第4話 鋼の門番と、黄金の雫

 2016年2月11日。

 九条酒造の歴史が始まって以来、これほどまでに張り詰めた朝はなかっただろう。


 蔵の周囲には、昨日よりもさらに多くのメディアや野次馬が詰めかけていた。だが、彼らは蔵の敷地内に一歩も踏み込むことができないでいた。一条亜理沙が差し向けた屈強なセキュリティチームが、鉄のカーテンのように門を封鎖していたからだ。


「……蓮にい、本当にこれでいいの?」


 仕込み蔵の奥で、美月が不安げに鏡を覗き込んでいた。

 今日の彼女は、いつもの泥臭い作務衣ではない。蓮がプロデュースした「特別な戦闘服」を纏っていた。

 深い藍色の、絹のように滑らかな生地で作られた特注の作務衣。それは身体のラインを隠すようでいて、彼女が動くたびに、しなやかで長い肢体のシルエットを美しく強調する。

 髪はあえてルーズにまとめ、後れ毛が彼女の白い首筋にかかっている。ノーメイクに近いが、素材の良さを最大限に引き出す「計算された素顔」が、見る者の保護欲と独占欲を同時に掻き立てる。


「完璧だ。お前はただ、そこに立っているだけで数億円の価値がある」

「また、そんな大袈裟な……」


 美月は頬を微かに染め、視線を落とした。その不器用で、かつ無自覚な色気が、今日の「演出」の要になる。


 午前10時。

 セキュリティの無線が騒がしくなり、門の向こうに一台の漆黒のワゴン――防弾仕様のメルセデス・ベンツ・Vクラスが到着した。


 車が止まり、まず最初に降りてきたのは、エドワード・スターリングではなかった。

 その人物が地面に足を下ろした瞬間、周囲のメディアから息を呑む音が漏れた。


 179センチという、並の日本人男性を見下ろす圧倒的な長身。

 神がかった股下の長さを強調する、シャープなラインのチャコールグレーのパンツスーツ。

 プラチナブロンドの髪をタイトにまとめ、透き通るようなアイスブルーの瞳で周囲を一瞥するその女性は、まるで北欧の神話から抜け出してきた戦乙女のようだった。


 エルザ・ハフナー。

 ハリウッド最強の門番と謳われる、敏腕エージェントだ。


 彼女が歩くたびに、凍てつくような緊張感が広がっていく。健康的なブロンズ肌と、無駄のないモデル級のスタイル。彼女の存在そのものが、ここが地方の田舎町であることを忘れさせ、ベルリンやニューヨークのビジネスセンターのような錯覚を抱かせる。


「……ここが、噂の『秘密の場所』ね」


 エルザは流暢な日本語で呟いた。その声は低く、心地よい響きを持ちながらも、一切の妥協を許さない鋼の硬質さが宿っていた。

 彼女の視線が、出迎えた俺に、そして俺の背後に立つ美月に注がれる。


「私がエルザ・ハフナー。エドワードの代理人よ。……ミスター・九条、あなたの仕掛けたSNSの投稿は、あちらの業界でも随分と話題になっているわ」


 彼女は俺の目の前で足を止め、品定めをするようにアイスブルーの瞳を細めた。


「ですが、私たちは『嘘』と『演出』で塗り固められた世界に住んでいるの。あなたが用意したものが、単なるインスタ映えするだけの『偽物』なら、私たちは1分とどまらずにここを去るわ」

「偽物かどうかは、あなたの舌で確かめていただくのが一番だ」


 俺は一歩も引かず、彼女の瞳を見返した。

 エルザはわずかに眉を動かした。普通の男なら、彼女の180センチ近い長身とエージェントとしての威圧感に気圧されるはずだ。だが、俺は2026年までの地獄で、彼女以上の怪物を何人も相手にしてきた。


