06


 夜襲が去った朝は、静かだった。


 静か――という言葉は、この断崖の前線に似合わない。クウォーターにあるのはいつだって風の唸りと金属の軋みで、耳を澄ませるまでもなく世界は騒がしい。だからこの「静か」は、音が減ったのではなく、音の意味が変わっただけだった。


 火は落ち、煙は薄れた。

 だが焦げた匂いと血の匂いだけが、鉄骨の隙間にしつこく残っている。


 夜の間中作業灯が照らしていた梁が、一本ずつ暗くなる。光が消えるたび影が増える。それは休息の合図ではなく、目を使わない工程に移っただけである。


 ヨルは崖沿いの通路を歩きながら、足元の板がわずかに沈む感触を確かめる。濡れているが、水ではない。血と灰と、消火に使った泥が混じった粘り。踏み外せば落ちる。滑れば、落ちれば、簡単に死んでしまう。昨夜と同じ単純さで、朝が続いている。


 誰も「おはよう」と言わない。

 言葉は、目的があるときにだけ使う。


「支柱が割れてる。仮でいい…添え木とかあるか」


 ヨルが言うと、近くにいた男が頷き、工具と木材を抱えて走った。走る、というほど優雅なものではなく、板と板の継ぎ目を踏み外さないように跳ねるに近い。足元を見て下は見ない。


 竜の墓場――居住棟の中心に穿たれた、わざと大きく開けた捕獲棟。そこは昨夜の名残で、鉄骨が歪み、罠の鎖が絡まり、ウインチの歯車が欠け、滑車が片側だけ回っていた。床板の一部は焼け落ち、露出した梁が黒く煤けている。


 だがここの人間は、嘆く前に手を動かす。

 悲鳴は夜に置いてきたのだ。


 目の端には、しゃがみ込んで作業をするヒオの姿が映った。

 顔色は悪く、眠っていない目だと分かる。腕が震えているのに、口は固く結んでいる。

 彼は壊れた落とし床の縁で、外れた金具を戻そうとしている。指先が血で濡れていた。自分の血か、昨夜の誰かの血か、そんな区別に意味はない。


「指切るぞ」


 ヨルが言うと、ヒオは一瞬だけ顔を上げた。


「……分かってる」


 声が乾いている。彼は金具を握り直す。指先の皮膚が裂けても、手は止めない。止まった瞬間に、昨夜が襲いかかるのを知っているからだ。


 作業場にはユーカもいる。

 だが、必要以上に視線を振らない。昨夜人が死んだ場所も、燃えた床も、そこにあったものにも目を向けない。ただロープを撚り直す。絡まった索をほどき、摩耗した部分を切り、結び目を作り直す。結び目の位置が数センチずれるだけで、次に引いた時に人が飛ぶ。それを知っている手つきだった。


 オルダの声が遠くから飛ぶ。


「天鎖の補修! 落ちるぞ、落ちたら終わりだぞ!」


 脅しではなく事実だった。

 オルダは現場の様子を眺めるだけで、決して近寄らない。何もしないと揶揄されることには慣れているが、それもここでは普通になっている。


「あいつ……何もしねぇくせに」


 誰かが隠れて呟いた。


「ヤズ!!! さっさと運べ」


 公にはしないコンプレックスが、怒鳴り声となって飛ぶ。怒鳴れば、自分が働いている気になれる。


「イシュリア、そっちはどうだ」


「こっちはもう終わるぞ」


 イシュリアは仕事が早い。焼けた罠の支柱を指で叩き、音で中の割れを判断し、切り落として新しい添えを当てる。手際がよく、慣れている手つきだった。


「ん?」


 コトが視線を向けていることに、イシュリアが気付く。

 黒髪を雑に束ね、胸元が開けている。

 声がよく通り、男勝りで頼れる女性という印象が強い。


「大丈夫か? 新人」


 ニコッと笑った。

 強く、けれど包み込むような優しい顔だった。


「……コト」


「ん……あぁ、コトっていうのか。イシュリアだ」


 差し出された手に嫌悪感はなかった。

 だが、その手をじっと見たまま、コトは握り返す事はない。

 本能がそれを拒んでいたのだ。


「何かあれば遠慮なく言いな」


 イシュリアは微笑んでから、そっと手を引いた。

 コトは、他人に触れるのが苦手だった。だが、この時ばかりは素直に、"いい人"なのだと思った。


 コトは後方作業のはずだったが、夜襲の後の朝に「後方」という言葉は消える。


「コト、それこっち持って来い」


 ヨルが指示すると、コトは小さく頷き、板束を抱えた。軽くはない。だが、抱えられる重さだ。抱えられるなら、抱えるしかない。


 ――それで終わりなら、まだ良かった。


 午前の作業が一段落した頃、A班の男が現れた。A担当の一人だ。誘導と目潰しを担う、竜に最も近づく役目。彼の袖は焦げ、指の関節が腫れている。目の下には影が濃い。彼はヨルに短く言った。


