第10話 ARの熱狂と、真実の神隠し
2016年7月22日。
この日、日本の景色は一変した。
朝から街中の至る所で、人々がスマートフォンの画面を覗き込みながら、まるで何かに導かれるように彷徨い歩き始めた。老若男女を問わず、誰もが小さな液晶の中に現れる「架空のモンスター」を追い求め、公園、駅、神社へと押し寄せる。
『ポケモンGO』の日本リリース。
2026年から来た俺にとって、これは単なるゲームの流行ではない。
人類が初めて、デジタルという「認識」によって現実の物理空間を支配された、記念碑的な事件だ。そして、これこそが俺の「感性帝国」を全国へと拡大するための、最高の触媒となる。
「……蓮にい。本当に、みんなスマホばっかり見て歩いてる。ちょっと、不気味なくらいだね」
六本木ヒルズのスカイデッキ。
眼下に見下ろす毛利庭園は、すでにスマートフォンの青白い光を放つ人々で埋め尽くされていた。
隣に立つ美月が、困惑したように目を細める。
今日の彼女は、藤堂舞が用意した最高級の絞りの浴衣を纏っていた。
驚異的な股下の長さが、浴衣という伝統的な装いによって、かえって「奥ゆかしい色香」へと昇華されている。
帯で強調された細いウエスト。うなじで無造作にまとめられた黒髪から覗く、透き通るような白い肌。美月が少し首を傾げるたびに、近くにいた男性スタッフや通りすがりのVIPたちが、言葉を失って立ち尽くす。
浴衣から伸びる白く細い指先。その指がスマートフォンを持つだけで、それは最新の精密機器ではなく、神に捧げる祭具のようにさえ見えた。
「美月、不気味がる必要はない。彼らが求めているのは『ここではないどこか』だ。俺たちは、その出口を用意してやるだけだ」
俺は2016年のスマートフォンを操作し、一条亜理沙とエルザ・ハフナーに合図を送った。
九条酒造が仕掛けたポケモンGOハック。それは、ただのタイアップではない。
全国に点在する「倒産寸前の老舗蔵」や「伝統工芸の工房」を、ゲーム内の『ポケストップ』や『ジム』として公式に登録させ、さらにそこを『聖域』として定義し直すプロジェクトだ。
画面上のモンスターを捕まえた後、ふと顔を上げたプレイヤーたちの前に現れるのは、星野結衣がプロデュースした神秘的な音楽が流れる、冷涼で厳かな空間。
そして、そこでしか味わえない、如月雫が「伝説」と認定した1杯100万円の酒の「廉価版」の試飲体験。
仮想の熱狂を、実在の陶酔へと変換する。
「……九条。準備は整ったわ。一条グループの物流網を使って、全国30拠点の『聖域』に、九条酒造のプロトタイプを配備した。……今夜、日本中のSNSは『ポケモン』ではなく『九条』一色に染まるわ」
一条亜理沙が、真紅の浴衣を完璧に着こなして現れた。
意志の強い太い眉と、エキゾチックな美貌。彼女が扇子を広げる動作一つで、周囲の男たちは彼女に支配されることを望むような、倒錯した熱狂に包まれる。彼女の背後には、エルザ・ハフナーが、浴衣という文化を解釈し直したような、大胆なスリットの入った夏ドレスで控えていた。
179センチの長身で東京の夜景を背負う。その姿は、まるで世界を監視する女神のようだった。
「エルザ、海外メディアへのリークは?」
「完璧よ、レン。ニューヨーク・タイムズもBBCも、この『ARと伝統文化の融合』を、2016年最大の文化的転換点として報じる準備ができているわ。……エドワード・スターリングも、自分のSNSで『今、日本で最もクールな場所』として九条のポケストップをアップしたわ。今この瞬間、世界中から日本への航空券が検索され始めている」
エルザの報告に、俺は満足げに頷いた。
2016年。まだ世界は、SNSの本当の恐ろしさを知らない。
一つのハッシュタグが、国家の経済を動かし、歴史ある文化を一瞬で上書きしてしまう。そのスイッチを、俺はこの7人の女神たちと共に握っている。
午後8時。
六本木ヒルズの屋上特設会場『九条・ムーンライト・ガーデン』。
そこは、ポケモンGOを求めて集まった人々の中でも、特に影響力の強いインフルエンサーや著名人だけが招待された「聖域」の総本山だ。
会場に足を踏み入れた男たちは、一様に息を呑んだ。
中心に立つのは、神崎麗子。
瞳を湛えた彼女は、今夜はジャーナリストの鎧を脱ぎ、透け感のある白いドレスに身を包んでいた。彼女が持つタブレットには、成瀬失脚後の電報堂の株価チャートが表示されているが、彼女の関心はすでに別のところにある。
「九条蓮。……あなたの仕掛けたこの『情報の洪水』、もはや一雑誌のスクープで追えるレベルじゃないわね。……でも、私は書くわ。あなたがこの国を、どうやって『日本酒』という宗教で再構築しようとしているのかを」
麗子が、冷徹ながらもどこか艶のある視線を俺に向ける。彼女が俺に向かって歩くたびに、周囲の男たちは嫉妬と羨望の入り混じった溜息を漏らす。
