第2話 素材の暴力と、ハックされる2016年
「……本気なの? 蓮にい」
九条酒造の薄暗い仕込み蔵。
朝の冷気が足元を這い、麹の甘い香りが微かに漂う空間で、美月は呆然と立ち尽くしていた。
俺の指先が触れた顎の感触がまだ残っているのか、彼女は落ち着かない様子で自分の顔に手を当てている。その仕草一つをとっても、計算されたスチール写真のような完璧な構図になってしまう。
「本気じゃなければ、わざわざこの雪深いド田舎に戻ってきたりはしない。俺の時間は、お前が考えているより一兆倍は価値があるんだ」
俺は2016年のスマートフォン――iPhone 6sを操作しながら、冷淡に言い放った。
画面の中では、まだ「おすすめユーザー」に有名芸能人ばかりが並ぶ、牧歌的な時代のInstagramが開いている。
「価値、ね……。東京でそんなに偉くなったわけ? 少なくとも、昨日までの蓮にいは、ただの『逃げ出した負け犬』にしか見えなかったけど」
美月の言葉は鋭い。だが、その声には以前のような純粋な軽蔑ではなく、正体不明の熱に当てられたような動揺が混じっていた。
彼女は長い脚を不器用に組み替え、作務衣の裾を整える。その動作で露わになる足首の細さ。長靴という無骨なアイテムを履いてなお隠しきれない、天性のプロポーション。この村の男たちが、冬の厳しい作業の中でも彼女を一目見ようと蔵に集まるのも頷ける。彼女が存在するだけで、そこは古臭い酒蔵ではなく、ヴォーグの撮影スタジオのような空気を帯びてしまうのだ。
「過去の俺がどう見えていたかはどうでもいい。重要なのは、これから世界がどう俺を見るかだ。……美月、今から三時間、蔵の仕事は親父に任せろ。お前を連れ出す」
「連れ出すって、どこに? これから麹の様子を見なきゃいけないのに」
「リブランディングの第一歩だ。その泥臭い作務衣を脱ぎ捨てて、お前の『真の価値』を可視化しに行く」
俺たちは地元の駅前にある、これといった特徴もない駅ビルへ向かった。
2016年の地方都市。まだ「インフルエンサー」という言葉すら一般化していないこの場所で、美月の存在は文字通り異質だった。
駅のロータリー。
コンビニの前にたむろしていた学生たちが、俺たちの横を通り過ぎる瞬間、一斉に声を失った。
「……おい、見たかよ。今の」
「モデルか? 芸能人じゃないか?」
ヒソヒソという声が背後から追いかけてくる。美月はそれをいつものことのように無視しているが、その不機嫌そうな横顔がまた、クールな色気を撒き散らしていた。
男性たちの視線は、美月の長い黒髪、切れ上がった瞳、そしてスキニーパンツの上からでも一目でわかる驚異的な脚のラインに釘付けになっている。彼女が歩くたびに、周囲の空間から色彩が抜け、彼女一人だけにスポットライトが当たっているような錯覚を覚える。
「……蓮にい、さっきから皆がジロジロ見てて気持ち悪いんだけど。やっぱり帰る」
「慣れろ。これからお前は、この何万倍もの視線に晒されることになるんだ。これは訓練だと思え」
「何万倍って……冗談でしょ」
俺は彼女を、駅ビルにある唯一のセレクトショップへと連れ込んだ。
2016年。流行はまだ、テレビや雑誌という「古い権力」によって作られていた。だが、俺は知っている。あと数ヶ月もすれば、個人が発信する「スマホの中の世界」が、それら全てを飲み込んでしまうことを。
「この店で、俺が指定する服を試着しろ」
「……いいけど、お金なんてないよ? 私の給料、蔵の借金返済に回してるんだから」
「カードで払う。俺の数少ない、東京での『戦利品』だ」
俺が選んだのは、オフホワイトのざっくりとしたニットと、淡い色のダメージジーンズ。そして、あえての無造作なポニーテールを作るためのシルクのリボンだ。
2016年の流行に合わせつつ、あえて「隙」を作る。
美月の美しさは「完成」されすぎている。あまりに完璧すぎると、大衆は恐怖を覚えて親近感を抱かない。だからこそ、少しだけ崩す。その「崩し」こそが、2026年の世界で俺が数千回と繰り返してきたバズの方程式の一つだ。