「いい度胸ね。……エドワード、降りてきなさい。安全は確認したわ」


 彼女が車に向かって短く告げると、中からカジュアルなパーカーに帽子を深く被った男性が降りてきた。世界で最も有名な顔を持つ男、エドワード・スターリングだ。

 彼は周囲の狂乱を無視し、吸い寄せられるように、俺の隣に立つ美月を見つめた。


「……Wow. She is the one in the photo.」


 エドワードの感嘆の声が漏れる。

 美月は緊張に身体を強張らせながらも、教えた通りに、凛とした態度で深く頭を下げた。


「ようこそ、九条酒造へ。杜氏の白石美月です」


 その声、その仕草、その佇まい。

 エルザの鋭い視線が、美月の指先のタコや、作業着の着こなしに注がれる。彼女は美月が単なるモデルではなく、本物の職人であることを瞬時に見抜いたようだ。


 蔵の中、冷たい空気の中に杉の香りが漂う試飲スペース。

 そこには、昨日の「賭け」の当事者である一条亜理沙も、特等席で待ち構えていた。


 亜理沙は漆黒のドレスを纏い、まるで冷酷な審判のように椅子に深く腰掛けている。

 美月、亜理沙、そしてエルザ。

 タイプの異なる三人の美女が、一つの空間に火花を散らすように対峙している。その光景は、もはや酒の試飲会というよりは、一つの芸術作品のようでもあった。


 周囲で控える蔵の若い男たちは、あまりの美女たちの密度に、まともに呼吸すらできずにいた。


「さあ、見せてちょうだい。世界中のセレブリティを虜にするという、その『一滴』を」


 亜理沙が冷ややかに告げる。

 エルザはエドワードを座らせ、自分は彼の傍らに立ち、鷹のような鋭い目で俺の動作の一つひとつを監視している。


 俺は美月に合図を送った。

 美月は、氷水で冷やされた漆黒の江戸切子のグラスを、三人の前に並べる。

 そして、まだラベルも貼られていない、透明なボトルを手に取った。


「これは、今年一番の出来となった純米大吟醸です。……磨き抜いた米と、この地の水、それ以外には何一つ混じり気はありません」


 美月の手が微かに震えている。だが、酒を注ぐ動作は澱みなく、完璧だった。

 トクトクという心地よい音が響き、透明な液体がグラスの中で真珠のように輝く。


「……テイスティングは私が先に行うわ」


 エルザが、エドワードが手を伸ばすより早くグラスを遮った。

 リスクマネジメント。彼女は、エドワードが「期待外れ」の経験をすることを何よりも嫌うのだ。


 エルザはグラスを鼻に近づけ、一度だけ深く香りを吸い込んだ。

 その瞬間、彼女の表情が微かに、だが確実に揺らいだ。

 アイスブルーの瞳に、戸惑いと驚きが混じる。


 彼女はゆっくりと、その液体を口に含んだ。

 静寂が場を支配する。

 美月は固唾を呑んでエルザの反応を待ち、亜理沙は楽しそうに、あるいは値踏みするようにその様子を眺めている。


 十秒、いや、一分にも感じられる沈黙の後。

 エルザはグラスをテーブルに置き、俺を真っ向から見据えた。


「……ミスター・九条。あなたは嘘つきね」

「どういう意味でしょう」

「『日本酒』だと言ったけれど、これは違う。……これは、『液体になった宝石』だわ。私の故郷、ドイツのリースリングですら、これほどまでに官能的で清らかな衝撃は与えてくれない」


 エルザの唇から、驚嘆の言葉が溢れ出た。

 その瞬間、エドワードが我慢できずにグラスを奪い、一口啜った。


「Amazing...! Arisa, you were right. This is the real Japan I was looking for!」


 ハリウッドスターの感嘆の声が、蔵の梁に反響した。

 亜理沙の口角が、勝ち誇ったように、あるいは満足げに跳ね上がる。


「……合格ね。九条蓮」


 亜理沙の言葉は、一条グループという巨大な資本が、この小さな蔵に流れ込むことを意味していた。

 だが、エルザの瞳はまだ、俺を捉えて離さなかった。


「九条さん。この酒、そしてこの美しき杜氏。……これらを一時のバズで終わらせるのは、人類に対する罪よ。私のエージェンシーは、彼女を『世界の顔』として売り出す用意がある。もちろん、あなたのPRプランがあれば、だけど」


 エルザは、2016年の誰よりも早く、蓮の正体――このバズが偶然ではなく、緻密に計算された「未来の設計図」であることを確信していた。


 俺は、隣で呆然としている美月の肩を抱いた。

 彼女の温もりと、蔵を包む勝利の予感。

 2026年で全てを失った俺が、今、2016年の世界をハックし始めた。


「言ったはずです、一条さん。エルザさん。……これから、九条酒造の名前は世界の常識になる。これはまだ、プロローグに過ぎない」


 俺は暗闇の中で、不敵に笑った。

 その笑みは、42歳までの経験を全て注ぎ込んだ、最強のPRプランナーのそれだった。


 だが、勝利に沸く蔵の影で、俺は2026年のあの男――成瀬の顔を思い出していた。

 このバズが大きくなればなるほど、あいつもまた、俺の存在に気づくことになる。

 宣戦布告は、もうすぐだ。


 美月が、俺の腕の中で小さく、だが確かな力強さで俺のシャツを握りしめた。

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