第6話 アイス・クイーンの眼差しと、真実の重み

 2016年2月13日。

 ハリウッドスターの来訪から数日が経過しても、九条酒造を巡る熱狂は収まるどころか、より複雑な色を帯びて膨れ上がっていた。


 Instagramで拡散された美月の写真は、今や世界中のキュレーションサイトに転載され、『東洋の奇跡』『最も美しい職人』といった煽情的なタイトルが踊っている。だが、光が強ければ影もまた濃くなるのがこの業界の常だ。

 急激すぎる成功は、常に「仕込み」や「ヤラセ」の疑念を呼ぶ。ネットの掲示板やSNSの隅では、九条酒造の再興を「電通や博報堂が仕掛けた、金に物を言わせた虚飾」だと断じる声も出始めていた。


「……PRスタント。それも、極めて質の悪い」


 九条酒造の門を潜った一人の女性が、吐き捨てるように呟いた。

 門前にたむろしていた中堅メディアの記者たちが、彼女の姿を認めた瞬間、波が引くように道を開けた。その場にいた誰もが、彼女が誰であるかを知っていたからだ。


 神崎麗子。32歳。

 ライフスタイル誌『ELEGANCE』の副編集長であり、数々の企業不祥事を暴いてきた調査ジャーナリストでもある彼女は、業界で「アイス・クイーン」と恐れられていた。


 そのビジュアルは、彫刻のようにシャープな顎のラインと、知性の塊のような完璧な骨格を誇っている。

 特に、全てを見透かすような鋭い「キャットアイ」は、嘘をつこうとする者の喉元を射抜くような威圧感があった。

 ダークブラウンの長い髪を風になびかせ、仕立ての良い漆黒のテーラードジャケットを着こなして歩く姿は、周囲の男性記者たちに「美しさへの感嘆」と「プロとしての恐怖」を同時に抱かせる。彼女が通り過ぎるだけで、野次馬たちの雑談がピタリと止む。彼女の纏う空気は、それほどまでに冷徹で、一点の曇りもなかった。


「神崎さん、お疲れ様です。……やはり、あなたも来ましたか」


 事務所の入り口で、俺は彼女を待ち構えていた。

 東京の大手代理店時代、彼女とは何度も火花を散らしてきた。俺が「認識」で流行を作ろうとするたびに、彼女は「事実」という鈍器を持ってそれを叩き潰しに来る。そんな関係だった。


「久しぶりね、九条蓮。……都落ちして、実家の古臭い酒蔵で詐欺師の真似事? 相変わらず、安っぽい演劇が得意なこと」


 麗子は俺の目の前で足を止め、サングラスを外した。

 スモーキーなアイメイクに縁取られた瞳が、俺の全身をスキャンするように走る。かつての俺なら、この視線にわずかな苛立ちを覚えただろう。だが、今の俺は2026年の地獄を知っている。彼女の厳しさが、ブランドを本物にするための「通過儀礼」であることを理解していた。


「詐欺師とは人聞きが悪い。俺はただ、価値のあるものを適切な場所に届けようとしているだけだ」

「ハリウッドスターを広告塔に使い、加工された美女の写真をバラ撒くのが『適切』? 笑わせないで。……その『美女』とやらに会わせなさい。彼女が単なるモデルなら、私はこの記事で、あなたの九条酒造を完膚なきまでに葬り去るわ。それが、情報を扱うプロとしての私の『認識』よ」


 麗子の言葉は刃のように鋭い。彼女を動かしているのは、消費される流行への憎悪と、埋もれた真実への執着だ。


「いいだろう。……美月、こちらへ」


 奥から、作業着姿の美月が姿を現した。

 今日の美月は、リブランディング用の撮影ではなく、純粋な仕込み作業の合間だった。額には薄っすらと汗が滲み、白い頬は蒸気の熱でわずかに上気している。


 24歳の美月と、32歳の麗子。

 野生的な輝きを放つ「動」の美しさと、理知的で冷徹な「静」の美しさ。

 二人の美女が対峙した瞬間、蔵の空気が物理的に震えたような錯覚を覚えた。周囲で見守っていた蔵人やメディアの男たちは、その対照的な美貌の激突に息を呑み、まばたきすることさえ忘れている。


「あなたが、白石美月さん? ……写真よりずっと、まともな顔をしているわね」


 麗子は美月の前に立ち、その手を無作法に掴んだ。

 美月は驚いて身を引こうとしたが、麗子の力強い指先に押し留められる。


「……手が、ボロボロね」


 麗子の声のトーンが、わずかに変わった。

 美月の指先には、冷たい水と麹によるひび割れ、および櫂を握り続けたことでできた固いタコがある。それは、どれだけ高価な化粧品や画像加工を使っても捏造できない、「職人の履歴書」だった。


「……これ、私の誇りなんです。汚い手で、すみません」


 美月が気まずそうに、だが真っ直ぐに麗子の瞳を見返して答える。


 麗子は黙ったまま美月の手を放し、次に蔵の奥――現在進行形で発酵が進んでいるタンクへと歩みを進めた。一条亜理沙のセキュリティですら、麗子の放つ「正義という名の暴力」を止めることはできなかった。


