第3話 審美眼の怪物と、静かなる宣戦布告
2016年2月10日、午前8時。
九条酒造の朝を切り裂いたのは、普段は鳴ることの少ない黒電話の無機質なベルの音だった。
「……はい、九条酒造です。え? はい、そうです。あ、いや、え? イングリッシュ? ちょっと待って、美月! 美月おるか!」
事務所から聞こえる親父のうろたえた声が、蔵の静寂を粉砕する。
俺は冷え切った縁側で、スマートフォンの画面を眺めていた。通知欄はすでに麻痺している。一秒ごとにスクロールされるタイムラインには、英語、フランス語、中国語、そして日本語が入り乱れ、昨日俺が投稿した「一枚の写真」を巡って狂乱の宴が続いていた。
昨夜の投稿は、今や12万いいねを超えている。
2016年のInstagramにおいて、この数字は単なる「バズ」ではない。一つの「社会現象」への入り口だ。
「蓮にい、大変だよ! 父さんがパニックになってて……それに、蔵の門の前に、なんだか変な人たちがたくさん集まってきてる!」
廊下を走ってきた美月が、俺の部屋の障子を勢いよく開けた。
朝の光を背負った彼女は、昨日よりもさらに輝いて見えた。作業着の隙間から覗く白い首筋が、興奮でわずかに上気している。
乱れた髪、驚きに見開かれた涼しげな瞳、そして少しだけ開いた形の良い唇。
その姿は、どんな高価な宝石を纏った令嬢よりも、見る者の本能を揺さぶる。
「落ち着け、美月。電話は全部無視しろ。門の前にいる連中もだ。あれはただの『野次馬』に過ぎない」
「無視って……海外からの電話みたいだよ? それに、外にはカメラを持った男の人たちが十人以上もいて、私の名前を呼んでるんだよ!」
俺は立ち上がり、美月の肩を優しく、だが力強く掴んだ。
彼女の身体が微かに震えているのが伝わってくる。無理もない。昨日まで、彼女を追いかけていたのは地元の冴えない独身男たちの視線だけだったのだ。それが一晩にして、世界中の好奇心の矢面に立たされたのだから。
「美月、お前はただ、最高の酒を造ることだけを考えていればいい。それ以外をコントロールするのが、俺の仕事だ」
「……でも、これじゃ仕事にならないよ」
「いいや、これが『仕事』の始まりだ。3000万の借金を一瞬で溶かすためのな」
俺は彼女を安心させるように、微かに笑みを浮かべた。
2026年で培った、嘘と真実を混ぜ合わせるための完璧なポーカーフェイス。
美月はその瞳をじっと見つめ、やがて小さく頷いた。彼女の瞳に、再び強い意志の光が宿る。その一瞬の表情の変化さえもが、映画のワンシーンのように美しい。
正午過ぎ。
九条酒造の門前に集まっていた野次馬たちが、一斉に道を空けた。
雪に覆われた未舗装の道を、この村には似つかわしくない重厚な黒塗りのセダンが滑るように入ってきたからだ。
ベントレー・フライングスパー。
地方都市の小さな酒蔵には、あまりにも不釣り合いな「資本の象徴」。
車のドアが静かに開くと、一人の女性が降り立った。
その瞬間、周囲にいた男たちの呼吸が止まった。
美月が「野生の輝き」を持つ至宝なら、目の前の女性は「計算された完璧」を具現化した存在だった。
一条亜理沙。
漆黒の髪をタイトにまとめ、知性を象徴するような完璧に整えられた濃い眉。その下にある深みのある瞳は、周囲の野次馬を人間として認識していないかのような、絶対的な高貴さを湛えている。
彫刻のように端正なエキゾチックな美貌。彼女が雪の上に一歩を踏み出すたびに、そこが寂れた酒蔵の庭であることを忘れさせるほどの威圧感が広がった。
「……ここね。悪趣味なバズの発生源は」
彼女は、最高級のウールコートの襟を立てながら、冷徹な声で呟いた。
俺は事務所の入り口で、彼女を待っていた。
「一条グループの令嬢が、こんなド田舎までわざわざ何の御用ですか。一条亜理沙さん」
「……私の名前を知っているのね。この村の住人にしては、少しは勉強しているようね」
彼女の視線が、俺を射抜く。