「回収しよう」


 それだけで、何を指すか分かった。


 自然に人が集まった。

 誰も声を上げない。そこにある沈黙は、哀悼ではなく、工程のための静けさだった。


 昨夜、落とし床の縁で死んだ者がいる。

 コトの目の前で潰れた男――リーツ。骨が折れ、胸が裂け、首の角度が人間のままではない。夜の間に布が掛けられていた。布は血を吸い、黒く重くなっている。


 A班の男が布の端を持ち上げた。

 ヨルともう二人が板を差し入れる。担架はなく、板と布と鎖で十分だ。十分、という言葉も、ここでは曖昧だ。足りないものを数える暇がないだけである。


 ゆっくり持ち上げる。

 布越しに死体の重さが伝わる。肉と骨の重さ。昨夜まで動いていた人間の、ただの重量。


 コトは目を逸らさず、息を止めていた。

 直進する事に抵抗はないが、この時は少し意味が違った。

 自分もいずれはこうなってしまう。ならば、どうすれば生き延びられるのか。自身の深くに刻みつけるためであった。


 ヨルたちがリーツの遺体を運ぶ。

 通路は狭く、板がすれ、鎖が擦れて乾いた音がする。血が滴るが、誰もわざわざ拭かない。そのうちこの床も張り替えられる。


 向かう先は、竜の墓場の奥――匂い槽のある区画だった。


 匂い槽とは、竜を呼ぶための装置。血、脂、焼けた肉、煙、そして人間の匂い。それらを混ぜ、溜め、風向きに合わせて放つ。竜にとっては餌の予兆で、人間にとっては死の呼び鈴。


 必要な時以外は開けない。

 まず、匂いや汚染が酷い。扱いを間違えば、感染症のリスクもある。

 そして何より、壊れた罠が直っていない。落とし床も半端で、天鎖も仮止めしか出来ていない。竜を呼ぶのは得策ではない。


 だから匂い槽は沈黙している。

 沈黙しているが、空っぽではない。


 扉が開かれる。

 中は暗い。灯りは最小限だ。匂いが漏れれば、無駄に竜の鼻を刺激する。A班の男が先に入り、保管架の鎖を外した。


 そこには、既に“候補”がいくつか吊るされていた。古い布に包まれ、形を失いかけたもの。新しい布に包まれ、まだ人間の輪郭を残すもの。誰のものかは分からない。分かっていても、ここでは同じだ。


 コトの顔が強張る。

 喉が動く。唾を飲み込んだのだろうが、飲み込めていないように見えた。


「……これ」


 彼女の声が、かすれた。


「弔いとか……」


 思わず、そんな言葉がでた。

 問いは軽く落ち、一瞬作業の手が止まった。

 誰かが笑うことも、怒ることもない。


「そんなの、ここにはねぇよ」


 一人の少年が答えた。


 弔い。

 その言葉は、この断崖では浮いている。水平を信用しない梁みたいに、どこにも固定されない。


 A班の男が短く言った。


「タイミングが来たら、使うだけだな」


 コトが目を見開く。

 "使う"。酷く機械的で、口馴染みのある言葉とは意味が異なる。


 ヨルがようやく口を開いた。


「弔いじゃない」


 切り捨てるように言い切る。

 だが、言葉はただの事実だった。


「明日を生きるためだ」


 それだけ。


 コトは飲み込む。

 言いたいこと、感じたこと、その全てを。

 何故なら、その言葉より強い言葉が、この場所には存在しないからだ。


 ヨルは、リーツの布を一度だけ引き直した。

 乱れた端を揃え、鎖の位置を調整し、揺れが少なくなるように吊るす。

 向きが揃う。輪郭が暗闇に溶ける。


 それは敬意でも哀悼でもない。

 ただ、目の前の死を工程の中へ押し込む手つき。


 扉が閉まる。

 金属が噛み合う音がして、匂い槽区画は再び沈黙した。


 外へ出ると、冷たい風が頬を打った。血と煤の匂いが風に乗って、どこかへ散っていく。だからといって消える訳でもない。鉄に染みたものは鉄が朽ちるまで残るのだ。


 コトはしばらく動けずにいた。

 その横をユーカが通り過ぎる。だが、ユーカは見なかった。匂い槽の扉も、そこに吊られたものも。何も気にせず、ロープを抱えるだけして戻っていく。

 だが、彼女の表情が少しだけ曇っていたのが分かった。その姿がコトには、ここにいる誰よりも人間らしく映った。


 直後、ヒオが遅れてやって来る。彼は匂い槽の扉を一瞥し、視線を落とした。何か言いたげだが、言わない。言えば、昨夜が喉から溢れるのを知っている。


 オルダが遠くでまた怒鳴った。


「手ぇ止めんな! 直せ! 直したら寝ろ!」


 直したら寝ろ。

 寝たら、また起きろ。

 起きたら、また直せ。


 それがここでの循環だ。


 クウォーターでの死は、クウォーターでの生のために継ぎ足される。

 明日を生きるために命は循環する。


 それは希望ではない。救いでもない。

 ただの仕組みだ。

 仕組みの中で、生きるものが生き、死ぬものが死ぬ。


 ヨルは竜の墓場の中心を遠くから見た。

 昨夜、あの空間に竜の巨躯があった。鱗が梁に擦れ、火花が散り、吐息が煙になった。人間は矮小で、罠は脆く、叫びは薄かった。


 今、そこには何もない。

 何もないのに、何も終わっていない。


 作業灯が一つ点いた。

 誰かが、また補修を始めたのだ。


 ヨルは煙草を取り出した。崖際の植物で作られた粗悪な一本。口に咥え、火を点ける。火が小さく揺れて、風に煽られた。吸うと喉が痛む。痛いから効く。気休めに過ぎないと知っていても、気休めが必要な朝だった。


 吐いた煙が風に千切れて消えた。

 ヨルは煙草を短く噛み切り、踵を返した。

 次に直すべき梁が目の前にある。


_______


イシュリア


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