第7話 蒼い瞳の審判と、聖域の誕生

 2016年2月20日。

 東京、西麻布。看板すらない隠れ家的な会員制バー『ル・サンク』。

 そこは、一晩のワイン代で地方の家が建つと言われる、日本で最も「資本と特権」が濃縮された場所だ。


 一条亜理沙が用意したこの場所で、九条酒造の新作発表会に向けた「最終選別」が行われようとしていた。

 

「……騒がしいわね。東京の夜は」

 

 窓の外を見下ろしながら、白石美月が呟く。

 今日の彼女は、エルザ・ハフナーが用意したネイビーブルーのカクテルドレスに身を包んでいた。膝上20センチから伸びる真っ直ぐな長い脚は、磨き抜かれた大理石のように白く輝いている。

 

 普段の作務衣姿とはあまりにかけ離れたその姿に、店内に控える男性スタッフたちは、仕事中であることも忘れて釘付けになっていた。彼女が動くたびに、ドレスの裾から覗く曲線美に、場違いなほどの「生命力」と「色気」が溢れ出す。


「慣れろ、美月。お前が立っているのは、もう泥の上の蔵じゃない。世界の頂点だ」


 俺は2016年のスマートフォンを置き、目の前に並ぶ6つの試作ボトルを眺めた。

 

 一条亜理沙の資本、エルザ・ハフナーの戦略、星野結衣のサウンド、神崎麗子の証明。

 盤石に見えるこの陣容に、最後に必要なのは、この「酒」を「芸術」にまで引き上げる『権威』だった。


「……遅いわね。私を待たせるなんて、エドワード・スターリングでもしないことよ」

 

 エルザが苛立ちを隠さず、自慢の長い脚を組み替える。その隣では、亜理沙が冷徹な笑みを浮かべて、エキゾチックな眉をわずかに動かした。


「彼女を呼ぶのに、どれだけの資産を動かしたと思っているの? 如月雫。……彼女の『蒼い瞳』に認められなければ、九条酒造の物語は、ただの『上手な宣伝(PR)』で終わるわ」


 その時だった。

 重厚なオーク材のドアが、音もなく開いた。


 空気が、一瞬で凍り付いたような錯覚を覚えた。

 現れたのは、一人の女性。


 信じられないほどの透明感を持った肌。

 そして何より、一度見たら呪いのように忘れられない、深く、澄み切った蒼い瞳。

 

 如月雫。29歳。

 世界で最も影響力のあるマスターソムリエであり、その絶対味覚によって数々のヴィンテージの運命を決めてきた「女王」。


 彼女が纏っているのは、身体のラインを完璧にトレースした漆黒のシルクドレスだ。深く開いたデコルテには、卑俗さを一切感じさせない高貴なオーラが漂い、豊かな黒髪が波打つように彼女の肩を流れている。

 彼女が歩くたびに、その圧倒的なビジュアルに圧倒され、周囲の男たちは本能的に道を開け、そして跪きたくなるような衝動に駆られた。


「……待たせたかしら。面白そうな『嘘』が東京にあると聞いて、予定を早めたの」


 雫の声は、深海を流れる水流のように冷たく、それでいて心地よい余韻を持っていた。

 彼女の蒼い瞳が、室内をゆっくりとスキャンする。美月を、亜理沙を、エルザを、そして、最後に俺を。


 彼女と目が合った瞬間、俺は背筋に雷を打たれたような衝撃を感じた。

 42歳までの経験、2026年の絶望、タイムリープという秘密。

 その全てが、彼女の瞳の奥で解析され、暴かれようとしている。そんな恐怖を感じさせるほどの、圧倒的な「真理への力」がその双眸には宿っていた。


「あなたが、九条蓮ね。……あなたの周りには、不思議な『色』が漂っているわ。日本には、まだ存在しないはずの……未来の、錆びついた鉄のような絶望の色彩」


 俺は一瞬、呼吸を忘れた。

 彼女はソムリエとしての味覚だけでなく、対象の「本質」を視覚化する共感覚の持ち主だ。


「……何のことかわかりませんね。如月さん、まずは僕たちの『嘘』が本物かどうか、確かめていただけますか?」

「ええ、そのつもりよ。……でないと、わざわざこのドレスを選んだ意味がないもの」


 雫は、男性なら誰しもが吸い寄せられるような優雅な足取りで、カウンター席に座った。

 彼女の隣に座った美月が、その迫力に圧倒され、わずかに身体を縮める。

 