普通の男なら、その眼力だけで縮み上がるだろう。だが、俺は42歳までの経験の中で、彼女のような「怪物」を何人も相手にしてきた。
「PRプランナーの端くれですから。日本で最も鋭い審美眼を持つ投資家が、誰なのかくらいは把握していますよ」
「ふふ、面白いわ。その割には、あなたが仕掛けた『罠』は少しばかり露骨だったけれど。……あのInstagramの投稿、あれを撮ったのはあなたね?」
亜理沙は俺のすぐそばまで歩み寄った。
彼女からは、高級なパフュームと、それ以上に冷徹な「理知」の香りがした。
「エドワード・スターリングをおびき寄せるための、極めて精巧なフェイク。……いえ、素材は本物のようね。奥で震えているあの娘の美しさは、確かに私のコレクションに加えてもいいレベルだわ」
彼女の言葉には、対象を「人間」ではなく「資産」として見る冷たさがあった。
奥から様子を伺っていた美月が、亜理沙の視線に気づいて肩をすくめる。
雪国で育った白く透明な美しさと、都会の権力の中で磨き抜かれた漆黒の美しさが、火花を散らす。
集まっていた男たちは、その二人の美女が醸し出す異常な空気感に圧倒され、誰一人として声を出すことができない。
「彼女は資産ではありません。九条酒造の魂ですよ」
「魂? 笑わせないで。PRマンが口にする一番安っぽい言葉だわ。あなたがやっているのは、伝統を切り売りして一時の流行に変える、ただの延命措置に過ぎない」
亜理沙は俺の胸元を指先で軽く叩いた。
その指先の動きさえも、優雅でいて、致命的な急所を突くような鋭さがある。
「でも、認めざるを得ないわ。あなたは『タイミング』だけは知っている。……明日、エドワードがここに来るわね。あなたはそれを確信して、あの写真を投げた」
「ご明察です」
「彼は私のクライアントでもあるの。私の目の前で、彼に安っぽい『偽物』を掴ませるわけにはいかないわ」
彼女は不敵な笑みを浮かべた。
その笑みは、2016年の誰よりも先を見据えている、選ばれし者の余裕だった。
「条件があるわ。九条蓮さん」
「……聞きましょう」
「明日、彼を満足させることができなければ、あなたはこの蔵の権利をすべて一条グループに譲渡しなさい。その代わり、もし成功すれば……私があなたの『バック』についてあげる。世界中のハイエンドなマーケットに、この泥臭い酒をねじ込んであげるわ」
周囲がざわついた。
美月が不安げに俺を見つめる。親父は腰を抜かして座り込んでいる。
だが、俺の心は驚くほど静かだった。
「いいでしょう。その賭け、乗りますよ。ただし、一条さんが味方になる時は、僕の言い値で動いてもらいます」
「……面白い男ね。自分の立場を分かっているのかしら」
「立場を決めるのは現在ではありません。未来ですよ」
俺は亜理沙の瞳を真っ向から見返した。
彼女は一瞬、驚いたように目を見開き、やがて楽しそうに喉を鳴らして笑った。
「いいわ。その傲慢さ、嫌いじゃない。……明日を楽しみにしているわ」
彼女は翻り、再びベントレーに乗り込んだ。
嵐が去った後のような静寂が戻る。だが、門の外には依然としてメディアの影が蠢き、世界中からの期待という名の巨大な圧力が、この小さな蔵を押し潰そうとしていた。
「……蓮にい、本当に大丈夫なの? あんな怖い人まで出てきて……」
美月が俺の袖を掴む。彼女の指先は冷え切っていた。
「大丈夫だ。あの女は、俺たちが勝つための『最後のピース』に過ぎない。……さあ、美月。最高の酒を準備しろ。明日は、世界が九条酒造にひれ伏す日だ」
俺は2026年の記憶を辿り、エドワード・スターリングが愛してやまない「味」のプロファイルを脳内で再構成する。
美月の技術。亜理沙の人脈。そして俺の未来。
2016年をハックするためのチェス盤は、今、完璧な形で組み上がった。
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