十分後。
フィッティングルームのカーテンが開いた。
「……これで満足?」
そこに立っていたのは、もはや「蔵娘」ではなかった。
ニットの襟元から覗く白い鎖骨。ジーンズに包まれた、天まで届きそうな長い脚。そして、あえて薄く施したメイクが、彼女のクールな瞳をより一層強調し、吸い込まれるような魔力を放っている。
店内にいた男性客はもちろん、女性店員までもが手を止めて見惚れていた。
「……完璧だ。素材の暴力だな」
「暴力って……言葉が悪いよ」
美月は少し照れたように視線を逸らしたが、鏡に映る自分自身の姿に、どこか驚きを隠せないようだった。
自分の価値を、自分だけが知らない。それが今の美月の最大の弱点であり、そして最高の「魅力」だった。
俺は彼女の肩を抱き寄せ、自撮りの準備をする。
iPhone 6sのカメラ。画質は2026年に比べれば粗いが、それがかえって「生っぽさ」を強調する。
「いいか、美月。これから俺のアカウントでお前をアップする。タグは……#JapaneseSake #Artisan #Tradition。そして、来週来日するあの男のファンが見つけるための、特定のキーワードを忍び込ませる」
「あの男? ハリウッド俳優の、エドワード・スターリングのこと?」
「そうだ。彼は2月14日、バレンタインデーにお忍びで日本に来る。目的は、彼が極秘で進めている新作映画のロケハンと、自分へのご褒美の『最高の一献』を探すことだ」
美月が目を見開いた。
「……なんでそんなこと知ってるの? ニュースにもなってないのに」
「俺は未来から来た、と言ったら信じるか?」
「……信じない。詐欺師の冗談にしか聞こえない」
美月は呆れたように笑った。
だが、その笑顔を捉えたシャッター音は、間違いなく2016年を、そして世界を揺るがす最初の一撃になる。
蔵に戻った頃には、日はすっかり暮れていた。
作業着に戻った美月は、再び冷たい空気の中、タンクの温度調整に向かう。
俺は執務室に籠もり、スマートフォンの画面を操作し続けていた。
2016年の世界では、まだ「アルゴリズムをハックする」という発想が貧弱だ。
どの時間に、どのハッシュタグを使い、どのインフルエンサーのフォロワーに情報を流せば、雪だるま式に情報が膨れ上がるか。2026年でSNSの炎上と称賛の狭間を生き抜いた俺にとって、それは子供のパズルのようなものだった。
夜の11時。
アメリカの東海岸が朝を迎える時間。
俺は一枚の写真を投稿した。
薄暗い蔵の中で、一筋の光を浴びながら、真剣な眼差しで櫂を入れる美月の姿。
先ほど店で整えた髪は乱れ、頬には一筋の汗が流れている。
だが、その表情は聖母のように気高く、そして戦士のように鋭い。
「素材の暴力」に「伝統」という物語を掛け合わせ、ビジュアルイメージを隠し味に添えた、究極のバズ・ベイト。
投稿ボタンを押した瞬間、俺の脳裏には2026年のあの地獄のような赤い数字がよぎった。
だが、今度の数字は違う。
これは俺を殺す数字ではなく、俺と美月、そしてこの蔵を、世界の王座へと押し上げるための数字だ。
「……さあ、見つけてみろ。エドワード・スターリング」
俺は暗闇の中で、不敵に笑った。
冷徹で完璧な笑み。
翌朝。
九条酒造の古びた事務所にある固定電話が、鳴り止まなくなることを確信しながら。
俺は2016年という、最高に御しやすい時代を支配するためのチェス盤を、一段階進めた。
一方、そんな俺の策略も知らず、美月は蔵の中で一人、自分の中に芽生えた不可解な高鳴りを静めるように、冷たい水に手を浸していた。
「……蓮にい。あんた、本当に何者なの……」
彼女の呟きは、誰に届くこともなく、麹の香りと共に消えていった。
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