第5話 妖精の歌声と、琥珀色のマリアージュ

 ハリウッドの至宝、エドワード・スターリングが去った後の九条酒造は、もはや一地方の酒蔵ではなかった。

 一条亜理沙が送り込んだセキュリティチームによってメディアの侵入は防がれているものの、門の外には「奇跡の酒」を一目見ようとする人々が絶えない。その中には、都会からわざわざ車を飛ばしてきた裕福そうな男たちの姿も目立った。彼らの目的は酒もさることながら、SNSで爆発的に拡散された「世界一美しい杜氏」――白石美月をその目に焼き付けることだった。


「……蓮にい、なんだか外の視線が熱すぎて、蔵から出るのも怖いくらいだよ」


 美月が困ったように笑いながら、仕込みの合間に汗を拭う。

 今日の彼女は、作業用の薄いシャツの上からでもわかる、しなやかな身体のラインが眩しい。その驚異的な股下の長さと、モデル顔負けのスタイル。彼女がただ水を飲むだけの動作でさえ、門の外で見守る男たちは固唾を呑み、カメラのシャッターを切る機会を虎視眈々と狙っている。


「有名税だ。だが、お前がその『素材の暴力』で世界を魅了してくれたおかげで、九条酒造の認知度は当初の計画を300%上回っている」


 俺は2016年のスマートフォンに流れる膨大なデータを確認しながら答えた。

 だが、俺の視線はすでに次の段階へと向かっていた。


「美月。ビジュアルと味は揃った。だが、ブランドを完成させるには『音』が足りない」

「音……? お酒に音なんて関係あるの?」

「大ありだ。五感のすべてをジャックしなければ、本物のブランドとは呼べない」


 俺がこの日のために呼び寄せたのは、一人の女性だった。

 亜理沙の紹介……という形を取ったが、実際には俺が2026年の記憶から、彼女がこの時期にスランプで業界から姿を消しかけていることを突き止め、逆指名したのだ。


 蔵の離れ。かつて賓客を招くために使われていた古い座敷に、その少女はいた。


 星野結衣。26歳。

 陶器のように白い肌。吸い込まれるような大きな瞳には、深い孤独と、折れそうなほど繊細な知性が宿っている。

 オーバーサイズのグレーのフーディーを深く被り、首には大きなモニターヘッドホン。その姿は、周囲の現実から自分を切り離そうとしている妖精のように儚い。だが、彼女がひとたび口を開けば、その「倍音」を含む歌声は、聴く者の魂を震わせ、数万人の観客を陶酔させる魔力を持つ。


「……九条さん。私に何を求めているんですか? 私はもう、歌う理由も見失った、ただの抜け殻ですよ」


 結衣の声は、低く、しかし音楽的な響きを持って俺の鼓膜を揺らした。

 周囲で控えていた蔵の若い衆たちが、彼女のその「声」を聴いただけで、魔法にかけられたように動きを止める。美月の「動」の美しさに対し、結衣は「静」のカリスマ。その圧倒的な存在感に、男たちは本能的に平伏したくなるような感覚を抱いていた。


「君の抜け殻の中に残っている、本物の音だ。九条酒造の酒が、グラスの中で揺れる音。麹が生きている音。それを君に『可視化』してほしい」

「そんなの、言葉で言うのは簡単ですけど……」


 彼女は心を閉ざしたまま、視線を伏せた。

 だが、俺は知っている。彼女が求めているのは、安っぽい慰めではなく、自分の魂を呼び覚ますような「本物の衝撃」であることを。


「結衣さん。話の続きは、これを食べてからにしましょう」


 俺は蔵の厨房に立った。

 2026年、高級ホテルのPRを請け負っていた俺は、一流シェフたちの技術を間近で盗み見てきた。PRマンにとって、食事の席を支配することは、クライアントを支配することと同義だからだ。


 今日のメインは、駿河湾から直送された、2キロを超える最高級の金目鯛。

 鱗を丁寧に取り、霜降りにしたその身は、宝石のような鮮やかな朱色に輝いている。


「……蓮にい、自分でお料理するの?」


 美月が驚いたように覗き込む。


「PRの一環だ。結衣さんの感性を開くためのな」


 俺はプロ顔負けの手つきで包丁を動かす。

 金目鯛の煮付け。醤油、みりん、酒、そして多めの砂糖を合わせた煮汁を強火で沸騰させる。そこへ厚く切った生姜と共に金目鯛を投入し、クッキングシートで「落とし蓋」をする。