「九条。あなたがどれだけ言葉で飾ろうと、私はこの空気の音と、酒の匂いしか信じない」


 麗子はタンクの縁に寄り、深く息を吸い込んだ。

 そこには、星野結衣が「音」として捉えようとしている、微生物たちの微かな生命活動の息吹があった。


 10分、いや、永遠とも思える沈黙。

 麗子はノートを取り出し、何も書かずに閉じた。


「……九条蓮。一つだけ聞きなさい。あなたは、以前のあなたじゃないわね」


 不意に投げかけられた言葉に、俺の背筋に冷たいものが走った。

 麗子の「キャットアイ」が、俺の瞳の奥、2026年から持ち越した「魂の疲弊」を覗き込もうとしている。


「どういう意味だ」

「以前のあなたは、もっと……薄っぺらな野心で動いていた。でも、今のあなたの目には、もっと深い、暗い……そう、何かを既に失った後のような絶望が見える。今のあなたなら、嘘を吐く必要なんてないはずよ」


 アイス・クイーンの直感。

 彼女は、俺がタイムリープしたことなど想像だにしていないだろう。だが、ジャーナリストとしての本能が、俺という存在の「違和感」を正確に捉えていた。


「人は変わるものだ。……神崎、お前が見た事実はどうだった?」

「……認めざるを得ないわね。この蔵は本物よ。そして、あなたの演出は、その本物を壊さないギリギリの境界線で踊っている。……今回のバズは、私の方で『真実性の検証』という形で記事にするわ。ヤラセを疑っていた連中は、私の署名記事を見れば黙るでしょう」

「恩に着るよ。神崎」

「勘違いしないで。私は事実を書くだけよ。それに……あなたに貸しを作っておけば、いつか面白いネタを持ってきてくれそうだしね。たとえば……あなたの教え子の、成瀬くんとか」


 その名を聞いた瞬間、俺の心拍が跳ね上がった。


「あの子、あなたを本当に心配していたわよ。今回の九条酒造の騒動を見て、『先輩が何か危ない橋を渡っていないか調べてほしい』って、わざわざ私に頭を下げに来たんだから。あんなに謙虚で、先輩思いの優秀な後輩を持ったことを感謝しなさい」


 麗子が翻り、門へと向かう。

 その背中を追いかけるように、男性記者たちが一斉にシャッターを切った。彼女がこの記事を書くということは、九条酒造が正式に「ブランド」として社会に認められることを意味していた。


 だが、門を出る直前、麗子は一度だけ立ち止まり、俺にスマートフォンを投げ渡した。


「これ、成瀬くんからあなたへの伝言よ。私には『見ないでください』って恥ずかしそうに言っていたけれど」


 画面には、一通のプライベートなメッセージが表示されていた。


『九条さんへ。さすがです。神崎さんという「最強の盾」まで手に入れるとは。僕がSNSで煽った甲斐がありましたね。おかげで九条酒造の注目度はピークです。……でも、九条さん。あなたは知っていますよね? 盾が強ければ強いほど、それが砕けた時の絶望は深い。来月の新作発表会……僕がプロデュースする『新時代の酒』と、直接対決といきましょう。先輩が大切に守ったものが、僕の理論の前に膝を突く瞬間を、心から楽しみにしています』


 成瀬。2026年で俺を殺した男。

 あいつは、2016年の今この瞬間も、完璧に「慕ってくれる後輩」の皮を被りながら、神崎麗子のような正義感の強い人間を自在に操り、俺を逃げ場のない「公の舞台」へと引き摺り出そうとしていた。

 SNSでの煽りも、神崎への接触も、すべては俺を完璧に、公衆の面前で「殺す」ためのプロットに過ぎないのだ。


「蓮にい……あの人、怖かったけど……私の手を見て、少しだけ笑ってくれた気がする。あの人のおかげで、私たちのことを信じてくれる人が増えるんだよね?」


 美月が横に来て、安心したように息を吐いた。

 その無垢な瞳を見ていると、胸が締め付けられる。成瀬は、この純粋な誇りすらも、俺を絶望させるための「材料」として見ている。


「ああ。……だが美月。本当の地獄はこれからだ」


 俺は美月の細い肩を引き寄せ、まだ見ぬ敵が待つ東京の空を見上げた。


 一条亜理沙の資本、エルザ・ハフナーの海外戦略、星野結衣の感性、そして神崎麗子の証明。

 五人のヒロインが、それぞれの意志で九条蓮という男を囲い始めている。

 そして、その包囲網の外側で、成瀬という獣が、俺が最も信じる「ブランドの真実性」を根底から覆すための罠を仕掛けている。


「上等だ、成瀬。お前が『直接対決』を望むなら、見せてやるよ。42年分の呪いと、2016年の未来が、どうお前の傲慢を粉砕するかをな」


 九条蓮の復讐劇は、一地方の酒蔵の再建を超え、2016年の日本経済、および広告業界という巨大な闇をハックするための狂想曲へと加速していく。

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