「……美月さん。あなたの造った酒、期待しているわ。あなたの手には、純粋な『愛』の匂いがするから」

「……はい。精一杯、醸しました」


 美月が、震える手で『九条錦・雫取り・純米大吟醸』を注ぐ。

 

 2016年の世界ではまだ誰も挑戦していない、超低温長期発酵。2026年の最新醸造理論を、俺が美月に伝授し、彼女が超人的な努力で形にした「未来の酒」だ。

 

 雫は、グラスを鼻に近づけようとはしなかった。

 ただ、その蒼い瞳で、液体をじっと見つめる。


「……綺麗ね。この酒の中には、10年後の星空が閉じ込められている」


 彼女はゆっくりと、液体を唇に含んだ。

 静寂が場を支配する。

 亜理沙は値踏みするように、エルザは固唾を呑んで、麗子はメモを取る手すら止めて、その瞬間を見守る。


 雫の瞳が、わずかに揺れた。

 

「……っ、ああ。……これは、毒ね。九条蓮」


 彼女が唇を離すと、その蒼い瞳は熱を帯び、潤んでいた。

 白い肌が、内側からの多幸感によって微かに桃色に染まっていく。そのあまりにも扇情的な変化に、周囲のスタッフや野次馬たちは、ゴクリと唾を呑んだ。


「毒とは、穏やかではありませんね」

「一度味わってしまえば、他の全ての酒が、ただの水の劣化コピーに感じられてしまう。……この味は、あなたが『設計』したのね? 300年続く伝統の技を借りて、10年後の市場を焼き尽くすための、冷徹なシナリオとして」


 雫はグラスを置き、俺の胸元を、その細い指先でなぞった。

 彼女の指先から伝わる熱量は、これまでのヒロインたちの誰よりも高く、そして危険だった。


「この酒には、意志がある。……『自分を殺した奴らを、一人残らず絶望させる』という、暗い復讐の意志が。……九条蓮。あなたは、何者? 少なくとも、ただのPRプランナーではないわ」


 俺は彼女の指先を優しく握り、蒼い瞳を見つめ返した。

 

「何者でもありません。ただ、九条酒造を世界の頂点へ連れて行くだけの男です」

「ふふ。……いいわ。あなたのその『嘘』に、私が最高権威の証明を打ってあげる。……この酒を、明日から1本、100万円で売りなさい。私が『アート』として認定する」


 1本、100万円。

 2016年の日本酒市場においては、正気の沙汰ではない価格設定だ。

 だが、如月雫が「アート」と呼べば、それは単なる酒ではなく、投資対象へと変わる。


「……勝負あったわね、九条」


 亜理沙が満足げに立ち上がった。


「これでお膳立ては完璧よ。……明日の新作発表会、成瀬くんが用意している『新時代の酒』とやらを、正面から踏み潰してあげましょう」


 その時、俺のスマートフォンが振動した。

 成瀬からの、新しいメッセージだ。


『九条さん。素晴らしいニュースを聞きました。如月雫まで手に入れたそうですね。……でも、先輩。ブランドは、高みに登れば登るほど、足元が崩れた時の衝撃は大きい。明日の会場、六本木ヒルズの52階で待っています。……僕の造り上げた「真実」が、あなたの「演出」をどう切り裂くか、特等席で見せてあげますよ』


 2016年の成瀬。

 あいつは、自分が作り上げた「データに基づく完璧な酒」で、俺たちの「情緒と伝統の酒」を論理的に破壊するつもりなのだ。


「蓮にい……私たち、勝てるよね?」


 美月が不安げに俺の腕を掴む。

 俺は美月の腰を抱き寄せ、その美しい肢体を自分の方へ引き寄せた。

 

「勝つんじゃない。消し去るんだ。あいつの信じる『合理性』という名の小さな世界を、俺たちの『狂気』でな」


 美月の野生的な美しさ。亜理沙の資本。エルザの戦略。結衣の響き。麗子の証明。そして雫の神格化。

 6人のヒロイン、6つの鍵が、ついに一つの扉の前に揃った。


 2026年で俺を殺した成瀬。

 お前が明日見るのは、新作発表会ではない。

 九条蓮という男が、10年の時を越えて執行する、完璧な処刑式だ。

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