた。 「私はプロだ。ボランティアじゃない。困難な業務には相応の対価を求める。そして、私の報酬が増えることと、山中さんの命を金銭的に保証することは、この制度において完璧に両立している」


庭に出ると、測量士が容赦なく杭を打ち込んでいた。ガチ、ガチという音が、山中の人生を削り取る音に聞こえる。 結城は、不動産業者との打ち合わせを始めた。坪単価、抵当権の抹消、測量図の確認。言葉は淀みなく出るが、視線の端に、縁側で項垂れる山中の姿が映り込む。


「先生、最後に……一つだけいいかな」 山中が、ふらつく足取りで結城に近づいてきた。その手には、色褪せた鍵束が握られていた。 「蔵の裏にある小さな物置に、家内の形見の古いミシンがあるんだ。重くて運べないから、あきらめてたんだけど……。あれだけは、捨てないでもらえるかな」


結城は、手元の「売却物件目録」に目を落とした。 『建物内残置物は、売主負担にて全て撤去・廃棄とする』。契約書にはそう記してある。ミシン一台を残すことは、解体業者への指示を複雑にし、手間を増やす。


「……検討します」 事務的に答えた結城の背中に、山中が「頼むよ、先生」と呟いた。その声は、蝉時雨に溶けてしまいそうなほど、細く、儚かった。


その日の夜。結城は一人、事務所で報酬付与申立てのドラフトを作成していた。 「不動産売却に伴う困難業務加算」。その文字を入力するたび、昼間見た山中の、柱をなぞる指先がフラッシュバックする。


自分の報酬が増える。 それは、山中が一番大切にしていたものを、自分が金に換えたという証拠だ。 後見人として、正しい。 だが、一人の人間として、この報酬は「血の味がする」のではないか。


結城は突然、椅子を蹴って立ち上がった。 深夜の街を走り、再び山中の家へと向かった。 鍵を開け、真っ暗な家の中に入る。埃の匂いが充満し、静寂が耳に痛い。 懐中電灯を照らし、蔵の裏の物置を探す。 あった。黒い鋳物で作られた、時代遅れの足踏みミシン。 結城はスーツが汚れるのも構わず、それを抱え上げた。驚くほど重い。金属の冷たさが腕に食い込み、錆の匂いが鼻を突く。


「……クソっ、重すぎる」


汗だくになりながら、結城はミシンを自分の車のトランクに押し込んだ。 これは事務作業ではない。報酬には一円も反映されない、ただの「無駄な動き」だ。


翌朝。施設を訪れた結城は、山中の部屋にそのミシンを運び込んだ。 山中は目を見開き、震える手でミシンに触れた。 「あぁ……これだ。これだよ、先生。ありがとう、ありがとう……」


山中の目から、涙が溢れ、ミシンの黒いボディに落ちて弾けた。 その様子を見ていた佐倉ほのかが、呆れたように、でも少しだけ優しく笑った。 「結城さん。それ、付加報酬の対象外ですよ? 運搬費も出ないのに」


「……わかっています。計算ミスです」 結城は、汚れを拭うようにハンカチで手を拭いた。 「後見人が私情で動くのは、プロ失格だ。今回の件は、家裁に報告もしない。ただの……私のエゴです」


結城は、施設を後にした。 車の中で、彼は一通のメールを不動産業者に送った。 『更地引き渡しの条件に変更なし。ただし、庭の柿の木は、可能であれば移植先を探したい。費用は私の報酬から差し引いても構わない』


ハンドルを握る結城の手は、昨夜のミシンの重みで少しだけ痺れていた。 不動産を売れば、通帳の数字は増え、彼の報酬も決まる。 だが、あのミシンに触れた山中の涙だけは、どこの裁判所も査定できない。


「……高くつく、ミッションだな」


結城は自嘲気味に呟き、アクセルを踏んだ。 バックミラーに映る山中の家は、遠ざかるほどに小さくなり、夏の陽炎の中に消えていった。 守ったのは、財産か。それとも。 答えの出ない問いを抱えたまま、番人は今日も、数字の並ぶ冷たい世界へと戻っていく。


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