第9話 勝利の蜜月と、帝国の黄昏
2016年3月14日、深夜。
六本木ヒルズでの狂乱の発表会が終わり、メディアが成瀬の失態を「速報」として世界中に撒き散らしている頃、俺たちは藤堂舞が所有する西麻布の隠れ家、通称『エリュシオン』にいた。
看板も出していないそのヴィラの最上階は、今夜、7人の女神たちを貸し切りにするための「聖域」となっていた。
「……蓮ちゃん、本当にお疲れ様。六本木の男たちが、今頃みんなあんたの名前を呪いながら震えてるわよ」
舞がクリスタルグラスに、九条酒造の最高傑作を注ぐ。
丸みを帯びた大きな瞳が、勝利の余韻でトロリと潤んでいる。ペンシルスカートの裾をあえて崩し、しなやかな脚を俺に向けた彼女の姿は、都会の毒気と姉御肌の優しさが混ざり合った、抗いがたい色香を放っていた。
「お疲れ様、九条。……成瀬のキャリアはこれで終わりよ。電報堂も、明日の朝刊が出る頃には彼を『トカゲの尻尾』として切り捨てる準備を終えているはずだわ」
神崎麗子が、重厚な革張りのソファに深く腰掛けながら、サングラスを外した。
シャープで知的な骨格。スモーキーなアイメイクが月光に照らされ、彼女の「キャットアイ」をより一層神秘的に際立たせている。仕事モードを解いた彼女の、わずかに乱れたシャツの襟元から覗く白い鎖骨は、冷徹なジャーナリストとしての顔からは想像できないほど、扇情的な柔らかさを予感させた。
室内には、タイプは違えど世界最高峰の「美」が充満していた。
窓際に立つエルザ・ハフナーは、179センチの長身を惜しげもなく披露するタイトなスーツ姿で、リオ五輪に向けて動く世界の潮流をチェックしていた。驚異的なスタイルは、暗がりの室内でも圧倒的な存在感を放ち、そのアイスブルーの瞳は、成瀬のような「国内の敵」をすでに眼中に入れていない。
その隣で、星野結衣がヘッドホンを首にかけ、満足げに微笑んでいる。
陶器のような肌が、勝利のシャンパンのせいで、ほんのりと赤みを帯びている。その儚げな美しさは、先ほど会場を圧倒した「倍音」の歌声とは裏腹に、守ってやりたいと思わせる無防備な魅力を振りまいていた。
「蓮にい……私、まだ信じられないよ。あんなに広い会場で、皆が私たちの酒を『宝石』みたいに扱ってくれるなんて」
美月が、俺の隣に座り直した。
美貌が、ドレスの窮屈さから解放されたいのか、わずかに肩を窄めていた。
彼女の長い黒髪が、俺の腕に触れる。
作務衣を脱ぎ捨てた彼女は、もはや地方の杜氏ではない。世界中から羨望の眼差しを向けられる「ブランドの核」そのものだ。
「これからが本当の始まりだ、美月。……お前が今日見たのは、2016年という時代の氷山の一角に過ぎない」
俺は42歳の冷徹な魂で、2016年の世界を俯瞰していた。
成瀬を倒した。だが、あいつは広告業界という巨大なシステムの一部に過ぎない。
「如月さん。1本100万円の価格設定……市場の反応はどう見ている?」
俺が問いかけると、部屋の最奥でグラスの香りを愛でていた如月雫が、ゆっくりとこちらを向いた。
蒼い瞳。その瞳が、俺の深層心理を見透かすように細められる。
「……愚問ね、九条蓮。私が『アート』だと認めた瞬間に、価格は意味を成さなくなった。……今夜だけで、シンガポールとモナコのバイヤーから合計500本の先行予約が入っているわ。彼らにとって、この酒を所有することは、一つの『特権』を手に入れることと同じなのよ」
彼女が歩み寄る。黒いシルクドレスが、歩くたびに彼女の豊かな曲線美を強調し、その吸い込まれるような大きな瞳が俺の目の前まで迫る。
「でも、あなたはまだ満足していない。『成瀬』という駒を一つ消しただけでは……あなたの瞳に宿る、あの暗い炎は消えない。九条蓮、あなたは一体、この時代の『何』を壊そうとしているの?」