 煮汁を絶えず回しかけながら、身を崩さず、しかし芯まで味を染み込ませる。10分後、煮汁がとろりと輝く琥珀色のベールへと変わる。


 並行して、茶碗蒸しの準備も進める。

 出汁は、最高級の利尻昆布と枕崎産の鰹節から取った一番出汁。卵との比率は1対3。これを三度漉すことで、絹のように滑らかな舌触りを生み出す。

 具材には、下処理を完璧に施した海老、銀杏、ゆり根。そして、仕上げに三つ葉を添える。


「……すごい。お店の匂いより、ずっと美味しそう」


 美月の鼻が、甘辛い醤油の香りと、上品な出汁の香りにヒクヒクと動く。その無防備な顔もまた、見ていた蔵人たちの心を打ち抜くほどに愛らしい。


 食卓に並べられたのは、照り輝く金目鯛の煮付けと、琥珀色の銀餡がかけられた美しい茶碗蒸し。

 そして、俺が選んだ酒は――『九条錦・純米 原酒』。


「さあ、冷めないうちに」


 結衣は戸惑いながらも、箸を手に取った。

 まずは茶碗蒸し。スプーンを差し込むと、何の抵抗もなく滑り込んでいく。

 彼女がそれを口に含んだ瞬間、瞳が大きく見開かれた。


「……っ。なに、これ……。出汁の音が聞こえるみたい」

「滑らかだろう。一切のノイズを排除した結果だ。君の音楽と同じだよ」


 次に彼女は、金目鯛の身を解した。

 脂の乗った白い身に、濃厚な煮汁をたっぷり絡ませる。それを口に入れ、咀嚼し、そして――。


「九条さん。このお酒を」

「分かっている」


 俺は純米酒をグラスに注いだ。

 この酒は、昨日の大吟醸のような華やかさはない。だが、米の旨味が凝縮された骨太なボディが、金目鯛の濃厚な脂と甘辛いタレを真っ向から受け止める。

 酒が煮汁の濃さを洗い流し、その後に米の甘みが波のように押し寄せる。


「……信じられない。食べることと、飲むことが、一つの楽曲みたいに重なり合ってる」


 結衣の顔に、今日初めての血色が戻った。

 彼女の白い肌がわずかに桃色に染まり、スランプの影に隠れていた、生命力が溢れ出す。その美しさに、俺自身も一瞬、息を呑んだ。

 小柄な彼女が、幸せそうに頬を膨らませて食べる姿。それだけで、この古い離れは光に満たされたような錯覚を覚える。


「結衣さん。君に作ってほしいのは、この『調和』そのものだ。この酒が喉を通った瞬間に感じる、永遠のような一秒。それを音にしてほしい」


 結衣はグラスに残った黄金色の雫を見つめ、ゆっくりと頷いた。

 彼女の瞳には、もはや迷いはなかった。アーティストとしての「飢え」が、俺の料理と酒によって完全に目覚めていた。


「……やってみます。このお酒に負けないくらいの、最高のサウンド・アイデンティティを」


 夜。

 結衣を送り届けた後、俺は一人で、蔵の事務所に残っていた。

 窓の外では、雪が静かに降り始めている。


「……完璧なペアリングだったわね。九条蓮」


 暗闇から聞こえたのは、一条亜理沙の声だった。

 彼女はいつの間にか事務所のソファーに深く腰掛け、漆黒のドレスに身を包んで、俺の動作を監視していたらしい。

 彼女の、意志の強い太い眉と、エキゾチックな美貌が、月光に照らされて妖しく浮かび上がる。


「見ていたんですか」

「ええ。あなたの『餌付け』の技術をね。……結衣をあそこまで乗り気にさせるなんて。あなたはPRマンというより、女の扱いを知りすぎている詐欺師ね」


 彼女は立ち上がり、俺に歩み寄った。

 彼女から漂う高級なパフュームの香りが、俺の理性を試すように近づく。


「でも、覚悟しておきなさい。あなたが世界を動かそうとすればするほど、かつてあなたが業界で葬り去ってきた『亡霊』たちが目を覚ますわよ。東京でのあなたのやり方に、恨みを抱いている人間は星の数ほどいるんだから」


 彼女がスマートフォンの画面を俺に向けた。

 そこには、2026年で俺を陥れた男――成瀬が、自身のSNSで意味深な投稿をしている画像があった。


『最近、面白いニュースを耳にした。中央を捨てて野垂れ死んだと思っていた狐が、化けて出ているらしい、と。……楽しみだね、九条さん。その化けの皮、僕が剥がしてあげよう』


 2016年の成瀬。

 東京の代理店で王道を歩む彼にとって、蓮が地方の酒蔵へ戻ったことは、プライドを捨てた「敗北」であり、業界人としての「死」だった。だからこそ、今の世界規模の熱狂を「死人の悪足掻き」として嘲笑しつつも、警戒し始めている。


「上等だ。成瀬。……今度は、お前の得意な『情報の非対称性』で、お前自身を溺れさせてやる」


 俺は暗闇の中で、不敵に笑った。

 42歳の復讐者の魂が、32歳の精悍な肉体の中で、激しく鼓動していた。

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