第3話:親族後見人の悲劇 ―無償の愛の限界―
薄暗いアパートの一室。湿ったカビの匂いと、微かに漂う尿臭が混じり合い、肺の奥にへばりつく。 田中健太は、使い古された電卓のキーを叩いていた。カチ、カチと虚しく響く音。
「健太、お腹が空いたよ……」
隣の部屋から、母・シズエの掠れた声が聞こえる。健太は返事をする代わりに、奥歯を強く噛み締めた。 母の認知症が進行し、介護のために会社を辞めてから二年。健太は「親族後見人」として、母のわずかな年金と預貯金を管理してきた。だが、母の財産を守ることは、健太自身の首を絞めることと同義だった。
「お母さん、ちょっと待ってて」
健太は台所に立ち、安売りの食パンに薄くマーガリンを塗った。自分の分はない。 後見人として母の通帳を預かっているが、そこから自分の食費を出すことは「横領」になる。司法書士の結城から、耳にタコができるほど叩き込まれた鉄のルールだ。
その結城が、今日は定期報告の確認にやってくる。
ドアベルが鳴り、結城蓮が部屋に入ってきた。相変わらず、隙のないスーツ姿。清潔な石鹸の香りが、この部屋の淀んだ空気を一瞬だけ切り裂いた。
「田中さん。家庭裁判所への報酬付与の申立て、書類は作成してあります」
結城はテーブルに書類を広げた。健太は、すがるような目でそれを見つめる。 「結城先生……。私、もう限界なんです。貯金も底をついて、自分の国民健康保険料も払えない。後見人として、母の財産から少しでも報酬をいただければ、なんとか……」
「わかっています。あなたは二年間、無報酬で実務をこなしてきた。身上保護も、財産管理も完璧です。裁判所も、その貢献は認めるでしょう」
結城の言葉に、健太の瞳に希望の光が宿った。 結城のような専門家なら、月2万から3万。自分もそれくらいもらえれば、コンビニの弁当を一つ買う余裕ができる。人間らしい生活が取り戻せる。
一ヶ月後。家庭裁判所から一通の審判書が届いた。 健太は震える手で封筒を破り、その数字を凝視した。
「……月額、一万円」
健太の口から、乾いた笑いが漏れた。 「一万円? 毎日、深夜に徘徊する母を追いかけて、失禁したシーツを洗って、一円単位で家計簿をつけて……。私の二年間は、月に一万円の価値しかないっていうのか?」
ちょうどその時、結城が状況確認に訪れた。健太は審判書を結城の顔に突きつけた。
「先生! これは何かの間違いでしょう? 専門家のあんたたちは座って書類を書くだけで三万、五万と持っていくのに、泥にまみれて介護してる俺には一万? 家族だからって、足元を見てるのか!」
結城は審判書を淡々と受け取り、眼鏡のブリッジを押し上げた。 「……これが、現実です」
「現実だと?」
「家庭裁判所の運用では、親族後見人の報酬は専門家よりも低く算定される傾向にあります。理由は『家族としての扶養義務』が前提にあるからだ。つまり、家族が家族を支えるのは当然の義務であり、報酬はその『ついで』に発生するものだという考え方です」
「ふざけるな!」 健太は椅子を蹴り飛ばした。 「義務ってなんだ? 会社を辞めて、人生を投げ打って、自分の腹を空かせてまで守るのが義務か? 世間は『優しい息子さんね』なんて無責任に言う。けど、その『優しさ』の対価が、一日あたり330円かよ! コンビニのサンドイッチすら買えやしない!」
部屋の隅で、シズエが怯えたようにこちらを見ている。 結城は、騒ぎ立てる健太を冷徹な目で見据えたまま、声を低めた。
「田中さん。あなたの怒りは正しい。だが、この制度を作ったのは私ではない。そして、報酬を決定したのも私ではない。裁判所は『財産の流出を最小限に抑えること』を優先した。もしあなたに月三万円払えば、お母様の財産はあと五年で枯渇する。そうなれば、お母様は路頭に迷う。それを防ぐための『一万円』です」
「じゃあ、俺はどうなるんだよ……」 健太は床に崩れ落ち、顔を覆った。指の間から、熱い涙が溢れ出す。 「俺は……俺の人生は、どこにあるんだ……」
結城は、泣き崩れる健太の肩に手を置くことはしなかった。 ただ、鞄から一冊のパンフレットを取り出し、テーブルに置いた。
「『成年後見制度利用支援事業』の申請書です。財産が乏しい場合、自治体から報酬の助成が出る可能性があります。それと……」
結城は言葉を切り、まつの時と同じように、無機質な声を絞り出した。
「お母様を施設に入れる検討をしましょう。今のままでは、あなたが共倒れになる。それは、後見人としての『適切な判断』ではありません。家族としての情を捨てて、数字で判断してください」
「……情を捨てろ、か」 健太は掠れた声で笑った。 「先生。あんたはいいよな。仕事が終われば、綺麗な家に帰って、温かい飯が食える。俺の報酬の三倍も四倍も、母の金から受け取ってさ」
「ええ。私はプロですから」 結城は表情を変えずに言い放った。 「恨んでもらって構いません。ですが、あなたが今日までお母様を守り抜いた事実は、その一万円という数字以上に、この通帳の残高に刻まれています。それは、私のような他人が逆立ちしても真似できない、残酷なまでに尊い『無償の愛』の残骸です」
結城は部屋を出ていった。 廊下を歩く結城の耳に、部屋の中から健太の慟哭が聞こえてくる。
外は、冷たい雨が降り始めていた。 結城は傘を差さず、雨に打たれながら歩いた。 専門家の報酬が「責任」の重さなら、親族の報酬は「絶望」の深さだ。 どちらも同じ「後見人」という名を背負いながら、その間には決して埋まることのない断絶がある。
「一万円……」
結城は、雨水に濡れた自分の手をじっと見つめた。 この手は、他人の財産を守るために、他人の家族の愛を切り裂き、数字に変換し続けている。 冷酷な番人の胸に、一滴の苦い液体が滴り落ちた。
雨音にかき消されそうな小さな声で、彼は呟いた。 「……その一万円で、今日は、お母さんに一番安い苺でも買ってあげてください」
それは、法の番人が許した、精一杯の、そして唯一の「無駄遣い」への許可だった。
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