第8話 処刑のヒルズ:理屈と狂気の境界線

 2016年3月14日、ホワイトデー。

 六本木ヒルズ森タワー52階、マド・ラウンジ。

 地上250メートル、東京の夜景を360度のパノラマで一望できるこの場所は、今夜、日本中の広告業界と政財界のVIPが集う「処刑場」と化していた。


 会場の入り口では、藤堂舞が完璧な笑みを浮かべて賓客を出迎えていた。

 大きな瞳と親しみやすい美貌。だが、彼女がペンシルスカートから覗かせるしなやかな脚のラインと、デコルテの美しい肌に魅了された男たちが鼻の下を伸ばしている間に、彼女はその鋭い観察眼で相手の懐具合と弱点を瞬時にリストアップしていた。


「蓮ちゃん、準備はいい? 成瀬くんの『電報堂』チーム、相当気合が入ってるわよ。会場のメディアの半分はあっちの息がかかった連中。下手に動けば、明日には『九条酒造、捏造バズの末路』なんて記事が踊ることになるわ」

「……問題ない、舞。盾は整っているんだろう?」

「もちろん。六本木の夜に、私の目が届かない死角なんてないわ。……さあ、最高の『夜』を始めましょうか」


 舞が俺のネクタイを整え、いたずらっぽくウインクする。その余裕に満ちた仕草に、周囲のスタッフたちは「あの女王を顎で使う男は何者だ」と戦慄していた。


 午後7時。新作発表会が幕を開けた。

 まず壇上に上がったのは、俺の元弟子であり、2026年で俺を葬り去った男――成瀬だった。


 32歳の俺に対して、成瀬はまだ20代後半。

 清潔感のある短髪に、ハイブランドの細身のスーツ。爽やかな笑顔は、一見すると「理想の後輩」そのものだ。だが、その瞳の奥には、自分以外の人間を「処理すべきデータ」としか見ていない、冷酷な獣の眼光が宿っていた。


「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます。僕が今日、皆様に提示するのは、伝統という名の不確定要素を排除した、日本酒の『完成形』です」


 成瀬が指を鳴らすと、巨大なスクリーンに複雑なグラフとデータが表示された。

 

「我々は、世界中の10万人の味覚データをAIで解析しました。どの酸度、どの糖度、どの香気成分が、現代人の脳に最も強い快感を与えるのか。その最適解をバイオテクノロジーで再現したのが、この『NEO-SAKE 1.0』です。そこには杜氏の勘も、職人の情熱も必要ありません。必要なのは、完璧な『理屈』だけです」


 会場からは、感嘆の声が漏れた。

 2016年。まだ「AIによる味覚デザイン」が珍しかったこの時代において、成瀬のプレゼンは圧倒的に先進的で、説得力に満ちていた。

 成瀬の傍らには、電報堂が用意した有名モデルたちが並び、会場の男たちの視線を釘付けにしている。成瀬は、それらの「美」すらも、自分の理論を補強するためのツールとして完璧に配置していた。


「……九条先輩。これが僕の出した『真実』です。あなたのやっている『情緒的な演出』なんて、このデータの奔流の前では無意味だと思いませんか?」


 成瀬が壇上から俺を見下ろし、不敵に笑う。

 メディアのカメラが一斉に俺に向いた。絶体絶命。誰もが、九条蓮の敗北を予感した。


 だが、俺は暗闇の中で静かに手を挙げた。

 

「……理屈か。成瀬、お前の酒には『狂気』が足りないな」


 その言葉を合図に、会場の照明が落ちた。

 代わって響き渡ったのは、星野結衣がこの夜のために書き下ろした、魂を震わせる「音」だった。


 結衣が、ステージの中央、一筋のスポットライトを浴びて立ち尽くしていた。

 陶器のような白い肌に、透き通るような大きな瞳。彼女がマイクに声を乗せた瞬間、52階の空間そのものが、九条酒造の冷たい蔵の中へと変貌した。

 微生物の息吹、雪解け水のせせらぎ、そして職人の執念。

 言葉を超えた「響き」が、成瀬が作り上げたデータの要塞を、内側から激しく揺さぶる。


「……何よ、この音。鳥肌が止まらない……」


 会場の招待客たちが、食事の手を止め、結衣の歌声に陶酔する。男たちは、その儚くも力強い妖精のような美貌に、一瞬で心を奪われていた。


 そして。

 

「『理屈』が真実を決めるのではない。『認識』が世界を作るのよ。成瀬くん」


 凛とした声と共に、6人のヒロインたちが会場へと足を踏み入れた。

 

 先頭を歩くのは、白石美月。

 美貌を、深いスリットの入ったドレスで強調し、歩くたびにその驚異的な長い脚が露わになる。彼女が通るだけで、成瀬のモデルたちが一瞬で霞んで見えた。野生の純粋さが、人工的な美を圧倒したのだ。


