第1話:1,000万円の壁とショートケーキ

夕暮れ時、西日が差し込む地域包括支援センターの相談室は、埃っぽさと熱気に満ちていた。


「この500円のショートケーキ。これ、本当に必要ですか?」


結城蓮の声は、冷房の効きすぎた室内よりも低く、鋭く響いた。手元には一冊の家計簿と、佐藤まつの預金通帳。プラスチックのカバーが擦れて白濁したその通帳を、結城はまるで解剖を待つ検体のように見つめている。


「結城さん、あんまりですよ。佐藤さんにとって、週に一度のこのケーキがどれだけ支えになっているか……。甘い香りを嗅いで、一口食べた時のあの嬉しそうな顔を見たことがありますか?」


対面に座る社会福祉士の佐倉ほのかが、テーブルを叩かんばかりに身を乗り出す。彼女の額には怒りの汗が滲み、微かに石鹸の香りが揺れた。


結城は視線を上げない。無機質な黒縁眼鏡の奥で、数字の列だけを追っている。 「感情論は、家計を助けません。佐藤さんの現在の流動資産は、1,012万4,300円。わかりますか? 崖っぷちなんですよ」


「崖っぷち? 1,000万円もあるじゃない!」


「『ある』んじゃない、『しかない』んです」 結城は、通帳を佐倉の目の前に突きつけた。そこには、年金の振込額を上回るペースで刻まれる引き出しの記録。介護保険の自己負担、医療費、そして週一度のデパ地下のケーキ。


「あと12万円減ってみなさい。家庭裁判所の運用基準に則れば、私の基本報酬は月額3万円から2万円に下がります」


佐倉が絶句し、軽蔑の眼差しを向けた。 「……結局、自分の給料の話ですか。最低。佐藤さんの幸せより、自分の1万円が惜しいんですか」


結城は鼻で笑った。その笑みには、自嘲とも諦念ともとれる苦い色が混じっている。 「私の報酬が下がるということは、それだけ本人の管理財産が『低水準』に陥ったという公的な証左です。1,000万円を切れば、生活の余白は消える。不測の事態……例えば施設の入居一時金が必要になった時、あるいは病状が悪化して特別なケアが必要になった時、このケーキの苺一粒分の余裕さえ、彼女には残されていないことになる。私が守るべきは彼女の『笑顔』じゃない。彼女の『生存』だ」


部屋の隅で、当の本人である佐藤まつが、縮こまるように座っていた。 彼女の指先は、記憶の欠片を探るように膝の上の布を何度もなぞっている。鼻腔をくすぐるのは、先ほど佐倉が持ってきた紅茶のわずかな渋みと、窓の外から流れてくる排気ガスの匂い。まつにとって、1,000万という数字は宇宙の広さと同じくらい掴みどころがなく、ただ「ケーキを買ってはいけない」という結城の言葉だけが、重く冷たい鉛のように胸に沈んでいた。


「先生……」 まつが、消え入るような声を出した。 「私、悪いことしてるのかね。自分のお金で、甘いものを食べて。死ぬ時に、お金をたくさん残してても、お腹が空いてたら悲しいじゃない……」


結城の指が、一瞬だけ止まった。 まつの声は震えていた。それは、かつて結城が幼少期に聞いた、生活苦で泣き崩れる母親の声に似ていた。胃の奥が焼けるような感覚。空腹と、将来への言いようのない恐怖。結城はその感覚を、鉄のような論理で押し殺した。


「佐藤さん、これは『悪いこと』ではありません。ただの『計算』です。あなたの寿命を100歳と仮定した場合、このペースでの資産減少は緩やかな自殺に等しい。ケーキを食べたいなら、他の何かを削ってください。昼食の惣菜を一品減らすか、あるいはデイサービスを週一回分カットするか。どちらにしますか?」


「そんなの、あんまりだわ!」 佐倉が叫ぶ。 「デイサービスを減らしたら、佐藤さんの認知機能はもっと進んでしまう。あなたは、この人をただの『数字が詰まった箱』だと思ってるの?」


「箱で結構。中身を空っぽにして死なせるわけにはいかない」 結城は立ち上がり、鞄から「報酬付与申立て」の書類を取り出した。 「今回の私の報酬は3万円で申し立てます。これは佐藤さんの財産から、裁判所の決定を経て引き落とされる。つまり、今この瞬間も、私の存在そのものが彼女のケーキを何十個分も食いつぶしているわけだ。その自覚はあります。だからこそ、私は一円の無駄も許さない」


結城はまつの前に歩み寄り、視線を合わせることなく告げた。 「佐藤さん。来週の訪問時、家計簿にケーキの記載があれば、私は後見人として厳しい措置をとります。これは脅しではなく、管理です」


結城が部屋を出ていくと、静寂が戻った。 後には、冷え切った紅茶と、震える老婆、そして憤りに震えるソーシャルワーカーが残された。


廊下を歩く結城の耳に、背後から佐倉の「血も涙もない守銭奴!」という罵声が届く。 結城は足を止めず、硬い革靴の音を響かせながらエレベーターに乗り込んだ。 鏡張りのエレベーターの中で、自分の顔を見る。 冷徹な番人の顔。 彼はポケットから、自分用に買ったコンビニの安い板チョコを取り出した。銀紙を剥ぐ指が、微かに震えている。


一口、口に含む。 甘みなど感じなかった。ただ、奥歯で砕けるカカオの苦味だけが、自分の選んだ道の味として喉を通り過ぎていった。


「あと12万円……」


彼は誰に言うでもなく呟いた。 まつの通帳残高が999万9,999円になった瞬間、自分の報酬はランクダウンする。 それは「プロの敗北」であり、同時に、一人の老人が貧困へと一歩足を踏み入れたという警笛なのだ。


窓の外では、街の灯りがキラキラと宝石のように輝き始めていた。 その光の一つ一つが、誰かの報酬で、誰かの贅沢で、そして誰かの守るべき「数字」に見えた。


結城蓮は、次の訪問先の資料を開く。 今度は、財産5,000万円超。基本報酬6万円の「難敵」だ。 彼は眼鏡を押し上げ、再び数字の迷宮へと潜り込んでいった。


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