ステージでは、星野結衣がキーボードに向かっていた。
妖精のような透明感。彼女が奏でる旋律は、ゲームの効果音を美しくサンプリングしながら、重厚な和楽器の音色と融合している。
その「響き」を聴いた人々は、自分がモンスターを捕まえに来たことすら忘れ、ただ九条の酒を喉に流し込む。
「……あのお酒。……1杯5000円もするのに、みんな行列を作って並んでる」
美月が信じられないといった様子で、行列を見つめる。
「価値を決めるのは、希少性ではない。そこに流れる『物語』の密度だ。美月、お前が冬の間、一睡もせずに温度管理をしたあのタンクの記憶。それを結衣の音が翻訳し、俺の言葉が拡散した。……これは、お前の執念が、数万人の欲望に勝利した瞬間なんだ」
「……私の執念……」
美月が、自分の白く細い手を見つめる。その手には、まだ消えない職人のタコがある。
如月雫が、蒼い瞳で、美月のその手をそっと取った。
「……素晴らしいわ。美月さん。……今、この会場に集まっている数千人の『認識』が、あなたを神にしている。……彼らはもう、ただの酒を飲んでいるんじゃない。……あなたの魂を、聖体拝領しているのよ」
雫の神秘的な言葉に、美月は頬を染めた。
雫のアイスブルーに近い蒼い瞳は、ARのモンスターではなく、美月の内側に宿る「本物の美」だけを射抜いている。
会場のあちこちで、男性たちが美月に握手を求めようとし、一条のセキュリティに阻まれている。彼女は今や、画面の中のどんなレアポケモンよりも遭遇困難で、そして価値のある「伝説」そのものだった。
「……蓮ちゃん。成瀬くんの残党が、このバズを『歩きスマホを助長する公害だ』って叩き始めてるわよ」
藤堂舞が、愛らしい瞳を細めながら、俺の背後に忍び寄った。
彼女の浴衣はあえて着崩され、動くたびに彼女の豊かな曲線美と、大人の余裕が溢れ出す。
「……ああ、予測通りだ。舞、用意していた『安全啓発キャンペーン』をリリースしろ。九条のポケストップでは、立ち止まって酒を味わう時間だけ、特別なアイテムがドロップするようにナイアンティックとは交渉済みだ。……俺たちは、混乱を作るんじゃない。混乱を『秩序』へとデザインし直しているんだ」
「……ふふ。本当、あんたは世界をハックするのが好きね。……でも、そんなところも、ゾクゾクするわ」
舞が俺の耳元で囁き、柔らかい胸の感触を俺の腕に押し当てる。
7人のヒロイン。それぞれが世界レベルの美貌と能力を持つ彼女たちが、俺という一つの「意志」のもとに結集している。
周囲で控える舞のスタッフたちや、招待されたエリート層の男たちは、7人の女神たちを従えて不敵に笑う俺の姿に、2016年の日本を裏から支配する「新しい王」の誕生を確信していた。
深夜。喧騒が去った六本木の街。
俺は美月と二人、静かになったテラスで、余った酒を酌み交わしていた。
「……蓮にい。私、怖いくらい幸せだよ。……借金も返せて、お父さんも笑ってて。……でも、なんだか、世界が全部蓮にいの思い通りに動いているのを見ると、少しだけ、あんたが遠い人に見えちゃう」
美月が、浴衣の袖をぎゅっと握りしめる。
「……遠くへは行かない。俺が戻ってきたのは、お前を連れて行くためなんだからな」
「……連れて行くって、どこに?」
「誰もが本物を愛せる、新しい帝国だ」
俺は、美月の頬をそっと撫でた。
2026年で、俺をハメた成瀬は失脚した。だが、あいつを産み落とした「虚飾の広告システム」はまだ生きている。あいつらは今、自分たちの既得権益を脅かす俺という異分子を排除するために、より巨大な罠を仕掛けようとしているはずだ。
だが、俺には見える。
これから起こる、トランプの当選、ビットコインの暴騰、SNSの分断。
その全てを、俺は事前に知っている。
俺は42歳の冷徹な記憶を武器に、2016年という「未開のフロンティア」を、九条の色に染め上げてやる。
「蓮にい……。あんたが笑うと、なんだか安心する。……でも、その目の奥に、まだ見たことのない暗い火が見えるよ」
「……それは、復讐の残り火だ。……もうすぐ、完全に消えるさ」
嘘だ。
俺の野心は、成瀬一人を潰して終わるような、安いものではない。
俺は、隣で安心したように目を閉じる美月の肩を抱き寄せた。
彼女の、その圧倒的な美しさが、夏の月光に照らされて、銀色に輝いている。
2016年の夏は、まだ始まったばかりだ。
ポケモンGOが起こした情報の嵐は、九条酒造という名の巨大な帆に、かつてないほどの風を送り込んでいた。
俺は、スマートフォンの画面を消した。
そこには、次なるターゲットである「世界的ファッション誌の編集長」からの、接触を求めるメールが届いていた。
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