室内の空気が一瞬、張り詰めた。
一条亜理沙が、支配的な微笑みを浮かべて、長い脚を組み替えた。
「……業界そのもの、でしょう? 九条。電報堂が作り上げてきた、嘘と虚飾だけで構成された『ブランド構築の歴史』。それを、この蔵の酒という『本物の暴力』で上書きしようとしている。……違うかしら?」
俺は不敵に笑った。
2016年。これから日本には、数々のトレンドが押し寄せる。
「正解だ、一条。……これから世界は、スマートフォンという小さな窓の中に完全に収束する。キュレーションメディアが乱立し、フェイクニュースが真実を飲み込み、誰もがインフルエンサーという名の『承認の亡霊』に成り下がる時代だ」
俺は窓の外、眠らない東京の街を見下ろした。
「マスメディアが支配していた『旧帝国』は、あと数年で崩壊する。だが、その後に来るのは民主主義ではなく、アルゴリズムによる専制政治だ。……俺は、その『次なる帝国』の玉座を狙う。成瀬をハメたのはそのデモンストレーションに過ぎない」
俺の言葉に、7人の美女たちがそれぞれの表情で応えた。
驚き、感嘆、不敵な笑み、そして盲目的な信頼。
周囲で控える舞のスタッフたち(屈強な男たちや洗練されたサービスマンたち)は、一介のPRマンに過ぎなかったはずの俺が、世界に名を馳せる美女たちを従えて未来を断じる姿に、神話の中の英雄を見るような畏怖の念を抱いていた。
「2016年中に、九条酒造を基盤とした新たな『感性帝国』を築く。……美月にはさらに『技』を。結衣には『響き』を。雫には『審美眼』を。舞には『場』を。麗子には『正義』を。エルザには『世界への翼』を。……そして一条、あんたには『資本の指揮』を執ってもらう」
俺は、42歳までの絶望の記憶を、32歳の精悍な野心へと変換し、マニフェストを告げた。
「2016年の出来事はすべて予見できている。どのアプリが覇権を握り、どの政治家が失脚し、どの災害が社会を揺さぶるか。……そのすべてを『九条ブランド』の追い風に変えてやる」
美月が、俺の手をぎゅっと握りしめた。
その指先のタコは、今日、如月雫が「愛の匂い」と呼んだ、九条酒造の最後の良心だ。
「……蓮にい。あんたがどんなに怖いことを考えていても、私は酒を造るよ。……あんたが、どこか遠くに行かないように。私が一番美味しいお酒を造って、ここに繋ぎ止めておくから」
美月のその言葉は、どんな戦略よりも鋭く俺の胸を突いた。
42歳の孤独な復讐者の魂が、24歳の無垢な美貌によって、わずかに癒やされていくのを感じた。
深夜2時。
西麻布の夜風が、テラスに流れ込む。
7人の女神たちに囲まれ、俺は琥珀色の酒を飲み干した。
「……さあ、次のハックを始めようか。まずは、これから世界中を熱狂させる『モンスター』……ポケモンGOの熱狂を、俺たちが最初に利用してやる」
2016年の夏、日本中がスマートフォンを手に街へ繰り出す。その熱狂の渦の中心に、九条酒造の『聖域』を設置する。
人々が追い求めるのは仮想のモンスターではない。その先に用意された、五感のすべてをジャックする「本物の体験」だ。
「上等だわ。……あなたの船、どこまでも付き合ってあげる。……沈む時は一緒よ、蓮ちゃん」
舞が俺の耳元で囁き、柔らかく抱き寄せた。
東京の夜景が、俺の瞳の中で、従順な家来のように跪いて見えた。
九条蓮の逆襲。
それは成瀬への復讐という個人的な因縁を超え、2016年という「歴史」そのものを上書きし、新たな時代の神となるための、壮大なる聖戦へと昇華されたのだ。
明日、世界が目覚める頃。
「九条」という二文字は、単なる酒の名前ではなく、世界の新たな『認識』の代名詞となっているはずだ。
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