 右には、一条亜理沙。支配的な美しさが、会場の空気を物理的に圧し潰す。

 左には、エルザ・ハフナー。世界基準のスタイルが、ここが東京ではなく世界の中心であることを宣言する。

 背後には、神崎麗子。鋭い瞳が、成瀬の提示したデータの「偽り」を逃さず捉えている。


 そして最後に、如月雫が現れた。

 蒼い瞳。彼女が姿を見せた瞬間、会場の全てのソムリエや評論家たちが、反射的に椅子から立ち上がった。絶対的な権威の登場。


 7人の、タイプの異なる圧倒的な美女たちが一堂に会したその光景は、もはや一つの「宗教画」だった。

 会場の男性客は、その美の暴風雨にさらされ、呼吸をすることすら忘れている。カメラマンたちは、成瀬のことなど忘れ、狂ったようにシャッターを切り続けた。


「……何だ、これは。何なんだ、この女たちは!」


 成瀬が、初めて狼狽した表情を見せた。


「成瀬、お前の酒は『平均値』だ。だが、俺たちの酒は『極値』なんだよ」


 俺は美月に合図を送る。

 美月が、1本100万円の『九条錦・雫取り』を、如月雫の前に差し出した。

 雫は、その蒼い瞳で液体を見つめ、ゆっくりと口に含んだ。


「……ああ。……成瀬さん、あなたの酒は『正解』かもしれないわね。でも、このお酒は『救済』だわ」


 雫の瞳に、涙が浮かんだ。

 その一筋の涙が、成瀬の膨大なデータを一瞬で無価値にした。

 

「データでは説明できない、400年の時間。そして、九条蓮という男が未来から持ち帰った……いいえ、彼が全てを賭けて守り抜こうとした、一人の女性の誇り。それがこの味になっている。……これは酒ではない。一つの人生そのものよ」


 雫の言葉に、神崎麗子が続く。

 

「成瀬くん。あなたが提供したデータのソース、私のチームで洗わせてもらったわ。……一部の数値を、自分の理論に都合よく書き換えていたわね? 『PRは嘘をつくが事実は嘘をつかない』。あなたの嘘、明日の朝刊で全国に届けてあげるわ」


 成瀬の顔から、一気に血の気が引いた。

 

「……バカな。そんなはずはない! 僕の理論は完璧だ! 僕はあんなゴミ溜めの蔵に負けるはずが……!」


 成瀬が叫んだ瞬間、会場の大型ビジョンが切り替わった。

 藤堂舞が用意した「最終兵器」。

 そこには、成瀬が裏で画策していた、他社のレシピ盗用や、強引な買収工作の証拠映像が、舞の「ネットワーク」によって白日の下に晒されていた。


「蓮ちゃん、言ったでしょ。六本木の夜に、私の目が届かない場所はないって」


 舞が、絶望に震える成瀬を見つめ、冷ややかに笑った。


 会場中から、成瀬に対する冷蔑の視線が注がれる。

 かつて俺をハメた時と同じ「認識の逆転」が、今、成瀬の身に降りかかっていた。

 

「……成瀬。お前が俺に教わったのは、小手先のテクニックだけだったようだな。本当のPRとは、相手を騙すことじゃない。……世界が、どうしても愛さずにはいられない『物語』を提示することだ」


 俺は、震える成瀬の肩に手を置いた。

 2026年の、あの雪の夜の復讐。

 10年の時を越えて、俺はついにあいつの心臓に、認識という名の杭を打ち込んだ。


「……あ、ああ……っ」


 成瀬はその場に膝を突き、崩れ落ちた。

 電報堂のエースとして輝いていた男の姿は、そこにはなかった。ただ、自分の虚飾に押し潰された、哀れな敗北者がいるだけだった。


 発表会が終わった後の、52階のテラス。

 俺は一人で、東京の夜景を眺めていた。

 

「蓮にい……終わったんだね」

 

 ドレス姿の美月が、横に並んだ。

 彼女の白い肩が、夜風に震えている。俺は自分のジャケットを脱ぎ、彼女を包み込んだ。

 

「ああ。……九条酒造の再建はこれで確実だ。明日からは、世界中から注文が殺到するだろうな」

「……ねえ、蓮にい。さっきのソムリエの人が言ってたこと、本当? ……このお酒に、蓮にいの人生が詰まってるって」


 美月の蒼い瞳……いや、彼女の真っ直ぐな瞳が、俺の嘘を、そして秘密を暴こうとしている。

 

「……さてな。俺はただの、強欲なPRマンだよ」

「……嘘つき。でも、その嘘で、私は救われたよ。……ありがとう、蓮にい」


 美月が、俺の腕に頭を預ける。

 彼女の、その圧倒的な美しさが、月光に照らされて神々しいほどに輝いていた。


 一条亜理沙が、エルザが、結衣が、麗子が、雫が、そして舞が。

 それぞれの場所から、俺たちを見つめている。

 7人の女神たちを従え、俺は2016年の世界を、ついに完全にハックした。

 

 だが、俺は知っている。

 成瀬を倒したことは、まだ始まりに過ぎない。

 

 この「認識」が支配する歪んだ世界を、本当の意味で変革するためには、さらなる巨大な敵――広告業界そのものを飲み込む「怪物」にならなければならないことを。


「……さあ、行こうか、美月。俺たちの夜は、まだ始まったばかりだ」


 俺は不敵に笑い、彼女の手を引いた。

 42歳の復讐者の魂は、32歳の精悍な肉体の中で、かつてないほどに力強く、そして黒く燃え上がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る