第2話:5,000万円の「お宝」と親族の欲

重厚なマホガニーのデスクの上で、一通の診断書と残高証明書が、夕刻の陽光に照らされて鈍く光っている。


「5,800万……。ようやく、本当の意味で『プロ』の仕事ができる」


司法書士・結城蓮は、自らの事務所で独りごちた。報酬は月額6万円。1,000万円以下の案件とは、責任の重みも、裁判所に提出する報告書の密度も桁が違う。結城はこの「最高ランク」の案件を、まるで高難度のチェス盤を眺めるかのように見つめていた。


翌日、結城が訪れたのは、都内の一等地に建つ古びた洋館だった。主(あるじ)の名は桐生大三。重度の認知症を患い、現在は介護施設で眠るような日々を送っている。庭には手入れの行き届かなくなった薔薇が枯れ、カビと埃の混じった古い家の匂いが鼻をつく。


「おい、あんたが新しい後見人か」


居間のソファに踏んぞり返っていたのは、長男の慎一郎だった。高級そうなスーツを着ているが、袖口は擦り切れ、その目はぎらぎらとした渇きを湛えている。隣には、派手な毛皮を羽織った妹の恵美。室内には、彼女が撒き散らしたきつい香水の匂いが充満し、結城の喉を刺激した。


「司法書士の結城です。これより、お父様の財産管理を――」


「挨拶はいい。それよりさ」 慎一郎が結城の言葉を遮り、身を乗り出した。 「親父の口座から、とりあえず300万下ろしてくれないか。今すぐだ。事業の資金繰りが厳しくてね。どうせ親父はもう金なんか使わないんだ。死ぬのを待つより、今使った方が有効活用だろう?」


「お兄様だけずるい。私だって、子供の留学費用で物入りなのよ」 恵美が、真っ赤な口紅を吊り上げて同調する。 「先生、あなたもプロならわかるでしょう? 5,000万もあるのよ。少し分けたところで、父の生活に支障なんてないわ」


結城は無表情のまま、持参したタブレットにペンを走らせた。電子音だけが、殺伐とした部屋に響く。 「却下です」


「はぁ?」 慎一郎の声が裏返った。


「後見人の職務は、本人の財産を本人の利益のために守ることです。親族への贈与や貸付は、裁判所の許可が下りる可能性は限りなくゼロに近い。あなたの事業も、お子さんの留学も、お父様には何の関係もありません」


「関係ないだと! 俺たちは血がつながってるんだぞ!」 慎一郎がテーブルを叩いた。並べられたアンティークのティーカップが、高く不快な音を立てて震える。


「血のつながりは、通帳の数字を動かす免罪符にはなりません。それより、お二人」 結城は、冷徹な視線を二人へ向けた。 「この家の維持費、固定資産税、お父様の入院費……。今後発生する膨大な事務作業に対し、私は私の報酬を裁判所に請求します。財産が多いということは、それだけリスク管理のコストがかかるということです。不服があるなら、家庭裁判所に直接抗議を」


「この守銭奴が! 結局、あんたも自分の報酬が欲しいだけだろう!」 慎一郎が立ち上がり、結城の胸ぐらを掴みかけた。 結城は動じない。至近距離で浴びせられるアルコール混じりの息と、剥き出しの敵意。彼はそれを「想定内のノイズ」として処理した。


「その通りです。私は月6万円の報酬に見合う仕事をします。例えば、慎一郎さん。あなたが勝手にお父様のカードで引き出した先月の20万円、あれは『不当利得』として返還を請求します。返さなければ、横領として刑事告発も辞さない」


慎一郎の顔が、瞬時に土気色に変わった。 「……なんで、それを」


「私は『番人』ですから。数字の動きには敏感なんです」 結城は冷たく言い放ち、慎一郎の手を振り払った。


その場にへたり込む兄妹を無視して、結城は二階へ上がった。 大三の寝室。そこには、本人が認知症になるまで大事にしていた「お宝」――数々の美術品や骨董品が並んでいた。 一つ一つに資産価値がある。しかし、それは同時に、管理、鑑定、売却、そして盗難防止のためのセキュリティ費用が発生することを意味していた。


窓を開けると、埃が光の粒となって舞った。 かつてはこの家にも、家族の笑い声があったのだろう。だが今、5,800万円という数字は、家族をハイエナに変え、結城という冷徹な「門番」を呼び寄せる呪文となってしまった。


「……重いな」


結城は、革の手袋をはめた手で、棚に置かれた古い家族写真に触れた。 財産が1,000万円以下の佐藤まつの時は、孤独という痛みが刺さった。 だが、この5,000万円超の現場では、人間の欲という汚泥が足元にまとわりつく。


事務作業は山積みだ。骨董品の目録作成、親族への不当利得返還請求、不動産の修繕計画……。これら全てを完遂して初めて、裁判所は「付加報酬」を認めるかもしれない。 「月6万円」という額は、この泥沼に片足を突っ込み、罵声を浴び続け、家族の崩壊を特等席で眺めるための「精神的苦痛への対価」のようにも思えた。


階下から、また恵美の金切り声が聞こえてくる。 「いいじゃない! 旅行くらい行かせてよ! 父の金なんだから!」


結城は深く溜息をつき、手帳に記した。 『――親族による財産侵害の恐れ大。本日よりすべての印鑑・通帳を金庫へ。親族との接触は原則、私を通すこと』


帰り際、玄関で慎一郎が憎々しげに吐き捨てた。 「お前みたいな冷血人間に、いつか天罰が下るからな」


結城は足を止めず、背中で答えた。 「天罰なら、もう受けていますよ。これほど美しい夕焼けを見ても、私の頭には『本人の幸福度』ではなく、『相続税のシミュレーション』しか浮かばないんですから」


車のエンジンをかけ、結城は冷房を最大にした。 車内に残った恵美の香水の匂いを、一刻も早く消したかった。 ハンドルを握る指先には、まだ慎一郎に掴まれた時の微かな痺れが残っている。


「5,800万……」


結城は呟き、アクセルを踏んだ。 その数字がゼロになるまで、あるいは本人の命が尽きるまで、彼はこの泥沼の番人を続ける。 例え、誰からも愛されず、誰からも感謝されないとしても。 それが、一円単位の正義を掲げる「プロ」の、あまりに孤独な報酬の正体だった。


夜の闇が洋館を飲み込んでいく。 街灯に照らされた結城の横顔は、やはり、一枚の冷たい硬貨のように無機質だった。


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